琴子は、徹の浮気現場を見て、「800万円の報酬」という屈辱的な言葉を耳にしたとき、自分の心はすでに完全に死んだものと思っていた。
だがこの瞬間、彼女はようやく気付いた。
徹がもたらす痛みには終わりがなく、底知れぬ深さがあることに。
顔についた傷など、彼の冷たい視線に比べれば、ただのかすり傷にすぎない。
医者に手当てをしてもらい、抗生物質を処方された後、琴子は丁寧に礼を言って病院を後にした。
両親から見捨てられたことよりも、徹の態度の方がよほど琴子の心を冷えさせた――両親の身勝手さにはとっくに気付いていたが、結婚生活の中だけは、ほんの少しでも真心があると信じていた自分がいた。
咲のマンションに戻ってシャワーを浴びた後、母である早瀬清葉から電話がかかってきた。
「琴子、大丈夫なの?」
清葉の声は、どこか様子をうかがうようだった。
琴子は淡々と「うん」とだけ返す。
「お父さんだって仕方なかったのよ、あなたをあそこに置いたのは……」
清葉は慌てて弁解する。
「でも、弟にはあなたが必要なの。小さい頃からあなたに懐いていたじゃない。お願いだから、あの子のこと放っておかないで。」
「わかってる。姉としての責任は果たすから。」
琴子は母の言葉を遮った。
電話を切ると、今度は浅野弁護士に連絡を入れる。
この時、琴子が囲まれている動画がすでにネットで拡散され、話題になっていた。
世間の反応は真っ二つ。彼女を「嘘くさい」と罵る声もあれば、「弟の身代わり」と同情する声もあった。
「早瀬様、世論はこちらに有利です」と浅野弁護士は少し安堵した声で言う。
「ただ、もっと直接的な証拠が必要です。経験上、ひき逃げ自殺者はたいてい絶望的な状況に追い込まれています。重い病にかかっているか、家族のためにお金を残したいと思っている場合が多いんです。」
琴子はすぐに彼の意図を読み取った。
早瀬家の人脈で、短期間で市内すべての病院の診断書を調べ上げるのは難しい。
熟考の末、彼女は時崎家の邸宅へ車を走らせ、時崎慎一郎の部屋を訪ねた。
出張から戻ったばかりの慎一郎は、琴子のやつれた様子に気づき、早瀬聡の件について自ら尋ねた。話を聞き終えると、「こんなこと、すぐに調べてやるよ。診断書はメールで送るから」とすぐに頷いた。
琴子の目に涙が浮かぶが、慎一郎が続けて尋ねる。
「この件、徹には話していないのか?」
琴子は沈黙で答えた。
慎一郎はため息をつき、「せっかくだし、食事でもしていけばいい。おばあさまも君が帰ってきたら喜ぶぞ」と優しく声をかけた。
「いえ、用事があるので。」
徹に会うのを避けたかった琴子は、早々に辞去した。
玄関を出ると、慎一郎のデスクには新聞が置かれていた。
そこには「時崎グループの本部社長、愛犬の権利を守る」という見出しと、徹が白鳥美々を抱きしめる写真が大きく掲載されていた。
邸宅を出た琴子は、そのまま亡くなった渡辺恵が働いていた郊外の町工場へ向かった。
入口の守衛が警戒した様子で話しかけてくる。
「記者の方ですか?」
琴子は早瀬成伸が愛用していた高級タバコを差し出した。
守衛は目を輝かせ、少し気を許したように口を開く。
「渡辺さんはもう一ヶ月ほど工場に来ていません。事故の三日前から姿を見せなくなりました。住所も誰も知らないんです。」
そう言うと、守衛は窓口を閉めてしまい、それ以上は何も答えなかった。
琴子は空になったタバコの箱を握りしめ、「これくらいの心遣いじゃ、真実には届かない」と痛感した。
マンションに戻った頃には、すでに夜も更けていた。
車を路肩に停め、灯りの少ない小道を歩いていると、曲がり角から強いライトが差し込んできた。
思わず手で遮ると、突然誰かに腕を引かれ、車の中へと押し込まれた。
「徹、何するの!」
男はきついタバコの匂いを纏い、琴子の腰を強く抱き寄せた。後部座席の狭い空間で、彼はまるで逃がすまいと彼女を囲い込む。薄暗い車内で、徹の目には琴子には理解できない感情が揺れていた。
「今日のこと、わざと大ごとにしたのか?」歯を食いしばり、怒りを押さえつけるような声。
琴子は抵抗しきれず、皮肉な笑みを浮かべた。
「そんな暇じゃないわ。離して。」
徹は突然、琴子の顎をきつく掴み、無理やり目を合わせた。
「なぜ俺がお前と結婚したか、わかるか?」
痛みに顔を歪めながらも、琴子は負けじと睨み返す。
「早瀬家との政略結婚が必要だったからでしょ? あなたには都合のいい飾り物が必要だっただけ。」
徹の目が一瞬鋭くなり、指先で琴子の顎の傷をなぞる。その声色は突然、やわらかくなった。
「お前が大人しくしているからだ。認めるなら、今日のことはなかったことにしてやる。この件は……俺が片付ける。」
琴子の全身に戦慄が走る。
徹が自ら早瀬聡のことに触れたのは、これが初めてだった。だが、彼のスーツに絡みつく白鳥美々の髪を見て、琴子はふっと笑った。
「徹、離婚しましょう。もう、二度と戻るつもりはないから。」