目次
ブックマーク
応援する
20
コメント
シェア
通報

第51話 結婚生活の裏切り、マイホームは他人の棲みかに


時崎徹の鋭い視線が、じっと琴子を追っていた。その冷たい眼差しは、車の窓を突き抜け、道路の向こうまで琴子を追い詰めてくるようだった。


車に乗り込んだ琴子は、まだ背筋に寒気が残っていて、小さな声で「枫真兄、行こう」と促した。


SUVは向きを変え、メルセデス・マイバッハのすぐ横をすり抜けて走り去る。宮崎は額の汗をぬぐいながら、内心ひやりとしていた――時崎様が「無駄足」を踏むなんて、今までなかった。まるでドラマの脇役みたいに、余計なことばかり言って失敗した。さっき黙っていれば、奥様はすでに車に乗っていたはずだ。高橋枫真に出番を与える隙なんてなかったのに。


「時崎様、どうしましょうか?」


「ここで待ってても捕まるだけだろ?」徹は前方の車を睨みつけた。「追え。どこへ行くか見てみろ。」


こんな風に自分から追いかけるなんて、プライドが許さない。高橋家も、いずれ枫真のせいで傾くだろう。徹は唇を固く引き結び、仕事に目を落とすが、いつもなら頭に入ってくるはずの資料が、今日はなぜか全く理解できない。


思い切ってノートパソコンを閉じると、眉間をつまんで頭痛をこらえた。琴子、お前は俺の目の前で他の男の車に乗るなんて……助手席じゃないにしても許せない。後ろ盾があるからって、調子に乗るなよ――。


心の中で高橋枫真にしっかり恨みを刻みながらも、表立って文句は言わない。女のことで揉めるのは自分の流儀じゃない。だが、やり返す手はいくらでもある。


「時崎様、奥様のマンションに入りました。」メイバッハがメゾネット・アーツの前で停まると、宮崎が指示を仰ぐ。


「俺は降りない。」徹は決して自分から近づかない。琴子に自分の気持ちを悟られるのが我慢ならないのだ。だが、SUVがマンションに入っていくのを見つめるその瞳は、まるで氷のように冷たかった。


SUVには、枫真だけでなく芽衣も同乗していた。昨日琴子が時崎家の本宅に泊まったとき、芽衣に連絡していたのだ。


乗り込むなり、芽衣が琴子の襟元を掴んで首筋を確認する。新しい跡がないのを確かめると、ようやく手を離した。「時崎の犬、ここに何しに来たの?」


彼女は窓越しにマイバッハを睨みつけ、今にも車を壊しそうな勢いだ。


琴子は首を振る。「分からない。偶然と言うには出来すぎてる。でも、徹が私のために来たなんて思いたくない。」


「もうあいつの話はやめて!」芽衣はわざと話題を変える。「鋭は?」


「両親が迎えに来た。」鋭のことを思い出すと、琴子はまた早瀬夫妻に無視された場面が胸をよぎった。覚悟していたはずなのに、実際に起きるとやっぱり胸が苦しい。


徹に愛されていないと分かっていても、冷たくされると傷つくし、両親に兄ばかり大事にされて、自分がいないもの扱いされると、息が詰まる。


「こんな辺ぴな所で、なんであんたまで置いて帰るかな……」芽衣は怒りを抑えきれない。


その言葉を枫真がさえぎった。「もう遅いし、ご飯食べに行こう。」


琴子はお腹が空いていなかった。外で長い間寒さにさらされて、体が冷えきっている。毛織のコートをぎゅっと抱きしめる。「うちで食べようか。」


「いいね、兄貴に作らせよう。」芽衣は当然のように兄をこき使う。


「やっぱり外で食べよう、私がごちそうするよ。」琴子はバックミラーにまだマイバッハがいるのに気づき、本当は家に帰りたかったが、枫真に料理をさせるのが申し訳なく感じた。


芽衣なら平気で頼めるが、自分はまだそこまで親しいわけじゃないし、彼はあくまでお客さんだ。


「2年間、海外で和食が食べられなくて、ずっと自炊してた。今は外の味に慣れなくてさ。」枫真はバックミラー越しに琴子を見つめて言った。「うちで作ろう。」


琴子はもう断れなかった。せめて台所には立たせないと心に決めたが、家に着くなり芽衣にソファへ押し込まれた。「あんたは座ってて。兄貴に任せな。」


「枫真兄、私も手伝うよ。」琴子が立ち上がろうとすると、芽衣がまた引き戻す。


「今のあんた、心がボロボロで料理なんて無理でしょ。」芽衣は当然のように言う。


「別にボロボロじゃない!」


「ボロボロでしょ?明日、白鳥美々に謝って、旦那に戻してくれって頭下げに行くんでしょ――そんな情けない奥さん、他にいる?」芽衣はわざと琴子の心をえぐる。


白鳥美々に会いに行くのは、琴子にとっては本当は逃げ出したいほど辛いことだった。琴子は反論もせず、黙って眉をひそめる。


「情けなくなんかない。謝れば離婚届にサインしてもらえるかもしれないんだから、むしろ得だよ。」


「今はそんな風に割り切れるの?」芽衣は驚いた。


琴子は口元を引きつらせて笑った――割り切ったわけじゃない。そうするしか道がないから、進むしかない。


「思い出させてくれてありがとう。白鳥美々に連絡しなきゃ。」琴子はスマホを取り出し、メッセージを送る。「美々さん、明日ご都合よければお会いできませんか?」


白鳥美々が自分と徹の新居に住んでいるのは知っているが、いきなり押しかけるのはさすがに失礼だ。きちんと礼儀を尽くして別れたい、それだけは守りたかった。


すぐに返信が来た。「明日朝8時に。」


場所は書いていなかったが、琴子には分かっていた。博覧荘園だ。


「明日、結婚証明書持って行きなよ!私、マスコミ呼びまくって、時崎の不倫現場をみんなに見せてやる!」芽衣は拳を握りしめ、今にも実行しそうな勢いだ。


琴子は本気にせず、ただ微笑んだだけ。スマホを手に取り、早瀬鋭に何通もメッセージを送った。さっき彼が泣きながら抱きついてきた姿が、どうしても頭から離れない。大丈夫、気にしないで、体を大事にして、新しい生活に向かってほしい――そんな願いを込めて。


たくさん送ったが、返ってきたのは「頑張るよ。」の三文字だけだった。


琴子はスマホを置き、ゲームに熱中している芽衣を横目で見た。彼女は徹への怒りをゲームにぶつけているようだった。


琴子は立ち上がり、キッチンへ向かった。「枫真兄、何か手伝えることある?」


「本当に手伝いたいなら、少し話してくれない?」枫真は仕事を頼むことなく、優しく言った。「上田麻衣とはうまくやれてる?」


「まあまあかな。」琴子は、麻衣に冷たくされたことは口にしなかった。ただ接しづらいだけで、他に問題はない。


「麻衣は『星筑』の支えだし、デザイン界でもちょっと有名なんだ。彼女についていけば、きっと成長できるはず。麻衣はコネ入社を嫌うけど、君ならきっと認めてもらえると思ってるよ。」


「枫真兄、2年前に急に海外に行って、また急に戻ってきたのは、仕事のため?」琴子は、もし枫真がずっと星筑を見ていたら、今ごろもっと大きな会社になっていたはずと思った。


枫真は包丁を止め、すぐに自然な動作に戻して、軽く言った。「人のせいだよ。」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?