病院棟のそばにある小さな庭で、小野鈴と高橋健太が向かい合っていた。
高橋健太はそっと手を伸ばし、彼女の頬に残った涙の跡を指先で拭った。「医者は何て?お母さん、これまで元気だったのに、どうして急に……」
「腎不全だって。」小野鈴の声はかすれ、鼻声が強く混じっている。「移植が必要みたい。」
高橋は一瞬、言葉を失った。移植――その言葉には高額な費用がつきまとう。
小野鈴が働き始めてようやく二年ほど。貯金も多くはない。結婚も控えているこのタイミングで、その費用は間違いなく自分の肩にも重くのしかかる。
しばらく沈黙した後、高橋は小野鈴の華奢な肩に手を置いた。「ほかに方法はないの?」
「透析でも命は繋げるけど、移植ほど根本的な治療にはならないし、完治の可能性も低いんだ。」小野鈴はうつむきながら答えた。
高橋は眉をひそめる。「でも移植だってドナーとの適合が必要だろ?もし合う腎臓が見つからなかったら……」
「明日、まず私が適合検査を受けるよ。」小野鈴は乾いた唇を噛みしめ、かすかな希望を目に浮かべた。「医者によれば、血縁者の方が成功率が高いって。」
高橋は何か言おうとしたが、言葉が喉に詰まった。
小野鈴は彼のためらいに気づき、自分から切り出した。「お金のことは借りるから、迷惑はかけない。私はただ……」
「何言ってるんだよ!」高橋は彼女の言葉を遮り、強く抱きしめて背中を優しく叩いた。
「もうすぐ家族になるんだぞ。こんなこと、一人で背負う必要なんてない。お金のことは一緒に考えよう、俺がついてる。」
少し声を落としながら尋ねた。「医者は、いくらくらいって?」
小野鈴はゆっくりと指を三本立てた。
高橋の顔からさっきまでの安堵が消え、思わず声を上げた。「そんなにかかるのか?」三百万円なら、せいぜい三十万程度だと思っていたのに。
小野鈴は口を閉ざした。
高橋の反応も無理はない。三百万円は、誰にとっても重すぎる金額だ。
「保存療法は?」高橋が病院棟の方を見やりながら言った。「明日、俺も医者に詳しく聞いてみる。」
小野鈴の胸が沈んだ。高橋の言葉の裏にある本音――移植には賛成していないのだと、はっきり分かった。
小野蘭子は今もICUにいて、まだ面会の時間ではない。
経済的な理由もあり、小野鈴は学校に戻り授業に出た。午前最後の授業は黒澤凛のクラスだった。終業のチャイムが鳴り、教科書を片付け終えたところで、高橋から電話がかかってきた。
小野鈴は急いで校舎の静かな角に向かい、電話に出た。「健太?」
高橋の声が届く。「医者に聞いてきたけど、保存療法なら一回二、三万円だって。まずはこっちを選ぶ方が現実的じゃないかと思う。」
小野鈴はすぐに眉をひそめた。昨夜、勝手に医者に相談しないでと念を押したばかりなのに。
「透析はつらいし、成功率も低い。お母さんの体がもたないよ。」気持ちを抑え、できるだけ穏やかに返した。
「わかってるよ、鈴。」高橋は苦しげに言葉を続ける。
「でも三百万円は大金だよ。もし無理して出して、手術が失敗したら?それに、まだ二十代で腎臓を一つ失ったら、今後どうなるか……君が親孝行なのはわかるけど、自分のことも考えてほしい。お母さんだってきっと、そんな無茶は望まないよ。」
「お金のことは自分で何とかする。」小野鈴は彼の言葉を遮り、視線を足元に落とした。
「意見が合わないから、もうこの話はやめよう。同僚に呼ばれたから切るね。」初めて、高橋の返事を待たずに電話を切った。
胸に重苦しさを感じつつ、深く息を吸い、歩き出そうとした。
顔を上げた瞬間、足が止まった。
黒澤凛が校舎の廊下にいるのは珍しくない。
だが、その隣にいる背の高い、洗練されたスーツ姿の男性――黒澤征。
小野鈴の頭は一瞬真っ白になった。黒澤征がなぜここにいるのか考える暇もなく、黒澤凛が数歩で彼女の前に立ち、腕を強く掴んだ。
小野鈴は驚き、反射的に黒澤征の方を見た。
黒澤征は彼女を見つめ、どこか含みのある微笑を浮かべている。
小野鈴は身震いし、腕を引き抜こうとした。「凛くん、ここは学校よ!」
「家の人、病気なんだって?」黒澤凛はさらに強く腕を握り、あからさまな皮肉を込めて言う。「あの情けない彼氏は治療費も出せないの?君は何のために彼と一緒にいるの?」
小野鈴の心臓が沈んだ。
電話の内容を聞かれていた?それなら黒澤征にも……?逃げ場のない恥辱感が一気に押し寄せる。
自分の体面などどうでもいいはずなのに、黒澤征にこんな姿を見られたことだけは、どうしても耐えられなかった。強烈な羞恥心が胸を締め付ける。
「これは私の問題です。」小野鈴は勢いよく腕を振りほどき、顔を背けて早歩きで階段へ向かった。
気が動転していたせいか、黒澤征のそばを通り過ぎるとき、小野鈴は足元につまずいて、前のめりに倒れそうになった。
だが、思っていたようなみっともない転倒にはならなかった。
温かくしっかりとした手が、ちょうどよい力加減で彼女の腕を支え、倒れるのを防いだ。
「小野先生、気をつけてください。」黒澤征の低く落ち着いた、どこか距離を感じさせる声が耳元に響いた。
小野鈴は火傷したように身を引き、素早く腕を引っ込める。「……ありがとうございます。」顔を上げることもできず、教科書を胸に抱きしめ、逃げるように階段を駆け下りていった。
黒澤征は彼女の慌てた後ろ姿を見送りながら、長い指で無意識に腕時計の盤面をなぞっていた。
「征叔父さん、ちょっと頼みがある。」黒澤凛が近づいてきた。「小野鈴さんのお母さんの病状、調べてほしい。」