「琴子!」
高橋芽衣がドアの横に立っていた。鮮やかな赤毛を丸くまとめ、ニットのカーディガンに膝丈のスカートを合わせている。
彼女は無邪気に琴子へ微笑みかけると、きびすを返して枫真に声をかけた。
「兄さん、早く荷物運んで!」
猫の覗き穴越しに立っていた高橋枫真は、両手にいっぱいの食材が詰まった大きな袋を持っていた。
琴子はドアを大きく開け、二人を中に迎え入れた。
「芽衣、枫真兄さん、どうして来たの?」
「何言ってるの?」芽衣は琴子の腕を取って中へ。「ここに引っ越してきてどうするの?うちに住めばいいじゃん。家賃なんて取らないんだから。」
一方、枫真はテーブルに荷物を置き、手際よく冷蔵庫に食材をしまい始めた。
ここ数日、琴子はまだ食材を買い込んでいなかった。空っぽの冷蔵庫がすぐにいっぱいになり、琴子の心にもほんのり温かさが染み込んでいく気がした。
「ここ、星筑スペースに近いから、通勤が楽なの。」
「兄さんには『距離を考えろ』って言われたけど、私は気にしない。毎週末は絶対来て、一緒に過ごすからね。」
芽衣は琴子の手を引いてソファに座らせ、枫真に手招きする。
「兄さん、琴子に美味しいもの作ってあげて。最近痩せちゃってるんだから!」
琴子は居心地が悪くなり、すぐに立ち上がった。
「私でいいから!」
「いいよ、二人でゆっくり話して。」枫真はダイニングテーブルに手をつき、優しい声で言った。頭上の暖かなダイニングライトが、金色の光を彼の周りに広げている。
「手伝うよ……」琴子は言いかけてふと、「君子の品格は玉のようだ」という言葉が頭をよぎった。枫真は端整な顔立ちをしていて、時崎徹とはまったく違うタイプだ。
その場から動けずにいると、狭いキッチンでは二人で立つのは窮屈だと気付いた。大人同士だし、余計な気を使わせたくなかった。
「戻って、一緒に話そうよ。」芽衣がソファから立ち上がり、琴子をまた座らせる。
枫真は優しく琴子を見つめ、それからキッチンへ向かった。袖をまくり、手際よく料理を始める。
琴子は申し訳なく思いながらも、芽衣と話しつつ、キッチンの様子を気にしていた。枫真が何か困っていないか、気になって仕方がない。
キッチンで忙しくする枫真の姿を見ていると、自然と時崎徹のことを思い出した。彼がキッチンに立つ姿を琴子は一度も見たことがない。
琴子が知っている時崎徹は、スーツ姿で厳格な顔か、あるいは裸で情熱的な彼。その中間を見たことがなかった。
白鳥美々に向けていたようなあの柔らかな笑顔も、琴子には見せたことはない。愛するか否か、その違いは明白だった。
「琴子、週末に山登りに行かない?」芽衣が髪を指でくるくるしながら言う。「兄さんに荷物持たせて、私たちは登るだけ!」
琴子は目をぱちぱちさせる。「それはちょっと……」
「何がダメなの?」芽衣は唇を尖らせる。「兄さん、帰ってきてから私と全然遊んでくれないんだよ。今週末は私の言う通りにしてくれるって約束したし!」
枫真が芽衣をとても大事にしているのは明らかだった。愛情をたっぷり受けて育った芽衣だからこそ、こんなに無邪気で悩み知らずなのだろう。琴子は少しだけ羨ましく思う。
「枫真兄さんは忙しいんだし、せっかくの休みなんだから無理に山登りに連れて行かなくても……」枫真は良い兄だけど、あくまで芽衣のお兄さん。琴子は距離を大事にしなきゃと思う。
「ずっと仕事ばかりだから、運動も必要ってこと!」芽衣は納得していない様子で、琴子の言い分を聞こうとしない。そのままキッチンへ走って枫真に相談しに行った。
枫真はすぐにOKした。こうして、琴子には断る隙もなく、週末の山登りが決まった。
土曜の朝、琴子は高橋兄妹と一緒に山へ出かけた。
その日は時崎家の家族会の日だった。午後、徹は仕事を終えて早めに本家へ帰宅した。琴子もそろそろ落ち着いた頃だろう、この家族会をきっかけに謝らせればいいと思っていた。
マイバッハが時崎家の門前に停まる。車から降りた徹は、琴子の車がないことに気づく。そういえば、あの車は事故で壊れてしまったのだった。
包帯を巻いた琴子の額の痛々しい姿を思い出す。今日の琴子の態度が良ければ、新しい車を買ってやってもいい。徹はケチな男ではない。
邸宅に入り、靴を脱ぎコートを脱いで中へ進む。リビングでは祖母と慎一郎がお茶を飲んでいた。二人とも入口に目を向ける。
「琴子は?」慎一郎が徹の後ろに誰もいないのを見て、怪訝そうに眉をひそめた。琴子はまだ来ていないのか。
「もうすぐ来るだろう。」徹は答えた。いつもなら琴子は午前中には来ている。徹はわずかに顔を曇らせ、ネクタイを緩めて二階へ上がり、書斎で周防玲々と仕事の話をした。
一時間ほど経ち、書斎を出て二階の廊下からリビングを見下ろすと、慎一郎と祖母だけが座っている。
徹は寝室に戻り、スマホで家の監視カメラをチェックした。もうすぐ六時で、屋敷の中は薄暗く、静まり返っている。琴子の姿はどこにもなかった。
根気よく映像を巻き戻すと、徹が家を出たすぐ後、琴子もスーツケースを持って出て行ったことが分かった。早瀬鋭の問題が片付かない限り、琴子は動かないつもりなのだろう。
徹は宮崎高英に電話をかける。
「奥様が今どこにいるか調べろ。」
宮崎は徹の冷たい声に思わず身が縮こまる。
「かしこまりました、時崎様。」
十分も経たず、宮崎から報告が届いた。
「奥様はメゾネット・アーツに部屋を借りております。本日は高橋さんと山登りに出かけております。」
この二日間の行動しか調べていなかったため、来週から琴子が藍を蘊蓄で働く予定や、迎えの車に枫真も同乗していたことまでは調べきれなかった。
すでに部屋まで借りている。琴子は前回よりも本気のようだ。
電話口で宮崎が少し躊躇いつつ続ける。
「それと……最近、早瀬成伸さんが何度も連絡してきまして、早瀬鋭さんを出すようにと――さもなければ……」
「さもなければ?」徹が冷たく訊ねる。
「さもなければ、奥様と離婚しろと。」
宮崎は思い切って口にした。
琴子が早瀬の側につくはずがないと思い、宮崎は今まで早瀬の要求をはぐらかし、周防弁護士にも急ぐよう頼んでいた。しかし琴子が本当に家を出てしまった今、まさか早瀬の言葉を信じたのでは――と不安になった。
徹は怒りで手にしていたペンを、無意識に真っ二つに折っていた。
「奥様の行動と早瀬家の動きを、しっかり監視しろ。何かあればすぐ報告しろ。」
早瀬家が内縁関係を持ち出してきた場合、天穹株式会社にとって厄介な問題になる恐れがある。徹は警戒を強めた。
電話を切り、折れたペンをゴミ箱に捨てて下へ降りていく。
リビングに入ると、祖母がスマートフォンを手に不安そうな顔をしていた。
「徹、琴子はまだ来ないの?電話も繋がらないけど、何かあったんじゃない?」