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第17話 スーツからのぬくもり


離婚への決意は、ますます固くなっていた。


けれど、今は何よりもまず聡を助けなければならない。離婚のことは、ひとまず脇に置くしかなかった。


早瀬聡の事故がSNSで話題になる中、「時崎グループデザイン部長・白鳥美々が隣人に愛犬を蹴られた」というニュースも注目を集めていた。


そのふたつの話題は、まるで皮肉な対比を見せていた。

一方では「御曹司の高級車が人を轢き殺した」という道徳的な非難が巻き起こり、一方では「キャリア女性がペットのために立ち上がった」と擁護の声があふれている。


聡には「遊び人」「危険運転の常習犯」といったレッテルが一気に貼られ、世間のバッシングは止まらない。一方、白鳥のペット事件は動物愛護層の共感を呼び、「動物虐待」「モラルの欠如」といった怒りの声が飛び交っていた。


琴子は世間の喧騒を気にする余裕もなく、証拠集めに奔走していた。そんな中、母・早瀬清葉から電話がかかってきた。


「琴子、お父さんがショックで倒れて今入院してるの。聡のことはあなたに任せるわ……」


「お父さんはどこの病院?容体は?」琴子は携帯を強く握りしめ、指が白くなるほどだった。


だが清葉は話を逸らし、「大丈夫よ、心配しなくていいから。とにかく早く聡の件を何とかして!」とだけ告げて電話を切った。


電話の切れる音が虚しく響き、琴子は力なく携帯を下ろした。

早瀬家では、いつも自分が矢面に立たされ、後始末を押し付けられる。


弁護士の浅野の助言に従い、まずは被害者家族のもとを訪れることにした。


病室のドアを開けると、被害者の母親の叫びが空気を切り裂いた。


「恵……どうして逝っちゃったの……お母さんは、これからどうやって生きていけばいいの!」


ベッドの上の老婦人は目を真っ赤に腫らし、その隣には無表情で目元を拭っている中年の男性がいた。琴子には、それが亡くなった女性の兄だとわかった。


「失礼します、早瀬聡の姉の……」


「出て行け!」

老婦人は枕を琴子に投げつけ、「人殺しの姉が何しに来た!お前の弟に償わせてやる!」


枕が顔に当たり、琴子はよろめいた。果物かごの中のリンゴが床に転がる。


中年の男が立ち上がり、琴子の腕を乱暴に掴んで廊下へ押し出した。


「形だけの謝罪なんていらない!果物なんか持ってきて済むと思うな!妹がこんなに無惨に死んだんだ、絶対に許さない!」


琴子は廊下に突き飛ばされ、果物かごも粉々に壊れた。男は彼女の鼻先に指を突きつけて怒鳴る。


「もう一度来たら、どうなっても知らないぞ!」


「バタン」と扉が閉まり、その音が琴子の耳に響いた。周防先生囲の病室のドアが次々と開き、視線が一斉に彼女に注がれる。遠くからは、カメラを抱えた記者たちがこちらに走ってくるのが見えた。


「弟さんの件をどう対応するつもりですか?なぜ早瀬社長ご夫妻は出てこないのですか?」


「遺族に謝罪しに来られたんですか?どれくらいの賠償金を準備していますか?」


「弟さんは事故当時、飲酒していたという噂がありますが本当ですか?」


カメラが目の前に迫り、フラッシュの光で目が開けられない。琴子は壁際にうずくまり、長い髪で顔を隠す。指先が手のひらに食い込むほど強く握っていた。


ふと、白鳥美々が時崎徹と一緒に記者会見に出ていたときのことを思い出した。あのとき、記者たちは礼儀正しく、時に厳しい質問があっても、徹は必ず白鳥をかばっていた。


もし今、徹がここにいたら……彼女の盾になってくれるのだろうか。


――かつては、同じベッドで眠った夫婦だったのに。


「まだ結論は出ていません。発言にはご注意ください。」


澄んだ声が騒然とした空気を割った。

琴子が顔を上げると、高橋楓真が群衆をかき分けてやって来るのが見えた。

白いスーツがひときわ目を引く。彼は自分の上着を琴子の肩にそっとかけ、記者たちの視線から守るようにしてエレベーターへと導いた。


記者たちは言葉を失い、誰も止めようとしなかった。


エレベーターの中、琴子は鏡張りの壁にもたれ、高橋の「ちょうど海外から戻ったところなんだ」という声を聞きながら、まるで遠い昔のことのように感じていた。

二年前は、咲や楓真に守られるデザイン学科の才女だった自分が、今や「加害者の家族」として世間の非難を浴びている。


「何か力になろうか?」

と高橋は、絶妙な距離感で気遣ってくれる。

「聡のこと、徹の方は……」


琴子は目を伏せ、スーツの裾をぎゅっと握りしめた。

徹――この騒動の一因は、彼ではないか。もし、彼が周防先生を奪わなければ、もし、彼が世間の騒ぎを放置しなければ……。


けれど、それを口にすることはなかった。


エレベーターのドアが開いた瞬間、琴子は懐かしいシダーウッドの香水の匂いを感じた。顔を上げると、徹が黒いマイバッハにもたれ、タバコを手にして無表情でこちらを見ていた。


白鳥が助手席から降りてきて、親しげに徹のネクタイを直している。ふたりの背後には、数多くのカメラが向けられていた――明らかに、計画された「偶然」だ。


徹の視線は琴子の顔で一瞬止まり、すぐに楓真へと移った。タバコの灰がぽろぽろと落ち、口元には冷ややかな笑みが浮かんでいる。まるで――


「これが、お前の守ろうとしたプライドか」と語っているように。


琴子は深く息を吸い、背筋を伸ばして彼の前を通り過ぎた。肩にかけられたスーツの温もりは残っていても、心の中の冷たさは消えなかった。


――徹の世界で、自分はいつだって取るに足らない脇役でしかない。

白鳥こそ、彼が大切にするヒロインなのだと、ようやく悟ったのだった。



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