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第23話 二十四時間以内に服用すれば間に合う


琴子はしゃがみ込み、スプーンの破片を拾い上げた。

その視線は無意識にダイニングの入り口へと向かう。


広々とした邸宅には、台所の換気扇の低い音だけが響いている。琴子は思わず自嘲めいた笑みを浮かべた——

やはり聞き間違いだったらしい。

徹が急に彼女の仕事に関心を持つはずもない。

昨夜、車の中で言い争いになって以来、彼が残したのはバックミラーに映る冷たい横顔だけだった。


破片をゴミ箱に捨てる時、リビングの隅にある防犯カメラの赤いランプが点滅しているのに気づいた。

指先が止まり、徹が「家のことは全部任せる」と言ったことを思い出す。

今になってわかる。あの「信頼」とは、監視という名の籠の中だったのだ。


突然スマートフォンが震え、星築スペースの人事部から入社案内が届いた。

画面には、採用通知を受け取った時に自然と浮かんだ、彼女の口元のえくぼが映っている。


二年越しに、ようやく自分を証明するチャンスを掴んだ。それなのにその喜びも、すぐに苦味に変わる——

ちょうどその時、徹からメッセージが届いた。


【今夜は残業だ。待たなくていい。】


同じ頃、時崎グループの本部の最上階にある社長室では、白鳥美々が休憩室からゆっくりと出てきた。


「徹、週末に一緒にマンションを見に行けませんか?」

彼女はデスクの上にある写真立てに指を滑らせる。


徹は金縁の眼鏡を外し、眉間を軽く揉んだ。

「俺の名義の空きマンションがいくつかある。宮崎に案内させよう。」


白鳥は身をかがめて、彼の袖口を整えながら浴衣の襟元を少し緩める。

「徹のマンションに住むなんて、うわさになりそうですし。いっそ……」


「気にするな。」

徹は彼女の言葉を遮り、視線をタブレットへ移した。


画面には、台所で味噌汁を作る琴子の姿が映っている。

立ち上る湯気が彼女の顔をぼんやりと包み、昨夜、車の中で見せたあの強い瞳を思い出させた。


「徹、今夜は桃子の誕生日です。一緒にバースデーケーキを食べたいって。」

白鳥は妹の桃子のことを持ち出し、目の奥に一瞬したたかな色を浮かべる。

「彼女、徹に恩返しがしたいって、ずっと言ってるんです。」


徹は万年筆を持つ手を止めた。

桃子の心臓手術を全面的に支援したことは事実で、その恩義から白鳥にもつい甘くなっていた。


「宮崎に料亭を予約させよう。」やがてそう答えた。


社長室に夕食が運ばれてきたのは、すでに夜の九時を回っていた。

テーブルに並ぶ豪華な料理を前に、徹は眉をひそめる。

白鳥が用意したバースデーケーキは見た目こそ美しいが、琴子の味噌汁ほど口には合わなかった。


「徹さん、桃子に写真を送りましょう。会いたがってたので。」

白鳥はスマホを構え、徹の険しい表情と自分のツーショットをしっかりカメラに収めた。


写真の中で、白鳥は優しく微笑んでいるが、徹の瞳はどこまでも冷ややかだった。

この写真はすぐに匿名の番号へ送信され、こう添えられた。


【徹と白鳥部長、仲良くディナー中です。】


深夜十一時、邸宅のダイニングの灯りはまだついていた。

琴子は冷めきった料理と味噌汁を見つめ、スマホを握りしめている。

画面には、さきほど届いた写真——徹と白鳥が社長室で食事をしており、白鳥は彼の衣を身につけ、親しげな様子だ。


琴子は深く息を吸い、その写真を「証拠」フォルダに保存した。

指先が画面をなぞり、結婚写真で止まる——


その中の自分は、茜色の振袖を着て、幸せそうに笑っていた。


「琴子、もう目を覚ましなさい。」


そう独りごちる声には、覚悟が滲んでいた。


玄関から鍵の回る音がした。

徹が帰宅し、スーツには白鳥の香水の匂いが残っている。

ネクタイを外しかけた手が止まる——


いつもなら琴子が迎えに来て上着を受け取るのに、今日はダイニングに座ったまま、冷たい目で彼を見つめていた。


「食べたのか?」

どこか探るような口調だった。


琴子は答えず、避妊薬のボトルを彼の前に押し返した。

「自分で持っていてください。」


男は眉をひそめ、一瞬驚いたような表情を見せる。

思い出したのは、昨夜の車の中で「私はあなたのおもちゃじゃない」と琴子が歯を食いしばって言ったこと。

薬のボトルを指先で転がし、ふっと笑った。

「どうした?俺の子どもを産むのが怖いのか?」


「手を汚すのが嫌なだけ。」

琴子は食器を片付けながら、陶器がぶつかる音に怒りをにじませる。

「もう用がなければ休ませていただきます。明日は星築スペースの初出勤ですから。」


「星築スペース?」

徹は眉をひそめ、今朝高橋楓真が話していた「デザイン部の新入社員」のことを思い出し、苛立ちがこみ上げる。

「高橋楓真に頼れば、デザイン業界でやっていけるとでも思っているのか?」


琴子は振り返り、静かな目で彼を見た。

「少なくとも、誰かに養われるよりはまし。」


リビングの時計が十二時を告げた。

徹は階段を上がる琴子の背中を見つめ、ふと「もう愛さない」と言った彼女の言葉を思い出す。


ポケットの中でスマホが震えた。

白鳥からのおやすみメッセージだった。

しかし、琴子がテーブルに残した味噌汁のぬくもりが、どんな言葉よりも胸に刺さることに、初めて気づいた。


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