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第十四話 崩壊


小野鈴の体は思わず前に倒れ、鼻先が硬い胸板にぶつかった。なじみのある杉の冷たい香りが一瞬で鼻を突く。


慌てて顔を上げると、予想通り黒澤征の底知れぬ、どこか愉しげな笑みを浮かべた瞳と目が合った。


どうして彼がここに?

鈴が借りているこの住所まで、黒澤はすべて把握している――


全てを見透かされ、逃げ場のない羞恥が一気に鈴を襲った。


手首の拘束は容赦がなく、鈴は抵抗する間もなく、黒澤に半ば抱きかかえられるようにしてエレベーターへと連れて行かれた。


彼女が眉をひそめているのに気づくと、黒澤は低い声で威圧的に囁いた。


「ここで話す?別に俺は見られても構わないけど。」


三分後、黒澤はすでに小野鈴の狭い教員用アパート(桜丘ハイツ)の唯一の古いソファに陣取っていた。


鈴は靴を履き替え、彼と距離を取るようにして立った。


「黒澤さん、私に何かご用ですか?」


黒澤の視線は鈴の全身をゆっくりなぞり、やがて赤くなった目元で止まった。

白くて繊細な肌に、その赤みがひときわ目立ち、どこか壊れそうな強がりを感じさせる。


口元にわずかに笑みを浮かべ、黒澤は手を差し出し、命令するような口調で言った。


「こっちに来い。」


鈴はその場に立ち尽くした。


「それとも……」黒澤の笑みが深まり、危険な気配をまとわせる。「俺が抱えて連れてくればいいか?」


鈴は唇をきつく結び、少し逡巡した後、仕方なく彼の隣の空いた席に腰掛けようとした。


だが黒澤の方が早かった。長い腕で鈴の腰をしっかりと引き寄せ、一気に自分の方へ。


鈴は思わず声を上げ、彼の硬い膝の上に座らされる。彼の手はしっかりと腰を押さえ、逃がす気配は全くない。


鈴はすぐに身をよじって抵抗した。


しかし黒澤は腰に軽く力を込めて制し、「お前の母親の手術、相当金がかかるらしいな?」と冷静に言った。


鈴の体が一瞬で強張る。


「いくら必要なんだ?」


黒澤の声には余裕すら感じられ、まるで他人事のようだった。


すべてを掌握しているその態度に、鈴は破り捨てられた金色の名刺を思い出す。

屈辱が一気に頬を熱く染めた。


「これは私の家の問題です。ご心配なく。」と、鈴は必死に強がった。


「そうか?」黒澤は眉を上げ、あっさりと彼女の嘘を見抜いた。


「高橋さんは未来の義母にもずいぶん気前がいいんだな。」


抑えていた怒りがついに弾け、鈴は深く息を吸い込み、彼の底知れぬ瞳をまっすぐに見据えた。


「結局、あなたは何がしたいの?あなたの周りにはたくさんの女性がいるのに、なぜ私にだけ……」


「俺の考えは、もう十分伝わっているはずだが?」


黒澤は手を上げ、ざらついた指先で鈴の柔らかな唇をゆっくりとなぞる。

その瞳にはむき出しの欲望があった。


「俺のものになろ。」彼の唇が彼女の耳元に近づき、熱い吐息と共に囁く。


「お前の母親の手術、全部俺が面倒みる。どうだ?」


鈴の耳の後ろに細かい鳥肌が立ち、心臓が激しく打ち鳴った。

追い詰められたこの瞬間、この条件はあまりにも甘美だった。


「黒澤さん……」鈴は震える声で言った。「私、結婚するんです。」


「関係ない。」黒澤は人差し指で彼女の耳をなぞりながら、驚くほど冷淡に言い放つ。「お前は結婚すればいい、俺はお前を抱くだけだ。」


鈴の頭の中で何かが弾け、真っ白になった。

――結婚した後も、彼の愛人でいろと?


狂っているのは彼なのか、それともこの世界なのか。


「驚いたか?」黒澤は彼女の体の強張りを感じ取り、耳元で冷たい笑いを漏らす。


鈴は我に返り、最後の抵抗を試みた。


「あなたほどの人なら、他にいくらでも女性がいるでしょう。どうして……」


「既婚者のほうが都合がいい。」黒澤は彼女の言葉を遮り、商人のような冷酷さで言い放つ。


「金を払って、割り切った関係――それだけで十分だ。それに小野先生とは昔からの付き合いだしな。よく知っている相手のほうが、手間がかからない。」


まるで商品を選ぶような口ぶりだった。


鈴の頬が熱くなり、羞恥と怒りで思わず声を荒げた。


「あなたのような立場の人が、他人と共有されるのを気にしないなんて――」


「気にしない。」黒澤はまたも彼女の言葉を遮った。


黒澤は鈴の顎を掴み、強引に顔を上げさせ、冷たくも軽薄なキスを落とす。それはまるで契約の印のようだった。


「小野先生。」


黒澤は鈴の怯えた目をじっと見つめ、はっきりと言い放つ。


「今の俺は、人妻に興味があるんだ。」


鈴は思わず「変態」と言いかけたが、なんとか飲み込んだ。


「申し訳ありません、黒澤さん。」鈴は自分を落ち着かせ、きっぱりと答えた。「お断りします。」


前回の曖昧な拒絶が、彼に誤解を与えたのかもしれない。今回は、はっきりと線を引かねばならない。


「私は高橋健太と真剣に結婚生活を送るつもりです。過去のことは……追いつめられてのことでした。もう二度とありません。」


鈴は彼の瞳を真っ直ぐに見つめながら、自分の意思を伝えようとした。

「あなたとは価値観が違います。他の相手を探して下さい。」


この強い拒絶に、黒澤はしばらく黙り込んだ。


その隙に鈴は、何とか彼の膝から降りようと体を動かした。


ちょうど立ち上がりかけた瞬間、黒澤の喉から低く不気味な笑い声が漏れる。


次の瞬間、鈴は強い力で再び引き戻された。


天井がぐるりと回る感覚の中、鈴はソファに叩きつけられる。


黒澤は片膝で鈴の足を押さえつけ、一方の手で両手首を頭の上に押し付け、もう一方の手で彼女のシャツの襟元に手をかけた。


「やめて――!」鈴の叫びは、布が裂ける音でかき消される。


ボタンがいくつも弾け飛び、カーペットの上に音を立てて転がった。


冷たい空気が肌を刺し、鈴は恐怖に目を見開いた。


黒澤の指が下着の肩紐を引っ掛け、上から彼女を見下ろしている。その目にはもう笑みはなく、獲物を追うような冷たい光だけが残っていた。


「この四年間で、お前は俺がどんな人間か、すっかり忘れたようだな。」低く響くその声は、まるで地獄の底から聞こえてくるようだった。


「俺が、お前の意見を聞くと思ったか?」黒澤は顔を近づけ、鼻先が鈴のそれに触れそうな距離で、熱い息をぶつけてくる。


「小野鈴。お前に選択肢はない。」


声はさらに冷たくなり、明確な脅しが込められる。


「俺がまだ我慢できるうちに、無駄なことはするな。お前の母親や、高橋健太に何かあってもいいのか。分かったか?」


鈴の顔から血の気が引き、恐怖に心臓が締め付けられる。


「嫌!」


「俺が聞きたいのは、その言葉じゃない。」黒澤の手は危険なほど下へと滑っていく。


鈴は唇を強く噛みしめ、血の味を感じた。絶望の中でわずかにもがき、ついに観念したように目を閉じ、かすれた屈辱の声で問う。


「……どう?」


黒澤はようやく満足げに口元を歪め、彼女の今の姿を楽しむかのように見下ろした。


すべてを支配するその手は、熱を帯びながらゆっくりと彼女の胸元へ移り、屈辱的に強く握りしめる。


「返事は?」黒澤は低く笑い、その声には支配者としての冷酷な愉しみが滲んでいた。


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