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第十三話 小野先生の魅力


車は横浜市立第三病院の入院棟の前に停まった。小野鈴は小さな声で「ありがとう」と言い、そそくさとドアを開けて降りようとした。


だが、黒澤凛もすぐに車を降り、彼女の後を追った。


その意図に気づいた鈴は、振り返って止めようとしたが、ちょうどそのとき、入院棟から急ぎ足で出てきた誰かにぶつかり、よろめいてしまった。


凛は素早く彼女の肩を支え、しっかりと体を支えた。「大丈夫?」


鈴がまだ彼の腕から離れられないうちに、高橋健太の怒鳴り声が響いた。「君たち、何してるんだ!」


健太は少し離れたところに立ち、凛の手が鈴の肩にあるのを睨みつけていた。


鈴は胸が重く沈み、慌てて凛の腕を振りほどいた。何か説明しようとしたが、健太はすでに大股で歩み寄り、彼女の手を強く引き寄せた。手首に痛みが走ったが、鈴は声を上げずに耐えた。


「強く握りすぎですよ」と、凛の声は冷たくなった。


「夫婦のことに、他人が口出しするな!」健太は険しい口調で言い放った。


凛は鼻で笑い、軽蔑の眼差しを向けた。「自分の奥さんの母親の手術代も出せないくせに、よくそんなことが言えるな?」


健太の顔はみるみる青ざめ、鈴の方を見て裏切られたような目で問い詰める――なぜ凛がそんなことを知っているのか。


「とりあえず、中に入りましょう」と、鈴は一刻も早くこの場を離れたがった。


「前から言ってるだろ、お前みたいな甲斐性なしは、さっさと身を引けよ」と、凛の挑発はますます露骨になっていく。


「何だと!」健太はプライドをひどく傷つけられ、拳を握りしめて凛を睨みつけた。


凛は一歩も引かず、逆に前に出た。「どうした?図星か?やれるもんならやってみろよ」


今にも殴り合いになりそうな緊迫した空気のなか、しっかりとした手が凛の肩に静かに置かれた。


「凛。」


その声に鈴の体は一瞬でこわばり、思わず顔を上げた。


黒澤征。


なぜ、ここに……?


「征さん……」凛は征の顔を見ると、さっきまでの高圧的な態度が少しだけ落ち着いた。


征は凛には目もくれず、健太と鈴の方に視線を向けた。健太が鈴の腕を強く掴んでいるのを一瞥し、口元に穏やかな微笑みを浮かべた。「高橋さん、小野先生、ご迷惑をおかけしました。」


鈴は唇をきゅっと結び、何も言わなかった。


健太は内心苛立ちながらも、仕事上の立場もあり、征には強く出られずに低い声で返した。


「黒澤さん、ご自分の身内のことはご自身でお願いします。」


「もちろんです」と、征は微笑みを崩さず、ちらりと鈴の青ざめた顔に目をやった。「小野先生は本当に魅力的ですね。つい夢中になってしまいます。」


鈴は背筋がぞわっとした。征の言葉は淡々としているが、まるで凛のことではないようだった。


結局、征の登場でその場の空気は収まりを見せた。


鈴と健太は入院棟の前のベンチに座り、小野蘭子の治療方針について話し合った。


健太は何とかして鈴に保守的な治療法を勧めようとしたが、鈴は移植手術しか助かる道はないと譲らない。


議論は平行線をたどり、どちらも相手を説得できなかった。


やがて健太は苛立ちを隠せず、声も尖ってきた。「わざわざ借金してまで腎臓移植なんて、本当にそこまでする必要があるのか? これからの生活はどうなるんだ?」


「お金のことは自分で何とかするから、あなたは心配しなくていい」と、鈴はきっぱりと言った。


健太はまるで痛いところを突かれたように声を荒げた。「そんなことできるわけないだろ? 母親が病気なのに俺が何もしなかったら、周りにどう思われる?」


凛の「甲斐性なし」という言葉が、健太の頭の中でこだました。もし本当に何もせずにいたら、その烙印を押されてしまうのではないか――そんな恐怖があった。


「誰もあなたのことを責めたりしない。これはあなたの責任じゃないから」と、鈴はなだめようとした。


「俺の責任じゃない? じゃあ誰の責任だって言うんだ? 凛か?」と、健太は大声で問い詰めた。


その言葉に、鈴は眉をひそめた。「健太、少し落ち着いて」


鈴の目が赤くなっているのに気づき、健太ははっと我に返った。


「ごめん、鈴……俺、焦ってたんだ。君を誰かに取られるのが怖くて」


彼は鈴をそっと抱き寄せ、小さな声でと謝った。


しかし、治療方針の溝は埋まらないまま、話し合いは気まずいまま終わった。


健太と別れた鈴は、送ってもらうのを断り、一人でバスに乗って帰宅した。


アパートの前でバスを降り、鈴はうつむきながらバッグを手に持ち、頭の中は母親の手術費――あの目のくらむような三百万円のことでいっぱいだった。一体、どうやってこのお金を用意すればいいのか。


思考がぐるぐると巡り、足取りも重くなった。


ぼんやりと集合住宅の入り口まで来て、カードキーでオートロックを開ける。


重いドアが静かに開く音がして、一歩中に入った、その瞬間――


薄暗い廊下の影から、ひやりと冷たい手が突然現れ、鈴の手首を強く掴んできた。


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