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第49話 時崎琴子、いずれ私にすがりつくことになる


この二年間、時崎徹は一度も琴子の考えを尋ねたことがなかった。今回が初めてだ。白と黒のコントラストがはっきりした瞳に、珍しく真剣な色が宿っている。


琴子の澄んだ瞳が微かに震え、心臓の激しい鼓動が自分でもはっきりと聞こえる。


彼女は何も言わなかったが、徹にはそれが了承の意思に見えた──なにせ、琴子はいつも彼の甘い囁きに抗えなかったからだ。以前もベッドでからかわれると、少し甘い言葉を囁かれるだけで、すぐに力が抜けてしまっていた。


今も、どうやら変わっていないらしい。徹の目の奥に笑みが浮かび、薄い唇が彼女の美しいまぶたにそっと触れる。キスは軽く、けれども彼の吐息は熱くて火照るほどだった。


琴子はまぶたを伏せ、視線の先には彼の色気のある喉元と鎖骨が映っている。唇をきゅっと噛みしめ、彼が唇にキスしようとしたとき、静かに口を開いた。


「時崎徹、あなたはただ私と寝たいだけでしょう?」


彼が自分を愛していないことを理解した今、琴子はようやく気づけた。彼の甘い誘いはすべて身体が目当てで、そこに愛情は一切ない。ただ欲望だけだったのだ。


「君はくれるのか?」


本音を突かれても、徹は全く動じなかった。自分の正妻と寝たいと思うのは、何もおかしなことではないと思っている。彼女は離婚しようとし、彼は己の欲望を満たしたい、それだけのことだ。


徹は自分の肉体的な好意を隠したことがない。むしろ、そこに少しでも惹かれる気持ちがなければ、ここまで琴子に執着することもなかったはずだとさえ思っている。


「私はあげたくない。」琴子はきっぱりと答えた。「でも、もしあなたが無理やりするなら……」


言いかけて、言葉を止める。男女の力の差は歴然だ。本当に強引にこられたら、琴子には抵抗できない。


あまりに率直な言葉に、徹は無言で琴子の唇を塞いだ。この口はいつからこんなに反抗的になったのか。自分が欲しいとき、彼女が応じれば、お互いに気持ちいいだけなのに、琴子には何の損もないはずだ。


本来なら離婚の話など忘れてのめり込むこともできた。だが、琴子の言葉が彼を苛立たせる。耳元で低く囁いた。


「気持ちよくないのか?」


「気持ちよくない。」琴子は体を強張らせて、わざと彼を満足させない態度をとる。


あまりに非協力的な態度に、徹の興奮は徐々に冷め、やがて苛立ちに変わる。部屋は暗い照明の下、琴子の上に覆いかぶさる徹の顔は陰に隠れているが、鋭い眼差しだけが際立っている。


琴子の整った顔立ちと、どこか冷たい表情。徹は、かつて自分の腕の中で小さな子猫のように甘えていた、頬を赤らめて声を漏らしていたあの琴子の面影を、もはや見つけることができなかった。


徹はプライドが高い男だ。そのことを琴子はよく知っている。前に徹が酔った時、琴子がわざと拒むと、彼はそれにますます興奮していた。でも今回は、琴子が本当に望んでいないことが明らかなので、不快に思いながらも、無理強いはしない。ただし、怒りは心の奥底にたまっていく。


「何を気取っている?俺が君に未だに興味を持っていることを、むしろ感謝すべきだろう!」徹は指で彼女の顎を強く掴み、琴子が痛がろうとお構いなしだった。


琴子の口元に皮肉な笑みが浮かぶ。「時崎徹、あなたは本当に自分勝手ね!」


その瞬間、徹の瞳に怒りの炎が灯る──はっきり言えば、琴子が自分の好意を無下にしていることが腹立たしいのだ。離婚話で自分が譲歩しすぎたせいで、琴子に何度も限界を試されていると思い知る。自分から追いかけるべきじゃなかった、琴子の方からすがってくるように仕向けるべきだったのだ。


彼女が一時の気まぐれで、自分のそばにいられることがどれほどの幸運か忘れているだけで、自分の生活を乱されるのは我慢できない。元に戻りたいなら、多少手段を選ばないことも厭わない。


「時崎琴子、そのうち必ず、君の方から俺にすがりついてくることになるぞ!」


徹は琴子の顎を乱暴に放し、彼女は痛みで目に涙を浮かべる。徹の表情は怒りから冷静へと変わり、何かを決意したようだった。彼はベッドを離れ、枕元の煙草とライターを取って寝室を出ていった。


琴子は一晩中眠れず、不安な思いを抱えたまま夜を明かした。夜明け近くになってようやく浅い眠りにつき、目が覚めたのはもう九時近くだった。急いで身支度を整え、階下へ向かう。


時崎家の奥様は毎週末の午前中、書斎で写経をされる。決して邪魔をしてはいけないと決まっている。


リビングには誰もおらず、庭にも徹の車が見当たらない。今日は渡辺家の人と十時に約束している。急いで奥様の専属運転手・小林を探した。


「小林さん、街まで送ってもらえますか?」


今からタクシーで行くと到底間に合わない。琴子は必死で頼み込むしかなかった。


「申し訳ありません、奥様。若旦那様から、奥様の車は動かすなと命じられております。万が一のことがあっては困るので……」小林は目を逸らし、琴子の顔をまともに見ようとしなかった。


その瞬間、琴子はすべてを悟った──これが徹の言っていた「いずれ私にすがることになる」ということか。琴子は冷たく笑い、「分かりました」とだけ答えた。


荷物を持って時崎家を出ると、タクシーを呼びながら周防看護師に連絡した。「十時には間に合わないかもしれません」と伝える。


「焦らなくて大丈夫、渡辺家の方が私たちよりずっと切羽詰まってるから。」周防から返信が来た。


渡辺家の息子は一人っ子で、たとえ数年の服役でも両親には大きな痛手だ。


十時半、琴子はようやくカフェに到着した。周防が店の前で待っていた。「渡辺家の方に連絡したら、ちょうど向こうも私を探してた。取引の話をしたいようだ。」声を潜めて言う。「琴子さん、落ち着いて。」


琴子はうなずいた。「分かってる。」


カフェの中には、六十代くらいの夫婦が座っていた。前回の裁判で会った母親の顔はよく覚えている。尖った顔立ちで、法廷では大声で被害者ぶって泣き叫び、勝訴が決まったとたん、満面の笑みに変わった人だった。


琴子が入った瞬間、渡辺の母親が駆け寄ってきて、彼女の前でいきなりひざまずいた。


「琴子さん、どうか息子を許して!あの子はあなたの弟さんのせいで妻子と別れ、傷ついてあなたを脅かすなんてことを……あなたたちはもううちの嫁を死なせてるじゃない、これ以上息子まで……」


週末の午前のカフェは空いていたが、一気に注目が集まり、周囲はざわついた。渡辺母は琴子に道徳的な責任を押し付けようとする。


だが、周防が事前に釘を刺してくれていたおかげで、琴子は冷静さを失わなかった。


「ここは人目のある場所です。脅されに来たわけじゃありません。話をするなら、落ち着いて座ってください。無理なら、私は帰ります。」


渡辺母の泣き声はピタリと止まり、体も固まった。


「琴子さん、ちゃんと席について話しましょう。」父親が立ち上がり、母親を椅子に座らせる。


琴子は周囲の視線を気にせず、二人の正面に座る。無駄なやりとりはせず、本題に切り込んだ。


「私の弟が冤罪かどうか、一番分かっているのはあなたたちです。あなたの息子は明らかに罪を犯した。この取引、あなたたちにとって損はありません。」

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