琴子が素直に頭を下げると、徹の目はむしろ暗く沈んだ。離婚のためなら、こんな屈辱も我慢できるのか――そんな思いが彼の胸をよぎる。
徹は長いまつげの影を落とし、腕時計のガラスを指先でなぞる。しばらく黙った後、低い声で口を開いた。
「それと、人を連れ戻して離婚するまでの間は、妻としての役目を果たしてもらう。」
琴子の喉が詰まりそうになる。今日は土曜日。つまり、彼と一緒に時崎家へ戻ることになる。
仕方がない。まだ離婚は成立していない。時崎家の家族を巻き込んでしまったら、もっと離れにくくなってしまうかもしれない。
時崎家の年配の方々は彼女を大切にしてくれる。でも、こういう名家が「男の浮気」にどれだけ寛容なのかは測りかねる――もし徹が責められても、結局は「離婚しないで」と言われてしまったら、どうすればいいのか。
そんな板挟みになりたくないから、今は黙っておくしかない。ただ、彼女の我慢は、もう限界に近づいていた。
目の前の端正な男を見つめる時間が、ひと時ごとに苦痛になっていく。心が揺れるたび、痛みが増していく。
徹は、まるで大きな苦しみに耐えているみたいな琴子を見て、机を指で軽く叩きながら言った。
「無理強いはしないよ。嫌なら、離婚届を持って出て行けばいい。」
「分かった。約束する。でも、その時は必ずサインしてね?」
琴子が念を押すと、徹の中に奇妙な独占欲が芽生える。彼女が自分を見つめたあの頃の、星空のように輝く目をもう一度見たい――そんな思いが込み上げる。
「君が本気なら、断る理由はないさ。」
琴子は、これで話はついたと感じた。徹も理由なく約束を破ることはないだろう。離婚届を置いて、時崎家へ向かう。いつものように、老奥様の好きな和菓子を手土産に持って。
十時ごろに着くと、老奥様がにこやかに迎えてくれる。
「琴子ちゃん、もう体は大丈夫なの?」
玄関で靴を脱ぎながら、琴子は先週来られなかったことを思い出す。きっと徹が「体調が悪い」とでもごまかしたのだろう。老奥様の手を取って微笑んだ。
「大丈夫です、ご心配おかけしました。」
老奥様は皺だらけの顔をほころばせる。
「元気ならそれでいいわ。半月も顔を見ないと寂しくてね、さあ、ゆっくり話しましょう。」
琴子が時崎家に帰ると、たいていは老奥様の相手をする。玲々と慎一郎は出張中で、家には老奥様ひとり。琴子が来ると、老奥様は昼寝も忘れて、午後いっぱいおしゃべりに夢中になる。
夜になり、徹がちょうど夕食時に帰宅する。
食卓で老奥様は琴子に次々と料理を取り分ける。
「なんだか痩せたんじゃない?」
徹はその言葉に反応して、隣の琴子をそっと見る。
すぐ隣に座る彼女からは、ほのかな花の香りがした。もともと細身だった腰がさらに細くなったように感じる。でも、女性らしいラインはむしろ以前より際立っている。
徹は思わず息を呑み、琴子の尖った顎に視線を落とした。
「おばあさま、痩せてませんよ。多分、寒いから着込んでるだけです。」
本当は痩せていた。離婚を切り出してから食欲も睡眠も落ち、去年のパンツは今やぶかぶか。でも、老奥様を心配させたくなくて、琴子は笑ってごまかす。
「私の目はごまかせないよ。」老奥様は徹に向き直る。「どう思う?」
徹は真面目な顔で頷いた。
「少しは痩せたけど……問題ないよ。」
その「問題ない」は、手触りには何の支障もないという意味だった。
琴子はその裏の意味に気づき、頬が一気に熱くなる。
「おばあさま、もっと召し上がってください。」
話題を変えようと、必死に料理を取ってあげる。
けれど老奥様は譲らない。
「少しくらいなら大丈夫だけど、もっと痩せたら体に悪いよ。男なら妻を大事にしなきゃ。あなたもお父さんを見習いなさい。」
徹は意味深に微笑みながら答える。
「おばあさまの言う通り、ちゃんと大切にします。」
琴子に料理を取ってあげるが、彼女は受け取っただけで口にしなかった。食事が終わっても、それはそのままだった。
「今夜は泊まっていきなさい。お父さんたちもいないし、私ひとりじゃ寂しいから。」
老奥様の言葉に、徹はすぐに「もちろん、琴子と一緒にいます」と答える。
琴子はメゾネット・アーツへ帰ろうと思っていたが、徹のあまりの即答に言葉を失い、結局老奥様に連れられて花房の手入れをすることになった。
すっかり遅くなり、老奥様に「もう遅いわよ、徹を待たせたらかわいそうだから、早く休みなさい」と背中を押される。
老奥様を部屋へ送り、自分は温室で汗をかいた。着替えは二階の寝室にしかないので、取りに行くしかない。
ドアを開けると、部屋は真っ暗だった。徹がいないと分かって、琴子はほっとする。だが、クローゼットで灯りをつけて振り返った瞬間、バスローブ姿の徹が部屋の真ん中に立っていた。
「な、なんで電気つけないの!」
徹は落ち着いた様子で応じる。
「ここは俺の部屋だから、つけたくなければつけないよ。」
バスローブの隙間からは褐色の胸元、引き締まった腹筋がちらりと見え、まるで誘惑するかのような佇まいだった。琴子は平静を装いながらも、目がふいに泳ぐ。
「着替えを取りに来ただけ。」
「どうぞ。」
徹はクローゼットから黒いサテンのルームウェアを取り出し、ためらいなくバスローブを脱ぐ。
ちょうど彼の横でしゃがんでいた琴子は、思わず目のやり場に困り、呼吸が止まりそうになる。裸なのは彼のほうなのに、顔を真っ赤にしてしまうのは自分だった。
徹は何事もなかったように服を着ながら、琴子を見下ろす。
「もう十分見た?」
「お風呂に入ってくる。」
琴子は慌てて服を抱えて逃げる。
徹は不敵な笑みを浮かべ、琴子のことをよく知っていると確信していた。男として、女性が優しさに弱いことも分かっている。もし自分が本気で口説けば、琴子はきっと耐えきれないだろう。
だって、彼女はかつて自分を愛していたのだから。そんな簡単に心は消せない。
琴子はシャワーを浴び、ようやく今夜は徹と同じ部屋で寝るのだと思い出す。濡れた髪を拭きながら、布団を持って隣の客間で寝ようとする。
ベッドのそばで手を伸ばした瞬間、手首を徹に引かれた。
彼の顔にはいつもの鋭さはなく、穏やかな優しさがあった。大きな手は少しざらついていて、しっかりと握りしめられる感覚が、くすぐったくもあり、しびれるようでもあった。
「約束したよね。妻としての役目、果たしてくれるんだろ?」
その声は低くかすれて、ただ手を引くだけで無理やりではない。本気で彼女の気持ちを確かめるように、静かに問いかけた。
「……いい?」