自分は結局、時崎徹にとって家族を納得させるための飾りに過ぎなかったのか――。
この事実は、徹が浮気していたことよりも、琴子の心を深く冷やした。
顔色は真っ青になり、唇を強く噛みしめて血の気が失せ、目には赤い血管が浮かぶ。
わずか数日の間に、彼女の人生はまるで嵐に巻き込まれたかのように、根底から覆された。単に性格が冷たいだけだと思っていた夫は、心に他の女性を抱えていただけでなく、結婚すらも計算ずくだったのだ。
離婚の決意とともに、琴子の胸には抑えきれない悔しさも湧き上がる。
しばらくして、彼女は深く息を吸い、気持ちを落ち着かせて言った。
「生まれは選べなくても、結婚は自分で選べる。愛のない結婚なんて、私は絶対に受け入れない。」
徹が彼女にずっと避妊を求めていたことは、最初から何の絆も望んでいなかった証拠だ。頃合いを見て、きっと離婚し、白鳥美々と再婚するつもりだろう。
その時には、彼女は若さも時間も失い、さらに厳しい立場に追い込まれるだけだ。
たとえ咲が言うように、徹が「愛人」を囲いたいだけだったとしても、「時崎家の妻」という空っぽな肩書きにはもうしがみつきたくなかった。
時崎家は遅かれ早かれ子どもを望むだろうが、愛のない家庭で子どもを育てる気にはなれない。
自分と同じ道を、子どもに歩ませたくなかったからだ。
「決めた。二人の浮気の証拠を絶対に掴んで――」
咲が作戦を話そうとしたが、琴子がさえぎる。
「咲、私、浮気現場を押さえたいんじゃない。ただ離婚したいだけ。」
壊れる運命の関係にしがみついても、自分がみじめになるだけ。
琴子が断ち切りたいのは、第三者との縁ではなく、この結婚で卑屈になった自分自身だった。
「でも、無一文で出ていったら、お父さんが再婚を迫るに決まってるよ!」
咲は慌てて言った。
「それに、証拠があれば慰謝料くらいはもらえるかもしれないでしょ。」
しかし琴子は首を振った。
「徹が渡したくないなら、脅したって無意味。もし渡す気があるなら、私が言わなくてもくれるはず。」
二年の結婚生活で、徹の性格は十分わかっている。強引に出れば、ますます冷たく突き放されるだけだ。
「アイツが良心なんて持ってるわけないよ。あんなことしておいてさ……」
咲がぶつぶつ言うのを、琴子は笑って寝かしつけた。
「夜遅くまで心配かけてごめんね。少し休んで。」
親友の変わらぬ優しさに、琴子の心はほんのり温かくなった。
もっと強くなりたい――そう心に誓う。
いつか自分もデザインの世界で輝きを取り戻せるように。
徹に思い知らせたい。私はあなたのために家庭を選ぶこともできるし、才能で自分らしく生きることもできる、と。
防犯カメラの映像を送ってきたあの見知らぬ番号――きっと白鳥美々だろう。
自分の前で堂々と徹の私物を整理し、セクシーなランジェリーまで見せつける。
もう自分の正体を知っているのだ。
琴子は迷わずその番号を着信拒否にした。
これ以上、醜い現実に心を乱されたくなかった。
徹の母は、琴子が突然家を出たことを不満に思い、電話で問い詰めてきたが、琴子はうまく取り繕ってごまかした。
その後二日間は、就職活動に全力を注ぎ、忙しさで気持ちの落ち込みも次第に薄れていった。
月曜の朝、琴子は尚品デザインの面接に向かった。しかし受付で名前を確認されると、「アシスタントの応募は終わりました」と告げられる。
後ろの若い応募者はすんなり入館証を渡されているのに、琴子だけが断られた。
理由を尋ねると、受付の人は「上からの指示」と遠回しに告げ、誰かを怒らせたのではないかと耳打ちする。
琴子は思い当たる節がなく、結婚後の三年間、ほとんど人付き合いもしていなかった。
ただ一つ考えられるのは――。
その先は考えたくなかった。
気を取り直して星築スペースへ向かうと、人事から連絡が入り「面接は三日後に延期。新しいデザイン部長が帰国予定で、本人が面接を行う」とのこと。
納得するしかなく、琴子はしばらく待つことにした。
待つ間、咲のレストランで二日間ピアノを弾いて過ごす。
そして水曜、いよいよ徹との離婚を約束した日がやって来る。
助理の宮崎から「九時、区役所で」とメッセージが届き、琴子の胸は複雑な思いでいっぱいだった。
離婚を口にしてから、もう一週間も経ったのか。
頭に浮かぶのは、徹と白鳥美々――レストランでウェイトレス扱いされ、休憩室で白鳥が徹の服を整理していることだった。
晩秋の風が落ち葉を巻き上げる。
琴子は約束の二時間前に区役所前に着いた。近くでは若いカップルが婚姻届の受理証明書を手に、幸せそうに笑い合っている。
その対照的な光景に胸が締め付けられる。
結婚した日のことを思い出す。
あの日は慌ただしく、ろくに化粧もできなかった。それでも証明書の写真の自分は、どこか恥ずかしそうに笑っていた。
今思えば、それすらも皮肉にしか見えない。
「琴子、本当にこれでいいのか?」
冷たい声が背後から響いた。振り向くと、徹がいつの間にか立っていた。スーツ姿で鋭い眼差し、まるで子供を見下ろすような視線だ。
琴子は静かに答える。
「徹、約束通りだよ。」
その言葉は、自分の最後の未練をきっぱりと断ち切る鍵だった。
離婚届はすでに準備してある。この馬鹿げた結婚を一刻も早く終わらせ、自分の人生をやり直したいだけだ。
徹は琴子の青ざめた顔を見つめ、喉を鳴らしながらも、ただ一言だけを残す。
「後悔するなよ。」
背を向けて歩き出す徹のコートが風に舞う。その姿には、いつものような傲慢さが滲んでいた。まるで、いずれ自分が戻ってくると信じているかのように。
琴子はその背中を見つめ、拳をぎゅっと握りしめる。
後悔?――白鳥が徹の部屋に入る映像を見たあの時、八百万円の報酬の話を聞いたあの時、控室でレースの下着を見たあの時……後悔は、もうとっくに失望にすり替わっている。
区役所の門が朝日に照らされ、ゆっくりと開く。
若いカップルが手を取り合い、幸せそうに駆けていく。琴子は深く息を吸い込み、まっすぐ区役所の中へと足を踏み入れた。ガラス窓から差し込む陽射しが彼女の影を長く伸ばし、凜とした決意を映し出していた。
携帯が震える。咲からのメッセージだ。
「怖がらないで。駐車場で待ってる。終わったら豪華ごはんごちそうするよ!」
琴子はそっと微笑み、「自分の自由、必ず取り戻してくる」と返信した。
この時、彼女はまだ知らなかった。
区役所の外、徹は車の傍に立ち、指先のタバコを燃やしては消し、最後には署名していない離婚届をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てていたことを。
彼にとってこの離婚は、またいつもの「わがまま」だと思っていた。
しかし、徹の知らぬところで、琴子はすでにすべての未練を断ち切っていた。