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第46話 通りすがりじゃない、時崎琴子に会いに来た


時崎琴子は足早にその場を離れた。


時崎徹が追いかけて来た時には、彼女の後ろ姿が角を曲がって消えるところだった。


徹は白鳥美々に手を引かれていたが、その手を振りほどき、低い声で言った。


「君は彼女たちと採寸を続けて。俺のことは気にしなくていい。」


そう言い残し、反対方向へ歩き出した。


白鳥美々はその場に立ち尽くし、二人が左右に離れていくのを見送る。唇の端には、誰にも気づかれないほどの小さな笑みが浮かんでいた。




上田麻衣はすでに二階で採寸作業に入っており、下の出来事には気づいていなかった。


琴子が戻ると、すぐに異変に気づく。


「泣いてた? 家で何かあった?」


「大丈夫。採寸が終わったら、帰ってから対応するから。」


琴子は特に弁解することもなく答えた。


目元が腫れているのを自分でも感じていたし、誤魔化せないのは分かっていた。


上田麻衣は「コネ入社」と噂される琴子に不満はあるものの、根は悪い人間ではない。


「用事があるなら、無理しなくていいよ。一人でもできるから。」


琴子は首を振り、彼女の手から紙とペンを受け取った。


「一緒にやろう。」


仕事を疎かにしたくなかった。真剣に取り組めば、きっと麻衣も自分を認めてくれるはずだと信じていた。




二人でペースを上げ、約一時間ですべての採寸を終えた。


「美々さんたち、庭にいるみたい。」


白鳥美々と時崎徹を探しても見当たらず、上田麻衣はメッセージを送った。


「一言挨拶してから帰ろうか。」


琴子は麻衣に言った。


「麻衣さん、行ってきて。私は玄関で待ってる。」


もうあの二人の顔は見たくなかった。


「分かった。」


麻衣は手を振って琴子を先に行かせ、自分は庭へと向かった。




裏庭には池があり、時崎徹は池のほとりに立って背を向け、餌を撒いていた。


麻衣からは表情は見えなかったが、どこか近寄りがたい空気を感じた。


白鳥美々は少し離れた場所から、じっと徹を見つめていた。


「美々さん、採寸終わりました。」


麻衣がそっと声をかける。


美々が振り返ると、そこには麻衣一人だけ。


「琴子さんは?」


「家のことで用ができて、先に帰ります。」


麻衣は邸宅の入り口を指さした。


「玄関で待ってます。」




二人のやり取りは徹の耳にも届いた。


徹は車のそばに立つ琴子に目をやる。彼女は街灯の下でスマホを見つめ、白い首筋が少しだけ見えている。


もしかして高橋枫真にメッセージでも送っているのか。彼女の表情には、どこか柔らかな色が浮かんでいた。


家の用事なんて嘘だ。きっと誰かと約束しているに違いない。


ふいに、あの時の琴子の言葉が蘇る。


「私はいつもあなたを最優先にして、絶対に『嫌だ』なんて言わなかった。それは、あなたを愛していたから。」


その愛が、こんなにも簡単に消えるものなのか? すぐに他の男に心を奪われるなんて。


この数日、琴子の態度は明らかにこの二年間とは違っていた。


そのことに気づくと、徹の胸はさらにざわついた。やっぱり従順に自分の言うことを聞いてくれるあの頃の琴子でいてほしかった。




ぼんやりしていると、美々が麻衣を見送り、こちらに近づいてきた。


徹が再び玄関を見ると、すでに麻衣の車は見えなくなっていた。


徹は餌を放り投げ、


「用事ができたから、食事はやめておく。」


そう言い残し、屋敷に戻って車のキーを手に、足早にその場を去った。




帰り道、琴子はずっと黙ったままだった。


代わりに麻衣がよく喋った。


「この邸宅のデザイン、なかなか独特だと思わない?」


「まあ、普通かな。」


琴子は自信なさげに答えた。


自分の好みだけで選んだだけで、特別なこだわりがあったわけじゃない。


「やっぱり素人なんだね。」


麻衣はあっさりと琴子を「外野」扱いした。


デザイン業界でもちょっと名の知れた麻衣からすれば、プロならこの邸宅のインテリアを気に入るはずだ。


琴子はそれ以上何も言わなかった。


心の中では、離婚届をいつも持ち歩けたらどんなに楽だろう、と考えていた。そうすればわざわざ徹に会いに行かずに済むし、署名をお願いするだけで終わるのに。




琴子が中心部で下車した時には、もう夜の八時近くだった。


そこからタクシーに乗り換え、メゾネット・アーツへ向かう。


マンションに着いたのは八時半。琴子は急ぎ足でエントランスに入った。




家の扉を開けると、高橋芽衣が「忠犬」みたいな格好で玄関に立っていた。


琴子は一瞬驚き、思わず吹き出してしまう。胸の奥に溜まっていた重苦しさが一気に和らいだ。


「もう、遅いよ!ご飯が冷めるくらいはまだしも、唯一の親友が餓死しそうだったんだから!」


芽衣は琴子が笑ったのを確認してから、ちょっとすました顔で言う。


「これからは遅くまで仕事禁止。もっと私と一緒にいて!」


琴子は靴を脱いでバッグを置き、コートを脱ぎながら、


「分かった。明日は土曜で休みだし、一日中一緒にいるよ。」


「それならよし、早くご飯食べよ!」


芽衣は琴子の腕を取ってダイニングへ連れていった。




芽衣は窓際で琴子の帰りを見張っていて、彼女がマンションに入るのを見て、すかさず高橋枫真に料理を温め直すよう頼んでいた。


ちょうど六品のうち、半分くらいが温まったところ。


琴子はキッチンに行き、枫真の手からフライパンを受け取ろうとする。


「枫真兄、私がやるよ。」


「一日中働いてきたんだから、座ってて。もうすぐできるから。」


枫真は手を離さない。


琴子はそっと彼の指先に触れて、すぐに手を引っ込めた。


「二人も一日仕事だったんでしょ? 私だけ休むのは気が引けるよ。」


芽衣はすでに食卓で食べ始めており、口いっぱいにしながら、


「将来私が離婚した時も、こうやってお世話してよね。」


枫真が眉をひそめて振り返る。


「そんなこと言うな。」


「ちゃんと相手を見極めて。私みたいに苦労しないように。」


琴子は、芽衣が離婚の話題を出しても自分を傷つけるつもりじゃないと分かっている。


芽衣は舌を出して、また食事へと戻った。




やがて全ての料理が温まった。


琴子と枫真が席に着いた時には、芽衣はすでに半分以上食べ終えていた。


「仕事は順調?」


芽衣はほぼ毎日この質問をしてくる。


琴子はうなずく。


「順調だよ。心配いらない。同僚もみんな優しいし。」


枫真が芽衣の皿に料理を取ろうとすると、芽衣は断り、代わりに琴子の茶碗に一品を入れてくれた。


「仕事始めは大変だろうから、しっかり食べてね。」


それは琴子が昔好きだった塩焼きエビだった。


時崎徹はエビの匂いすら嫌っていたので、琴子もずっと食べていなかった。


「うん、デザインの仕事は割とすぐ慣れたよ。」


この二年、徹の世話と家事ばかりで忙しかったから、働き始めても思ったより苦ではなかった。


枫真は微笑んでうなずき、あとは二人の話を静かに聞いていた。




食事が終わったのは十時半を過ぎていた。


琴子は翌日休みということで、芽衣はそのまま泊まることに決めた。


枫真は帰る準備をして、メゾネット・アーツのエントランスを出たところで、道端に停まったマイバッハに気づく。


エンジンはかかったまま、車内は真っ暗で窓も閉まっていた。


だが、中にいるのが時崎徹だと分かっていた。


どうするか迷っていると、車のドアが開き、長い足を伸ばして徹が降りてきた。


革靴で地面を踏みしめ、ドアにもたれかかるようにして、わざとらしく言う。


「奇遇だな。また通りすがりか?」


「通りすがりじゃない。時崎琴子に会いに来た。」


枫真は淡々とそう答えた。



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