琴子は長い髪をポニーテールにまとめ、その手を一瞬止めた。
「離婚はできなかった。また今度にするわ。」
「あのバカ、今は白鳥美々の犬の裁判で手一杯で、あなたとの離婚手続きをする暇もないんでしょう?」
咲はスマホでトレンドを眺めながら、苛立ちを隠さずテーブルを叩いた。
「犬一匹がトップニュースになるなんて……」
琴子は鏡の前で薄くメイクを直し、まつげが瞼に細かな影を落とす。
「ちょうどよかった。私も離婚に時間を割いてる暇なんてないし。」
彼女はバッグを手に取って部屋を出た。警察署へ行き、捜査の進展を確認するつもりだった。
大通りに出たところで、突然スマートフォンが激しく震えた――母・早瀬清葉からの着信だった。呼び出し音が妙に胸をざわつかせる。
「琴子!すぐに中央病院に来て!誰かが暴れてるの……」
言い終わらぬうちに、受話器の向こうから怒号と騒ぎ声が響き、すぐに通話が切れた。
琴子の胸が一気に冷たくなり、すぐさまハンドルを切って病院を目指した。
高橋のマンションから病院までは車で10分ほど。
遠くからでも、病棟の前に人だかりができているのが見えた。
彼らは「償え!」と書かれたプラカードを掲げ、生卵や野菜を黒いセダンに投げつけている。車はすでにひどい有様だ。
琴子はそれが父・早瀬成伸の車だと気づいた。車を降りて警備員を呼ぼうとした矢先、窓が少しだけ開き、成伸の声がはっきりと聞こえた。
「彼女は私の娘だ!文句があるなら彼女に言え!」
その声が終わるや否や、腐った卵が彼の顔面に命中し、慌てて窓を閉めるのが見えた。
次の瞬間、群衆の怒りは琴子に向かい、罵声が飛び交った。
「出てきて謝れ!」「金さえあれば何でも許されると思ってるのか!」
琴子は逃げようと背を向けたが、誰かに足を引っかけられて転倒した。
野菜やペットボトルが頭上に降り注ぎ、誰かの爪が頬を引っかき、火のような痛みが走る。
間一髪、警備隊が駆けつけて群衆を追い払った。
彼女は地面に座り込み、父の車が混乱の隙に逃げていくのを見送った。
膝に鈍い痛みを感じて見下ろすと、ズボンの膝が血で染まっていた。
周囲のささやき声が針のように耳に刺さる。
「弟が人を轢き殺したって聞いたけど、親も彼女を見捨てたの?」
「かわいそう?お嬢様がちょっと苦しんだくらいで何よ。亡くなった人の方がよっぽど気の毒よ。」
「あの様子じゃ、パフォーマンスしに来たんじゃない?」
「傷の手当てをしましょう。」小さな看護師が優しく声をかける。
琴子は顔を上げ、看護師の肩越しに病院の玄関を見た――時崎徹が白鳥美々を腕に抱き、白鳥は額に包帯を巻きながらカメラの前で涙声を絞り出している。
「私は薬を取りに来ただけなのに、襲われてしまって……でも、徹がすぐに駆けつけてくれたんです。」
徹は顎を強張らせ、氷のような目で記者たちを睨みつけた。
「この件については、徹底的に追及します。」
フラッシュが次々と焚かれ、誰も傷だらけの琴子には目もくれない。
琴子は徹が白鳥の髪をそっと撫でる仕草を見つめ、結婚してからの二年間、彼が自分にそんな優しい目を向けたことは一度もなかったと気づく。
「時崎さん?」看護師がそっと彼女の袖を引いた。
琴子は立ち上がり、膝の痛みに思わずよろめく。
足を引きずりながら通用口へ向かうと、徹の横を通り過ぎる。その瞬間、徹がふと振り向いた。
目が合った瞬間、彼の瞳がわずかに揺れる――琴子の顔には血が一筋、こめかみから顎まで流れ、髪は卵にまみれ、高価なスーツも汚れている。
それでも琴子は顎を上げ、静かで底知れぬ瞳で彼を見返した。
白鳥が徹の耳元で何かを囁くと、徹はハッと我に返り、白鳥を抱いて送迎車に乗り込んだ。
エンジンがかかる前に、徹は思わずもう一度窓の外を見たが、そこにあったのは病院のガラス扉に映った自分の歪んだ姿だけだった。
「社長、国際会議まであと三十分です。」
宮崎高英がバックミラー越しに徹の表情を窺う。
徹は眉間を揉みながら、琴子が自分を見たあの目が頭から離れなかった――まるで他人を見るような、冷ややかな静けさ。
「自業自得だ。」
ぽつりと呟いたその声は、いつもの自信がなかった。
「誰がわざわざ嵐の中に飛び込むだろうか……」
宮崎は黙っていたが、心の中でため息をつく――さっき病院の前で、徹の手が握りしめたのに。
病院の処置室で、ヨードの綿棒が頬の傷に触れたとき、琴子はようやくわずかに眉をしかめた。
「痛みますか?」
医師が顔を上げる。
彼女は首を振り、壁の時計をぼんやりと見つめる。
さっき廊下で、看護師たちがひそひそと話していたのが聞こえた。
「白鳥さんって気の毒だよね、変な人に殴られて……でも、徹がすぐに通報したらしいよ。」
――なるほど。徹の「徹底的に追及します」は、白鳥のためだけにある言葉だったのか。
ポケットの中のスマホが震えた。見知らぬ番号からのメッセージ
【監視カメラの映像は削除した。無駄なことはやめなさい。】
琴子はスマホを握りしめ、爪が手のひらに食い込む。
ふと、事故の日に白鳥が休憩室との会話を思い出す――あの時から、彼女たちの「戦い」は始まっていたのだ。
「時崎さん、傷は縫合が必要です。」
医師の声が思考を遮った。
琴子は静かにうなずき、リドカインが皮膚に注射されるのをじっと受け入れる。
鏡の中の自分の目が、だんだん澄んでいく。
かつて彼女を苦しめた期待や幻想が、今まさに音もなく崩れていくのを感じた。
徹、あなたが白鳥を守ると決めたのなら――私は、その真相を必ず突き止めてみせる。
たとえすべてを賭けても、誇り高く生きていく。