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5 大賢者エリオット、禁断の研究材料!

 翌日の午後、アレクサンドラが離宮から公爵邸に戻ってくると、応接間で客人が待っていた。帝室秘書官のトラヴィスだった。


「昨夜はお楽しみでしたか、公爵令嬢。いや、もう正式に妃殿下と申し上げるべきか」


 身なり正しく黒のスーツに身を固めたトラヴィスは、スッと立ち上がってアレクサンドラを出迎え、深々と一礼した。


「トラヴィス、いつもありがとう。あなたの情報のおかげで、婚約破棄を阻止できたわ。まあ、セドリックがリサにプロポーズできたところで、リサが受け入れたか怪しいものだけど」


 アレクサンドラは高笑いした。トラヴィスは表情ひとつ変えず、ゆっくりと顔を上げる。青みがかった髪は縮れて肩まで垂れ、その間からは、眼鏡の奥に光る二つの切れ長の目が、冷徹な表情をのぞかせていた。


「お二人のご成婚式は、予定通りに粛々と準備を進めますので、どうかご安心を。ところで、ひとつ、お目通し頂きたい資料が……」


「何? 今度は何かしら?」


「あなた様と、大聖女リサ様。お二人の安全に関わる、重大な問題です。かなりの分量がありますので、お手すきの時にご覧下さい」


 トラヴィスはそう告げると、早々に公爵邸から退出した。アレクサンドラは、彼が置いていった書類の束に手を伸ばす。


「……なっ、何なのよ、これは⁉」


 アレクサンドラは驚愕の表情を浮かべながら、せわしなく資料のページをめくっていった。


◆◇◆◇


 賢者の塔。帝都を見下ろす丘にそびえる、魔術理論と自然哲学の集積所。


 その最上階、膨大な魔導書と異世界の文献が山積みの研究室に、一人の男がいた。


 大賢者エリオット。ゆったりとした薄紫色のローブに身を包み、その澄んだ目には、万物の理を見通す深い知性が自然とにじみ出ている。


 しかし今、その知性の裏には、ある暗い情熱が潜んでいた。


「リサ君、昨日は離宮で何もなかったようだな。騎士団長、義兄、義弟、そして皇太子まで……みんなだんだん、彼女と距離を取り始めている。いいぞ、その調子だ……」


 ほくそ笑みながら、エリオットは一枚の地図を机に広げた。


 そこには、大聖女リサの毎日のスケジュール、移動経路、接触した人間の一覧など、微に入り細をうがった異様な観察記録が書き込まれている。


 その時、長い金色の髪をなびかせがら、優雅に窓辺から降り立つ影があった。アレクサンドラ・ローゼンシュタインだった。


「エリオット先生、ご無沙汰してます」


「だ、誰だ?……まさか、アレクサンドラ君か⁉ どうやって入ってきた? ここは、塔の最上階だぞ! 魔法を使ったとしても、強力な防御結界が張ってあったはずだ……」


「先生に早くお会いしたい気持ちが、不可能を可能にしたのですわ。全く、驚きました。帝国魔術学校を辞めて、こちらの塔に移られていたんですね」


「研究に専念したかったんだよ」


「分かります。聖女は祈り、賢者は叡智を探究するのがお役目。帝国の魔法文明を支える、車の両輪ですわ。しかし、賢者たちの頂点に君臨する大賢者様ともあろうお方が、まさか、元教え子である大聖女リサを、陰からこっそりストーキングしていただなんて……本当に、驚きましたわ」


「……何の話かね?」


「とぼけるのはおやめ下さいませ。トラヴィス秘書官が証拠を揃えて、教えてくれましたのよ? 先生、魔導具でリサの後をつけ回して、熱心に監視しているそうね。ずいぶんと気持ち悪い趣味をお持ちのようで」


 アレクサンドラは机の上へ広げられた地図に、ツカツカと歩み寄った。エリオットがとっさに止めようとするが、アレクサンドラの手が一瞬早く、地図を取り上げる。


 バサバサッ


「ほらね! ここにはっきり書いてある。『大聖女リサの行動記録・観察日誌』ですって。手が込んでますこと。あまりの気持ち悪さに、ヘドが出ますわ」


「待ってくれ。誤解しないでくれ……これは、研究の一環だ。考えてもみたまえ。転移者として彼女が持つ異世界『日本』の知識。聖女としての彼女の飛び抜けた資質、魔力発現の動向……それらを徹底的に究明することが、帝国の発展にもつながる。全て、学術的関心に基づいた調査なのだ」


「リサの食事のメニュー、寝室の鍵の開閉まで記録するのが、学術調査かしら? 鏡の精霊を送り込んで、プライベートを監視して。最近の研究テーマは『大聖女の毛髪サンプル採取』『日本語会話の習得』、そして『日本人女性の体質に効果的な媚薬の調合』。先生がリサをどう『研究』したいか、丸わかりですわね。叡智じゃなくて、エッチな目的で、探究してるだけでしょう」


「ち、違う……!」


「あら。じゃあどうして、リサが転移してくる以前は、私のことを、監視してたのかしら? まだ初等科・中等科の時から目をつけて、延々と記録をつけてたらしいじゃない。それも、トラヴィスの資料に全部書いてありましたわ」


「……っ」


「先生は、研究者の皮をかぶった、捕食者ね。確かに在学中は、私にもリサにも手は出さなかった。でも、ストーカー行為を学問と言い張ってる時点で、もう人として終わってるのよ」


 アレクサンドラの声が、冷たく鋭く変わった。エリオットの額に、冷や汗がにじむ。


「あなたが教え子を『研究材料』として見てるのは、建前。本当は、ただの変態さんなのよ。研究なんて、ただの言い訳。それに先生、研究なら、私もずっとしてましたわ。覚えていらっしゃるでしょ? 先生は、リサを学園首席にして、私をわざと大聖女候補から落第させた。でも私だって、先生が考える以上に、努力していたんですのよ?」


 彼女は微笑みながら、胸元から小瓶を取り出し、そっと揺らした。


「先生を見習って、私も『特別なお薬』を、研究開発してみましたの。効能は……まあ、試してみればすぐに分かりますわね」


「な、何をする気だ……?」


 おびえるエリオットに近づくと、アレクサンドラは彼の顎をつかんで、小瓶の中身を彼の口に流し込んだ。


「んぐっ⁉」


 薬を飲み干させた後、彼女は彼の耳元で囁いた。


「安心して。これは先生の心と体を、ちょっぴり従順にするだけ。快楽に抵抗できなくなって、全てを受け入れるようになる、魔法のお薬ですのよ」


「アレクサンドラ君……こ、こんな卑劣なことはいけない……」


「卑劣? 自己紹介かしら? いたいけな少女だった私を追い回して、異世界からリサが来たら今度はリサばかり特別扱いして、自分の欲望のために私たちの未来を踏みにじろうとした先生が、卑劣なんて言葉を使える立場だと思って?」


 アレクサンドラに非難されているうちに、エリオットの身体は次第に熱くなり、呼吸が荒くなっていく。


「これは一体……? 下半身が、熱い……」


「ふふっ、効いてきたようね。先生、あなたは結局、私にこんな風に支配される運命だったのよ。私からリサに乗り換えた変態のエリオット先生が、今こうして私の前に、敗北をさらけ出す。無様ね」


 アレクサンドラは笑みを浮かべ、エリオットに近づく。


「ちくしょうっ、なんて薬だ……私は、今はリサ君にしか興味ないのに……なんで体がこんなに……」


「ねえ、先生。これで分かったでしょう? 私も先生と同じ、変態さんなのよ。変態同士、仲良くしましょ? リサなんて、もうどうでもいいじゃない? 思い出して。リサが来る前、あなたが元々追い求めていたのは、この私なのよ」


 彼女は甘く語りかけながら、エリオットに優しく触れた。


「ひゃっ⁉ や、やめたまえアレクサンドラ君……それ以上、私に触るな……」


「先生、私を見て。私の目を、ちゃんと見て。あなたの執着が、どれだけ教え子たちの心を、壊してきたか」


「私は、君たちの体には、指一本触れていない。教師として、一線は守ってきたはずだ……!」


「は? 指一本触れてない? 心の中で触れてた時点で、もう罪は成立してますのよ!」


 アレクサンドラは、そっと彼の額に自分の額を合わせる。


「先生が今までリサを汚せなかったのは、理性じゃない。ただ、臆病だっただけ。だから、私が勇気を出して、先生を壊して差し上げますわね」


「アレクサンドラ君っ……!」



 彼の耳元に唇を寄せ、アレクサンドラは低い声で囁く。


「今、先生の全身の血液は、ご自慢の頭脳じゃなくて、別の所に集まってるようですわね。先生のその知的な目が曇ってくの、すごく楽しみ。先生の知性ごと、全部私が飲み込んであげる」


「き、君って子は……」


「悪魔だ、とでも言いたいの? うん、でもね――」


 彼女は、冷たく見下すような声で告げた。


「『聖女』じゃなく、『悪女』に堕ちるのも、意外と悪くありませんわよ?」


 アレクサンドラは、椅子に座っているエリオットの膝の上に、ストンと腰をおろした。


「それじゃ、いただきますね、先生」


「そんな……薬のせいで、抵抗できないなんて! は、初めてなのに、こんな女に強引に奪われるなんて……アレクサンドラ……アレクサンドラ様……っ!」


 エリオットは彼女の背中に自ら手を回して抱きつき、誘惑を完全に受け入れた。


「よくできました、先生。これからは先生が、私の『研究材料』になるのよ」


 彼女はエリオットに唇を近づけながら、心の中で思う。


(いくら私でも、そんなに簡単に、媚薬なんて作れるわけないじゃない……さっき飲ませたのは、ただの体力回復ドリンク。この男が今、私の下で無抵抗になってるのは、彼自身が望んでやってること……)


 帝国の叡智を集め、高くそそり立つ賢者の塔。その最高の理性は、この日の夜、悪女アレクサンドラの手によって、あっけなく支配下に置かれたのであった。

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