琴子は、徹が自ら早瀬聡の件を処理してくれるとは最初から期待していなかった。
しかし、彼が白鳥美々のためには奔走し、力を貸しているのに、自分のことは宮崎高英に任せきりなのを思うと、胸の奥が冷え切った。
一晩中眠れなかったが、不思議と眠気は感じない。
心配になり、宮崎高英に連絡を取って、浅野弁護士と連携して早瀬聡の件を調べてほしいと頼んだ。
宮崎は全面的に浅野弁護士とのやり取りを引き受けてくれた。
こうして琴子は完全に手が空くことになった。
彼女は立ち上がり、玄関のバッグから長い間電源を切っていたスマートフォンを取り出す。
充電して電源を入れると、未読メッセージと不在着信が次々と届いた。
一番多かったのは高橋咲からだった。一晩帰らず、連絡もつかなかったことで、咲はすっかり心配していたのだ。
すぐにかけ直すと、ほどなくして電話がつながる。
咲の声は、思っていたほど怒った様子ではなかった。
「……今、徹さんのところに戻ってる。」
琴子は、叱られるのが怖くて小さな声で言う。
「知ってるよ。」
咲はあまり機嫌が良くなさそうだ。
「あの人の秘書が弁護士連れて警察のところに行ってるの見たから。」
咲は琴子が行方不明になったと思い、警察に届け出るたに警察署行った際、ちょうど宮崎と浅野弁護士が早瀬聡の件で来ているのを見かけた。
徹が早瀬の件を引き受けたということは、琴子が彼と連絡を取っている証拠になる。
「琴子、ちゃんと説明してもらうからね――」
言いかけた咲の言葉を、琴子はきっぱりと遮った。
「離婚するつもりよ。ただ、聡の件が終わってから。」
咲は警察署の階段を降りていたが、その言葉を聞いて足を止めた。
次の瞬間、明るい声で笑った。
「徹の力を利用するってわけね?それなら許す!」
琴子は全く気が晴れることはなく、むしろ不安が増すばかりだった。
徹がそう簡単に利用できる相手ではない。
むしろ逆に痛い目を見るかもしれない、と覚悟を決める必要があった。
そんなとき、ふと思い出したのは星築スペースからの面接の約束だった。
丸一日忘れていたが、星築からはそれきり連絡がない。
慌てて、以前面接の案内をもらった番号に電話をかける。
すぐに電話はつながり、琴子は名乗って謝罪した。
「すみません、昨日は……」
「時崎さん、ちょうど高橋社長が帰国したばかりで、予定が立て込んでおりました。もしよろしければ、本日午後3時に面接を変更してもよろしいでしょうか?」
優しい女性の声が電話越しに聞こえた。
琴子はほっとして、「大丈夫です、ありがとうございます!」と答えた。
まだ午前。間に合う。
だが、徹の家には面接向きの服がなく、シンプルなパンツと濃い色のジャケットを選ぶしかなかった。
星築スペースに着いたのは2時30分。時間ぴったりにビルに入り、受付を探す。
星築はオフィスビルの3フロアを使用している。1階は受付、2階がデザイナーのワークスペース、3階が役員室と会議室。
琴子の面接場所も3階、社長室の隣だった。
社長室のすりガラス越しに、デスクに座る背筋の伸びた人影がぼんやりと見えた。
受付の人に案内されて隣室に入り、視線を戻して「ありがとうございます」と頭を下げる。
「いえいえ、時崎さんは少々お待ちください。」
コーヒーを運んでくれて受付の人は去っていった。
星築で働けなければ、自分に合うデザイン事務所はもう見つからないかもしれない。
これまで何度か受けた面接より、今回はずっと不安と緊張が大きかった。
時間がゆっくりと過ぎていく。部屋は静まり返り、琴子は無意識に指を握りしめていた。
ふいに、外から足音が聞こえ、ドアが開いた。
高橋楓真を先頭に、何人かが入ってくる。
琴子は反射的に立ち上がったが、楓真の顔を見て思わず固まった。
高橋社長、高橋楓真――?
「どうぞ、おかけください。」
楓真は主席の椅子に座り、まるで初対面のように穏やかに微笑んだ。
他の数人も席につき、面接が始まった。
琴子の経歴はシンプルで、一目で分かる内容だった。
楓真を皮切りに、全員が形式的に空間デザインの理念についていくつか質問した。
最初は順調に答えていたが、最後の人が最近話題のデザイン流派について尋ねると、琴子は困ってしまった。
徹のことばかり考えて、この2年のトレンドを深く追えていなかったのだ。
的確な比較や批評ができない。
「では、以上で大丈夫です。」楓真が指でテーブルを軽く叩いた。
すぐに受付の人が来て、琴子を部屋の外に案内する。面接官たちに挨拶をして部屋を出た。
「面接の結果は、2営業日以内にお電話でご連絡いたします。」
受付がエレベーターまで案内してくれる。
「ありがとうございます。」
琴子は頭を下げ、最後に振り返った。
楓真たちはまだ部屋に残っており、採用について話し合っているのだろう。
彼がこの場にいるのは意外だったが、コネを頼ろうとは思わなかった。
エレベーターに乗り、星築を出たその時、徹からメッセージが届いた。
「今日は残業で遅くなる。夕食を用意して待っていて。」
徹が残業するかどうか、普段なら事前に連絡してくることはない。
今日は例外的に知らせてきた。
琴子は帰宅し、夕食を準備して待つつもりだった。
まだ聡の件が終わっていないから。
――星築、オフィス内。
高橋楓真は琴子の採用を提案したが、半数が反対した。
「社長、彼女は確かに素質はありますが、新卒でもっと最近のデザイントレンドに詳しい人は他にもいます。」
「卒業制作で賞を取っているので、アシスタントだけでは満足しないかもしれません。」
「謙虚な態度でしたし、一度試してみてもいいのでは?何かサプライズがあるかもしれません。」
意見は割れたが、最終的な決定権は楓真にある。
数秒の沈黙の後、楓真が口を開いた。
「小林部長の意見に賛成です。」
最後に発言した小林部長が賛成派だった。つまり琴子を採用するということだ。
楓真の一声で、その場は決まった。
その晩、星築の人事部から琴子に採用通知の電話が入った。
「来週月曜日、星築のデザイン部へ出社してください。」
電話を受けたとき、琴子は味噌汁を作っていた。
嬉しさのあまり、お玉を落としそうになる。
「はい、ありがとうございます!」
「ご入社を心よりお待ちしております。」
「私も星築に入れること、本当に光栄です!」
土鍋の味噌汁がぐつぐつと煮え、湯気が立ち上る。
切れた電話の画面が暗くなり、その中に琴子の口元の微かな笑みと小さなくぼみが映っていた。
「そんな大した会社でもないのに、ずいぶん喜んでるな。」
背後から徹の声が突然聞こえた。
琴子は驚いて手元が狂い、持っていたお玉を再び落としてしまう。
今度は床に当たって、「パリン」と音を立てて割れてしまった。