黒澤征の素性は、まるで霧の中に包まれているようだった。山本玲は銀行のネットワークを総動員して調べ上げたが、得られた情報はわずかだった。
三十二歳、東京の黒澤家の次男でありながら、父親に指名された後継者。高校時代から海外へ留学し、卒業後はちょうど黒澤重工の事業転換期と重なり、長年海外事業を任されていたが、最近になって本格的に帰国したばかり。
すべての情報は一つの事実に行き着く――黒澤征がこれから黒澤重工を完全に引き継ぎ、もう海外に戻ることはないということだった。
小野鈴にとって、それはまるで逃れられない呪縛のようだった。
黒澤征の私生活については、さらに謎に包まれていた。
山本玲があらゆる手を尽くした結果、かろうじて掘り出せたのは、ぼんやりとした過去のエピソードだけだった――二十歳を過ぎた頃、大学時代から付き合っていた恋人がいて、社会人になってからも一緒だったが、最終的に別れたらしい。そして黒澤征はその恋人を追い、パリまで行ったことがあるという噂もあった。
「ちょっと待って、パリ?」佐藤奈々が鋭く小野鈴を見つめた。
小野鈴の拳は、すでに固く握りしめられている。
山本玲がその話を語るたび、冷たい予感が小野鈴を包んだ。
「パリまで追いかけた」という言葉が出た瞬間、彼女の中で曖昧だった疑念が確信に変わった――あの時、黒澤征が彼女にお金を渡して引き留めたのは、恋人を取り戻すのに失敗した後の、ただの気晴らしだったのだ。
だから、あの時彼が出した条件は、あんなにもあっさりしていて、少しの情も感じられなかったのだ。
山本玲の目にも、すべてを悟ったような色が浮かび、心配そうに小野鈴を見つめた。
「……あの時、そうだったの。」小野鈴の声はかすれていた。
「じゃあ、その女の人は彼の中で相当大事な存在だったってことね。」佐藤奈々が顎に手を当てながら言う。「誰なのか調べられそう?」
山本玲は首を振った。「今のところ、分からない。」
「私の経験からするとね――」佐藤奈々が断言する。「きっと、忘れられない“初恋”とか“運命の人”ってやつよ。」
小野鈴は黙り込んだ。どんなに“初恋”でも“運命の人”でも、自分はただ、お金で買われた存在に過ぎない。
「ここ数日……彼から連絡あった?」山本玲が尋ねる。
「ないわ。」小野鈴が答えた。
「じゃあ、しばらく様子を見ましょう。」山本玲が即座に判断した。「明日は私と奈々で付き添うから、手術の準備もできてるわ。」
小野鈴がうなずこうとしたとき、突然スマートフォンが鳴り響いた。その音は、妙に鋭く感じた。
画面には「お母さん」と表示されている。慌てて通話ボタンを押した。「お母さん――」
しかし、電話の向こうから聞こえてきたのは、見知らぬ男の声だった。「小野蘭子さんのお宅の方ですか?東京都立中央病院の腎臓内科です。お母様が今、緊急搬送されています。」
小野鈴は立ち上がると同時に叫んだ。「ありがとうございます!すぐ行きます!」
二十分後、小野鈴は山本玲と佐藤奈々に付き添われて、東京都立中央病院に駆け込んだ。
母・蘭子はいまだ救急処置室にいた。小野鈴はさっき電話をくれた医師に事情を尋ね、母親が自宅で倒れているところを近所の人に発見され、救急搬送されたと聞いた。
「腎臓の問題が疑われますが、詳しくは救命処置が終わったら主治医の市村先生に聞いてください。」医師はそう説明した。
小野鈴は目に涙を浮かべて、うなずいた。
一方その頃、高橋健太のチームはついに黒澤重工からのゴーサインを得ていた。
早朝、高橋は福栄不動産の主要メンバーを率いて黒澤重工へ。重要な提案のプレゼンテーションの準備を進めていた。
黒澤征本人も出席するということで、チームは早々と会議室で待機していた。
その最中、高橋の携帯が震えた。画面に「小野鈴」の名前が表示される。少し迷った後、彼は席を立って廊下へと急いだ。
「鈴、今ちょっと忙しいんだけど、どうした?」電話を取ると、いつもより早口になる。
「お母さんが入院したの……」小野鈴の声は今にも泣き出しそうだった。「東京都立中央病院で救命中なの。来られる?」
高橋は眉をひそめた。「蘭子さん、何があった?落ち着いて。」
「詳しくはまだ……たぶん腎臓のせい。」小野鈴は嗚咽混じりで答える。
高橋は時計を確認した。「あと二、三時間待ってくれる?こっちの仕事が終わったらすぐ行く。今はどうしても抜けられないんだ。」
電話の向こうが静かになる。
彼は鈴が納得していないのを察し、丁寧に説明した。「今、黒澤重工にいて、黒澤社長の前でプレゼンなんだ。俺がメインで話すから、今は本当に外せない。」
「……わかった。仕事頑張って。」小野鈴は深呼吸してそう答えた。
「終わったらすぐ行くから。不安なら俺がいるから大丈夫。」高橋は急いで励ましの言葉を残し、通話を切った。
会議室に戻ろうとしたそのとき、不意に黒澤征と鉢合わせた。黒澤は、すでに廊下に立っていたようだ。
高橋は一瞬どきりとして、「黒澤社長」と声をかけた。
黒澤の視線は、高橋の手元のスマートフォンに一瞬流れた。「ご家族のことで何かありましたか?日程は調整できますよ。」
高橋はすぐに手を振った。「いえ、大丈夫です。妻が対応していますので。」
黒澤は軽くうなずき、口元に何とも言えない微笑を浮かべた。
「小野先生は本当に気配りのできる方ですね。男なら誰でもそんな女性が好きになるでしょう。」
一度言葉を切って、高橋の顔をじっと見つめ、「高橋主任も気を付けて。黒澤凛のことは、私がしっかり管理しておきます。」
そういうことかと高橋はほっとし、「ありがとうございます、社長」と頭を下げた。
黒澤はその場に立ったまま、高橋が会議室に消えるのを見送った。すぐそばに田中聡が静かに近寄る。
「どうぞ。」黒澤はシャツのボタンを一つ外しながら言う。
田中は小声で報告した。
「小野先生は確かに病院に行きましたが、前回ご指示された手術ではなく――ご家族のことで、腎臓内科でまだ救命中です。」