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第十二話 まさか本気で信じているの?


オフィスには誰もいなかった。小野鈴は椅子にもたれかかり、背中にじわじわと冷たさが広がるのをようやく感じ取った。


黒澤征に会うたび、どうしようもない震えが無意識に湧き上がる。

かつての畏敬の念は、いまや恐怖へと変わっていた。彼に、必死で隠してきた過去を簡単に暴かれてしまうのが怖かった。あの惨めな記憶を日の下に晒されたくなかった。


じっと座ったまま、ようやく動悸が落ち着く。携帯を取り出そうと手を伸ばすと、指先に何か固いものが触れた。


パサッ。


金色に輝く名刺が足元に落ちる。


不思議に思いながら拾い上げ、「黒澤征」の名前とプライベート番号が目に入ると、呼吸が止まりそうになった。


さっき校舎で彼に支えられたとき、気付かぬうちに押し込まれたのだ。


その意図は……あの低い声が耳元によみがえる。「最近、周りに誰もいない。これからも俺のそばにいるか?」


鈴の指がぎゅっと名刺を握りしめ、硬い紙が手の中で歪んでいく。


忘れようもない。征はいつも、こうして自分の立場を思い知らせてくる――まるで金で買ったモノのように。


あの夜の記憶が蘇る。熱い吐息が耳元をかすめ、優しい声色で告げる言葉は、氷のように冷たい。「君は俺が金で手に入れたものだ。もっと価値を見せてくれよ、満足させてくれ。」


金で買われたモノ――それが彼の世界での自分のすべてだった。


だからこそ、鈴が金に困っていると知ったとき、彼は当然のように名刺を差し出した。ちょうど、値段さえ合えばいつでも買い戻せる、売り物のように。


息がまた乱れ、名刺を睨みつけたまま、勢いよく引き裂いてゴミ箱に投げ捨てた。


目に熱いものがこみ上げ、肩が小さく震える。


黒澤重工の最上階オフィスには、上質な玉露の香りが漂っている。


黒澤凛は田中聡から手渡された小野蘭子の病状報告書をテーブルに叩きつけ、口元に皮肉な笑みを浮かべた。「たった三百万円も用意できない奴が、俺と張り合うなんて?」


田中は控えめに立ち、そっと黒澤征の様子を窺う。


征は淡々とお茶をすすり、まるでこの騒ぎとは無関係のようだ。


「今回はどうやって出てくるか見ものだな。」凛は満足げに続ける。


征は湯呑みを置き、凛に視線を向けた。「どう動くつもりだ?」


「簡単さ。」凛は眉を上げて答える。「俺が金を出して、一番腕のいい医者に治療させれば、あの女もあんな役立たずとはすぐに別れるだろう?」


「本当にそう思うのか?」征は口元にわずかな笑みを浮かべる。


「金がないと夫婦もうまくいかないものだよ。征叔父さん、知ってるだろ?」凛は自信ありげだ。


征は指で湯呑みの縁をなぞる。「高橋健太がその金を出さないと、本当に思ってるのか?」


「フン。」凛は鼻で笑った。「男の腹の内なんてわかってるさ。本当に出す気があったなら、昨夜すぐにでも承諾したはずだ。言い訳ばかりして結局何もしない。小野鈴だけが騙されてるんだ。」そして征の顔色をうかがう。「俺のやり方、どう思う?」


征はまたお茶を口にし、ゆっくりと泡を吹き飛ばした。「好きにしてみれば?」


「じゃあ、医者は……」


「彼女がその気になってからでいい。」征は静かに言った。


凛は満足そうに笑った。「よし、それで決まりだ。」


午後の授業が終わると、鈴の体力はもう限界だった。


四時半、重たい足取りで校門を出てバス停に向かう。


突然、無骨なベンツGクラスが目の前に停まり、進路をふさぐ。


窓が下がり、黒澤凛がにやりと笑っていた。「乗れよ。病院だろ?ついでに送ってやる。」


鈴は言葉をのみ込みかけたが――


「乗らないのか?」凛は口元を歪め、「今すぐお母さんをICUから出すように手配してもいいんだぞ?」


身体が固まる。冷たい脅しにすべての抵抗心が凍りつく。鈴は黙ってドアを開け、助手席に座った。


エンジンが低く唸り、車は病院へ向かう。


鈴は窓の外の流れる景色をじっと見つめ、黙り込んだ。ここまで彼女の行動を読めるということは、母の状況もすべて調べ上げたのだろう。


黒澤征も……バッグの持ち手を強く握りしめる。


「お母さんの手術費、俺が何とかしてやろうか?」凛が沈黙を破った。


「結構です。」鈴は顔を向けず、かすれた声で、しかしきっぱりと答える。「私と夫で何とかします。ご厚意は要りません。」


「夫?」凛は心底おかしそうに笑い、横顔をじろりと見つめる。「あの腰抜けのことか?奴に何ができる?腎臓でも売るつもりか?」


胸が痛んだ。その他人を虫けらのように見る態度は、征とそっくりだった。


こんな下に見る物言いにはうんざりだし、説明する気もない。「これは私たちの問題です。」


「そんなことすら支えられない男と一緒にいて、何がいいんだ?」凛は嘲るように言う。「まさか、あの程度の“愛”とやらを信じてるわけ?」


鈴はようやく凛の目をまっすぐ見返し、はっきりと答えた。「ダメですか?」


凛はあきれたように吹き出し、密閉された車内に冷たい笑い声が響く。「小野先生、まさか……本気でそんなものを信じてるんですか?」


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