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第45話 私が頭を下げるのは、愛しているからであって、それだけの女だからじゃない


高橋枫真が何を言ったのかはっきりとは聞き取れなかったが、彼の優しい声と、それに答える琴子の柔らかな返事が、徹の耳にはまるで甘いやりとりのように響いた。


最近、琴子が自分に話すときは、まるで氷のように冷たいのに。


「徹!何言ってるの、離して!」


思いがけず暗い部屋に誰かがいることに驚き、琴子は怒りと困惑で声を上げた。

抵抗すればするほど、腰を抱く腕はますます強くなる。


徹は腰から手を離し、今度は琴子の手首をつかみ、無理やり自分の方へ向き直らせた。


琴子は徹の膝の上に跨がる形になり、二人の距離はさらに近づく。


徹の存在が、圧倒的に迫ってきた。


「枫真兄は、あなたなんかと違って、ちゃんとした人よ!」


「ちゃんとした人、ね?」


徹の声は冷たく響いた。


「だったら、本当の下劣ってものを見せてやろうか」


そう言って、彼は琴子の顎を強くつかみ、無理やり顔を上げさせて、その唇を激しく奪った。


琴子は心臓が締め付けられるような思いで必死に抵抗した。


「誰かに聞かれたらどうするの?」


徹の動きが一瞬止まり、冷ややかに返す。


「どうした?あんたの枫真兄は“ちゃんとした人”で、俺は世間に顔向けできない男か?俺たちは正式な夫婦だろう」


「じゃあ、誰がコソコソしてきたっていうの?

私と結婚して二年、あなたは一度でも私を“妻”として認めてくれた?」


徹の表情は変わらず、琴子の言葉を気にも留めていない様子だった。


二年前に結婚を公表したところで、どうせ早瀬にそそのかされて離婚をちらつかせてきただろう?


「“妻”の座にふさわしいかどうかは、お前次第だ」


彼が放つ屈辱の言葉は、闇の中でも消えない。

琴子の頬は熱くなり、何度も何度も彼に踏みにじられる自尊心が、ついに崩れ去る。


「そうよ、私はふさわしくない!


妻にも、デザイナーにも、生きていることさえ、何一つ…


じゃあなんで私と結婚したの?」


かすかな震えが、声の端に滲む。


徹は一瞬だけ心が揺れたが、すぐにその感情を抑え込んだ。

自分の前では泣きながら強がりを言い、高橋枫真の前では素直に「枫真兄」と呼ぶくせに――


本当にくだらない。


「俺だって、好きで結婚したわけじゃない」


彼は琴子を乱暴に突き放し、しわくちゃになったスーツのズボンを無造作に直しながら、あからさまな嫌悪を見せた。


その言葉は、綿のように喉を詰まらせて、琴子は声もなく涙をこぼした。


ここが暗くてよかった。


彼に涙を見られたくなかった――特に、まだ彼のことで泣いている自分を。


服を整えた徹が部屋を出ようとすると、袖口をぎゅっとつかまれた。


ドアの隙間から差し込んだ光が、ちょうど琴子の顔を照らす。


赤く腫れた目元で、けれどその視線はまっすぐだ。


「だったら、離婚すればいいじゃない!」


今までなら、彼女が離婚を口にする勇気などないと高をくくっていた。

だが今は、何故かその自信が揺らいでいた。


「お前が俺に離婚を言い出す権利なんてあるのか?」

その言葉には、琴子の身分を見下す思いと、感謝しろという傲慢さが込められていた。


琴子は指先に力を込め、彼の袖を握りしめる。


「白鳥美々に誕生日サプライズを用意した時、

あなたは“妻”である私のことを考えた?

彼女と一緒に出かける時、自分が既婚者だと自覚していた?

私が事故で死にかけて病院にいた時、あなたは彼女のそばにいて…

それがどれだけ酷いか、分からないの?」


「今や彼女を私たちの新居に住まわせて、

ここにあるものは全部私がデザインしたのに。

彼女が“気に入らない”と言えば全部壊して作り直し、支払いはあなたのブラックカード――それは私たち夫婦の財産よ!

それでも、私には離婚を言い出す資格がないって?」


一つ一つの言葉が、琴子の心の痛みを積み重ねる。


だが目の前の男は、まるでそれが当然のことのように、何の反応も示さない。


「たかが家一軒のことで、いちいちお前に報告しなきゃいけないのか?

結局は、権力を握りたいだけだろう」


徹は琴子の言葉など信じていなかった。

高橋枫真と怪しい関係を作り、被害者ぶり、挙句に自分に泥を塗っているとしか思っていない。


琴子はその言葉に、またしても傷つく自分が悔しかった。

もう離婚するのだから、こんな言葉に苦しむ必要はないはずなのに。


それでも、どうしても伝えたかった。


「徹、私は確かに身分が低いし、この二年家にお金も入れていない。

でも、あなたを一番に考えて、“嫌”なんて一度も言わなかった。

それは、あなたを愛しているからで、

あなたのために家のことを引き受けてきた――

でも、それは“女として養われるしかない”からじゃない!

あなたのために主婦になることを選んだだけで、

それが私のすべてじゃない!」


彼と一緒に新居に来る日を、何度も夢見ていた。


リビングで一緒に日向ぼっこをしながらお茶を飲んだり、


書斎に二人用の机を置いて、彼が仕事をする横で自分は本を読んだり、


寝室には彼のために特別にソファを置いたり――


けれど、そんな願いは一つも叶わなかった。


最初に二人でこの新居に来たのは、記念日でもなく、


離婚の話をするために、このシアタールームだったなんて。


パチン、と音がして、シアタールームの照明がついた。


思わず目をつぶり、開けると、白鳥美々が別の入口から入ってくるのが見えた。


「徹さん、あなた…時崎デザイナーと結婚していたの?

前にオフィスで見かけた時は、時崎家の家政婦さんかと思ったわ。

どうして黙っていたの?」


白鳥美々は重々しい表情で言った。


「言う必要なんてない」


徹の声は冷たかった。


自分と白鳥美々の関係は潔白だ。琴子は口が達者なだけ。


「奥様、ごめんなさい。

ここがご夫婦の新居だと知らずに…。

すぐに出て行きます――」


白鳥美々は、誰も文句をつけられないほど丁寧な態度を見せる。


琴子は呆然とした。

裏では自分を挑発してきた白鳥美々が、徹の前ではこれほど「良識的」に振る舞うなんて。


「出て行かなくていい」

琴子が本気で離婚を望んでいるのを察し、徹は怒りをこらえきれず、白鳥美々に冷たく言い放つ。


「君はそのまま住めばいい。決めるのは俺だ」


「徹さん、私のせいで喧嘩なんてしないで。私、すごく気まずいから…」


白鳥美々は慌てた様子で琴子に向き直る。


「奥様、さっきの話は全部聞いていました。本当に、ご迷惑をおかけして…

でも、あなたが思っているようなことじゃないんです!」


琴子はただ、吐き気がする思いだった。

この裏表のある態度には、もう呆れるしかない。


「もう、何も説明はいらないわ。お幸せに」

そう言い残し、ドアを開けて出て行った。


こんな曖昧な関係、いっそ壊れてしまえばいい。

徹と白鳥美々がどうなろうと、今度こそ彼が離婚を認めるだろう。

明日、自分で離婚届を天穹株式会社に持って行こう。


「徹さん、早く奥様を追いかけて!ちゃんと説明しなきゃ……」

白鳥美々は閉まりかけたドアを押さえ、徹を外へと促した。



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