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第21話 私はあなたのおもちゃじゃない


琴子は、かつて自分は徹のことを理解していると思い込んでいた。

彼が自分と結婚したのは、少なからず情があったから、幼い頃の婚約を気にかけてくれていたからだと信じていた。

しかし、男が後部座席の狭い空間で「お前が大人しくしているからだ」と口にした瞬間、彼女は自分がどれほど見当違いだったかを思い知った。


「時崎徹、あなたは私を夫の醜さを見て見ぬふりする女だと思ってるの?私が欲しいのは結婚よ、取引じゃない。」


徹は眉をひそめ、指先で彼女の顎についた傷をなぞる。


「結婚なんて、結局はお互いの利害が一致してるだけだ。お前は時崎家の妻になり、俺はお前に不自由のない暮らしを与える。それで十分だろう?」


「十分?」


琴子はふいに笑みを浮かべた。

その笑いにはどこか悲しげな響きが混じっていた。


「だからあなたは、毎月八百万円を渡して、私を透明人間みたいに扱い、たまに欲望のはけ口にする。それで十分だと?」


徹の目が冷たく光る。

彼は琴子のその物言いが気に入らなかった。まるで自分が高潔で、彼がただの卑しい買い手であるかのように。


「よく考えろ」


徹は彼女の手首を強く握った。


「早瀬聡の件、俺の力が必要だろう。おとなしくしていれば、周防弁護士をつけてやる。」


琴子の体が一瞬こわばる。これは脅しだと分かっていた。

だが同時に、診断書を手に入れるための唯一の近道でもあった。

けれど、彼の指が彼女の腰に触れたとき、琴子の脳裏に休憩室で白鳥美々が黒い下着を拾った光景や、徹が白鳥を見つめる優しいまなざしがよぎった。


「離して!私はあなたのおもちゃじゃない」

琴子は彼を突き放し、乱れた服を直した。


だが徹は彼女の肩を強く押さえ、シートに深く沈めた。

熱を帯びた息遣いと、タバコと杉の香りが混じり合って琴子を包む。

「なんだよ?琴子、お前もまんざらでもないだろう。」


琴子は腕を上げて拒もうとしたが、徹はその腕を頭上に押さえつけた。

車窓の外では冷たい雨がガラスを激しく叩いている。琴子の目は赤く潤んでいた。


「時崎徹、これは犯罪よ。」

琴子は歯の隙間から絞り出すように言った。


男の手が止まり、琴子の目の奥にある氷のような冷たさに気づく。

初めて見るその表情は、耐えるでも、哀願するでもなく、純粋な憎しみだった。


「本気で離婚するつもりだと思ってるのか?」

徹は手を離し、シートにもたれかかってタバコに火をつけた。

「もう十分だろ。家に帰れ。診断書は明日メールで送る。」


琴子はタバコの火をじっと見つめながら、時崎慎一郎の言葉を思い出していた。

「徹は子供の頃から目標を決めたら、決して手を離さない。」


彼が執着するのは、自分ではなく従順な妻という立場だったのだ。


「診断書が届いたら、すぐに区役所に行くわ。」

琴子は頬の涙を拭い、かすれた声で言った。


徹は小さく笑い、琴子の頬をつまむ。

「まずは俺を満足させてから、条件を出せ。」


車内の空気が熱を帯びる。

琴子は目を固く閉じ、徹がシャツのボタンを乱暴に外すのを黙って受け入れた。

かつては愛の証だった肌のぬくもりも、今はただ吐き気を催すだけだった。


彼が鎖骨に噛みついたとき、琴子は心の中で誓った——これが最後だ。

早瀬聡の件が終わったら、二度とこの男には触れさせない。


雨脚はさらに強まり、マイバッハは雨のカーテンの中を走り抜ける。

バックミラーには、隅で身を縮め、髪を乱し、虚ろな目をした琴子の姿が映っていた。

徹はふと、結婚式の日の琴子を思い出す。

純白のドレスをまとい、自分に向かって歩いてきたあの日、彼女の瞳には星のような輝きが宿っていた。


「琴子」

徹は突然口を開いた。

「白鳥美々には近づくな。お前じゃ、彼女には敵わない。」


琴子は黙ったまま、顔を窓の外に向けた。雨粒がガラスをつたって流れ、遠くのネオンをぼやけさせている。浅野弁護士の言葉が耳元で響く——「一番致命的な証拠は、たいてい一番目立つ場所にある。」


この取引は終わりではなく、戦いの始まりの火種かもしれない。

診断書を手に入れ、渡辺恵の自殺の真相が明らかになったとき、琴子は二人に見せつけてやるつもりだった。

彼らに踏みにじられてきた「時崎家の妻」が、どれだけ大きな炎を上げられるのかを。



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