目次
ブックマーク
応援する
18
コメント
シェア
通報

第48話 もし彼が優しくしてくれたら、私はきっと耐えきれない


琴子が素直に頭を下げると、徹の目はむしろ暗く沈んだ。離婚のためなら、こんな屈辱も我慢できるのか――そんな思いが彼の胸をよぎる。


徹は長いまつげの影を落とし、腕時計のガラスを指先でなぞる。しばらく黙った後、低い声で口を開いた。


「それと、人を連れ戻して離婚するまでの間は、妻としての役目を果たしてもらう。」


琴子の喉が詰まりそうになる。今日は土曜日。つまり、彼と一緒に時崎家へ戻ることになる。


仕方がない。まだ離婚は成立していない。時崎家の家族を巻き込んでしまったら、もっと離れにくくなってしまうかもしれない。


時崎家の年配の方々は彼女を大切にしてくれる。でも、こういう名家が「男の浮気」にどれだけ寛容なのかは測りかねる――もし徹が責められても、結局は「離婚しないで」と言われてしまったら、どうすればいいのか。


そんな板挟みになりたくないから、今は黙っておくしかない。ただ、彼女の我慢は、もう限界に近づいていた。


目の前の端正な男を見つめる時間が、ひと時ごとに苦痛になっていく。心が揺れるたび、痛みが増していく。


徹は、まるで大きな苦しみに耐えているみたいな琴子を見て、机を指で軽く叩きながら言った。


「無理強いはしないよ。嫌なら、離婚届を持って出て行けばいい。」


「分かった。約束する。でも、その時は必ずサインしてね?」


琴子が念を押すと、徹の中に奇妙な独占欲が芽生える。彼女が自分を見つめたあの頃の、星空のように輝く目をもう一度見たい――そんな思いが込み上げる。


「君が本気なら、断る理由はないさ。」


琴子は、これで話はついたと感じた。徹も理由なく約束を破ることはないだろう。離婚届を置いて、時崎家へ向かう。いつものように、老奥様の好きな和菓子を手土産に持って。


十時ごろに着くと、老奥様がにこやかに迎えてくれる。


「琴子ちゃん、もう体は大丈夫なの?」


玄関で靴を脱ぎながら、琴子は先週来られなかったことを思い出す。きっと徹が「体調が悪い」とでもごまかしたのだろう。老奥様の手を取って微笑んだ。


「大丈夫です、ご心配おかけしました。」


老奥様は皺だらけの顔をほころばせる。


「元気ならそれでいいわ。半月も顔を見ないと寂しくてね、さあ、ゆっくり話しましょう。」


琴子が時崎家に帰ると、たいていは老奥様の相手をする。玲々と慎一郎は出張中で、家には老奥様ひとり。琴子が来ると、老奥様は昼寝も忘れて、午後いっぱいおしゃべりに夢中になる。


夜になり、徹がちょうど夕食時に帰宅する。


食卓で老奥様は琴子に次々と料理を取り分ける。


「なんだか痩せたんじゃない?」


徹はその言葉に反応して、隣の琴子をそっと見る。


すぐ隣に座る彼女からは、ほのかな花の香りがした。もともと細身だった腰がさらに細くなったように感じる。でも、女性らしいラインはむしろ以前より際立っている。


徹は思わず息を呑み、琴子の尖った顎に視線を落とした。


「おばあさま、痩せてませんよ。多分、寒いから着込んでるだけです。」


本当は痩せていた。離婚を切り出してから食欲も睡眠も落ち、去年のパンツは今やぶかぶか。でも、老奥様を心配させたくなくて、琴子は笑ってごまかす。


「私の目はごまかせないよ。」老奥様は徹に向き直る。「どう思う?」


徹は真面目な顔で頷いた。


「少しは痩せたけど……問題ないよ。」


その「問題ない」は、手触りには何の支障もないという意味だった。


琴子はその裏の意味に気づき、頬が一気に熱くなる。


「おばあさま、もっと召し上がってください。」


話題を変えようと、必死に料理を取ってあげる。


けれど老奥様は譲らない。


「少しくらいなら大丈夫だけど、もっと痩せたら体に悪いよ。男なら妻を大事にしなきゃ。あなたもお父さんを見習いなさい。」


徹は意味深に微笑みながら答える。


「おばあさまの言う通り、ちゃんと大切にします。」


琴子に料理を取ってあげるが、彼女は受け取っただけで口にしなかった。食事が終わっても、それはそのままだった。


「今夜は泊まっていきなさい。お父さんたちもいないし、私ひとりじゃ寂しいから。」


老奥様の言葉に、徹はすぐに「もちろん、琴子と一緒にいます」と答える。


琴子はメゾネット・アーツへ帰ろうと思っていたが、徹のあまりの即答に言葉を失い、結局老奥様に連れられて花房の手入れをすることになった。


すっかり遅くなり、老奥様に「もう遅いわよ、徹を待たせたらかわいそうだから、早く休みなさい」と背中を押される。


老奥様を部屋へ送り、自分は温室で汗をかいた。着替えは二階の寝室にしかないので、取りに行くしかない。


ドアを開けると、部屋は真っ暗だった。徹がいないと分かって、琴子はほっとする。だが、クローゼットで灯りをつけて振り返った瞬間、バスローブ姿の徹が部屋の真ん中に立っていた。


「な、なんで電気つけないの!」


徹は落ち着いた様子で応じる。


「ここは俺の部屋だから、つけたくなければつけないよ。」


バスローブの隙間からは褐色の胸元、引き締まった腹筋がちらりと見え、まるで誘惑するかのような佇まいだった。琴子は平静を装いながらも、目がふいに泳ぐ。


「着替えを取りに来ただけ。」


「どうぞ。」


徹はクローゼットから黒いサテンのルームウェアを取り出し、ためらいなくバスローブを脱ぐ。


ちょうど彼の横でしゃがんでいた琴子は、思わず目のやり場に困り、呼吸が止まりそうになる。裸なのは彼のほうなのに、顔を真っ赤にしてしまうのは自分だった。


徹は何事もなかったように服を着ながら、琴子を見下ろす。


「もう十分見た?」


「お風呂に入ってくる。」


琴子は慌てて服を抱えて逃げる。


徹は不敵な笑みを浮かべ、琴子のことをよく知っていると確信していた。男として、女性が優しさに弱いことも分かっている。もし自分が本気で口説けば、琴子はきっと耐えきれないだろう。


だって、彼女はかつて自分を愛していたのだから。そんな簡単に心は消せない。


琴子はシャワーを浴び、ようやく今夜は徹と同じ部屋で寝るのだと思い出す。濡れた髪を拭きながら、布団を持って隣の客間で寝ようとする。


ベッドのそばで手を伸ばした瞬間、手首を徹に引かれた。


彼の顔にはいつもの鋭さはなく、穏やかな優しさがあった。大きな手は少しざらついていて、しっかりと握りしめられる感覚が、くすぐったくもあり、しびれるようでもあった。


「約束したよね。妻としての役目、果たしてくれるんだろ?」


その声は低くかすれて、ただ手を引くだけで無理やりではない。本気で彼女の気持ちを確かめるように、静かに問いかけた。


「……いい?」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?