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第18話 生活の違和感


琴子はしばらく黙った後、

「弁護士は徹が手配してくれたの。」


彼女が徹と秘密結婚したとき、最初にそれを知ったのは高橋咲だった。

婚姻届を出す前夜、咲は琴子をバーに連れていき、酔いつぶれて「絶対に幸せになってね」と泣きじゃくりながら抱きしめてくれた。

その場には高橋楓真もいて、この結婚のを知ることになった。


だが、その後すぐに高橋楓真は突然留学し、二年間帰国しなかった。

再会したときには、二人の間に少し距離ができていた。

琴子は、やっと再会したばかりで離婚の悩みを打ち明けたくなくて、話題をそらした。


エレベーターを降りる琴子を見送りながら、楓真はふと彼女の手首にある赤い痕に目を留めた――それは今朝、被害者遺族にもみ合いになったときについた跡で、白い肌にひどく目立っていた。


だが琴子は、まるで痛みなど感じていないかのように淡々と高橋楓真の上着を返す。

「ありがとう、楓真兄さん。じゃあ、これで失礼するわ。」


彼女は駐車場へと歩き出す。ハイヒールの音が床に響き、どこか疲れた様子だった。背後で高橋楓真は、その細い背中を見つめながら、少し眉をひそめていた。


深夜、時崎徹のマイバッハが邸宅の前に停まった。


男は車を降り、西服のジャケットを腕にかけ、イライラした様子でネクタイを緩める。

玄関は真っ暗で、彼はドアノブに手をかけたまま一瞬立ち止まった――いつもならどんなに遅く帰ってもリビングの明かりがついていて、琴子が柔らかな部屋着で迎えてくれ、上着を受け取りながら「お疲れさま」と優しく声をかけてくれるはずだった。


だが今夜、邸宅は墓場のように静まり返っている。


玄関の灯りをつけ、革靴で大理石の床を歩く音が虚しく響く。

ジャケットをソファに投げると、いつもは完璧に片付いているリビングが少し散らかっていることに気づく――テーブルには冷えた牛乳が半分残されていた。

先週、彼が「寝る前にホットミルクを飲むとよく眠れる」と何気なく言ったのをきっかけに、それ以来琴子は毎晩用意してくれていたのだ。


二階でシャワーを浴びようとしながら、思わず「琴子」と呼ぶが、返事はない。

鏡越しに険しくなった自分の眉間を見て、ようやく琴子の世話にどれほど慣れてしまっていたかを思い知る。

汚れた服はいつもきちんとアイロンがかけられ、ネクタイもきちんとクローゼットに揃えて掛けられている。徹夜したときには絶妙な温度のスープが用意されていた。


今はただ、水の音が浴室に響くだけだった。


ベッドに横たわると、枕にはまだ彼女の淡い香りが残っている。徹はなかなか眠れず、ついにバルコニーでタバコに火をつけた。


灰がカーペットに落ち、彼は昼間病院で見た光景を思い出す――記者に囲まれた琴子、その肩にかけられた高橋楓真の白いジャケット。怯えた小鹿のような姿だった。


その思いに、彼の胸に苛立ちが湧き上がる。


携帯電話を取り出し、宮崎高英に電話をかけた。

「琴子の件、進展は?」


宮崎の声はどこか不安げだ。

「浅野弁護士によれば……証拠が足りず、勝訴の可能性は三割以下です。」


「もし周防が直接担当したら?」

徹はタバコをくわえながら、ネオンを見つめる。


宮崎はしばらく黙り、苦笑を含んで答えた。

「徹、周防先生はいつも難しい案件しか受けませんよ。今回のことは……本気で奥様を助けたいなら、いっそ――」


「黙れ!」


徹はタバコを押し消し、火花が手のひらに散っても気にしなかった。

「自分でなんとかさせろ。」


電話を切り、「琴子」と登録された番号をじっと見つめる。

親指が画面の上で止まったまま、結局そのままスリープボタンを押した。


離婚したいんだろう?自立したいんだろう?だったら、時崎徹がいなくなった世界で、どこまでやれるか見せてみろ!


翌朝、時崎グループの社長室。


徹はデスクの日程表を見つめ、「白鳥部長との会議を九時に前倒ししろ」と冷たい口調で命じた。


宮崎は何か言いたげだったが、結局心の中でため息をつくだけだった――琴子が邸宅を出てからというもの、社長は火薬のようにちょっとしたことで爆発するようになっていた。


「それから、」不意に徹が口を開く。「琴子は昨日何か言っていたか?」


宮崎は一瞬きょとんとし、離婚のことだと気づいて慌てて答えた。

「奥様からは……弁護士を手配してくださって、ありがとうございますと。」


「礼だって?」

徹は眉をひそめ、指先でペンを弄ぶ。

「感謝することもあるんだな。」


宮崎はその口調の僅かな変化を察し、そっと探るように言った。

「奥様は、やはり社長の気持ちを気にされているようで……もしかして――」


「もういい!」

徹は突然立ち上がり、椅子を床に引きずる音が鋭く響いた。

「会議は午後に変更しろ。」


そう言い捨てると、コートを掴んでエレベーターへと向かった。

宮崎はその背中を見送りながら、昨夜の監視カメラの映像を思い出す――深夜三時、社長が邸宅のバルコニーで一箱分のタバコを吸い尽くし、灰皿には山のように吸い殻が積もっていた。




同じ頃、咲のマンションでは、琴子がパソコンの画面を見つめながら眉間を揉んでいた。


一睡もできず、目の下には濃いクマができているが、彼女は執拗に最近のひき逃げ事件の判決文を読み漁っていた。


咲が温かいミルクを持って入ってきて、思わずマウスを取り上げる。


「少し寝なさいよ!聡のことだって、焦ってもしょうがないから。」


琴子は首を振り、かすれた声で答える。

「昨日、被害者の元同僚に連絡したんだけど、被害者は最近経済的にかなり苦しんでいて、旦那さんもギャンブルでサラ金に……」


言い終わる前に、携帯が鳴った。

表示を見ると「母上」だ。深呼吸して出ると、早瀬清葉の怒鳴り声が飛び込んできた。


「琴子!なんで弟がまだ釈放されてないの?わざと助けない気なの?」


「お母さん、そんなに簡単な話じゃないの――」


「言い訳しないで!」

清葉の声は涙混じりで、「お父さんも言ってたわよ、聡を助けられないならもう家に帰ってくるなって!」


プツリと電話が切れ、琴子は携帯を持つ手をゆっくり下ろした。

咲が優しく抱き寄せると、琴子はぽつりとつぶやく。

「咲、私って本当にダメな人間なのかな。妻としてもダメ、娘としても、姉としても役立たず……」


「何言ってるの!」咲はしっかり肩を叩く。

「徹みたいな男、ふさわしくないわ!デザイン界で賞を取って、あの男を地面にひれ伏させてやればいいのよ!」


琴子はかすかに笑い、視線はパソコンのデスクトップにある卒業写真に向けられる――学士服を着た自分が、未来への希望に満ちた目で微笑んでいた。


あの頃は、まさか二年の結婚生活でここまでボロボロになるとは思ってもいなかった。


また携帯が震える。今度は見知らぬ番号からのメッセージだ。


開いた瞬間、琴子の瞳が大きく見開かれる――それは防犯カメラの映像で、画面には白鳥美々が札束をキャップを被った男に渡している。

その男のスマホ画面には、早瀬聡の事故現場の写真がはっきりと映っていた。



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