「あなたたちには、翔太しか子どもがいないのね。」高橋雅は一瞬だけ、いつもの冷静な表情にかすかな揺らぎを見せた。
千雪は、十年来変わらぬ母の落ち着いた顔に初めてひびが入ったのを見て、思わず指先に力が入った。その時、慎一が千雪の思考を断ち切るように口を開いた。「母さん、俺たち、養子を迎えようと思ってる。これからは翔太だけじゃなくなるよ。」
「そういうことね。」雅は淡々と答えながらも、心の中はざわついていた。千雪は以前と何かが違う――かつて千雪の母が夫の浮気を知り、夜中に娘を連れて東京に移り住んだあの強さは、今でも強く印象に残っている。千雪も母親譲りの気性なら、本当に何か知っていれば、こんなに落ち着いていられるはずがない。そう考えて、雅は少し安心した。
「母さん、これからは千雪にもう子どもを産ませるようなこと、言わないでくれ。」慎一が念を押した。二人目を流産したとき、千雪は心身ともにギリギリだった。もうあんな思いはさせたくない。雅はしぶしぶ頷き、話題を変えた。「養子になる子の名前は?もう会ったの?いつ家に連れてくるの?」
千雪は答えなかった。児童養護施設から送られてきたアルバムの中の、あのショートヘアの女の子の写真が頭から離れない――彼女は美羽優の娘だろうか。慎一は曖昧に答えた。「アルバムが届いたばかりで、まだ会ってない。千雪が気に入ったら手続きをする予定だから、名前も聞いていない。」
そのとき、千雪の視線は向かい側の恵に向いた。普段はよく話に加わる佐藤晴も、今夜はやけに静かだ。LINEでは和食ダイエットと言っていたのに、目の前のこってりした料理を黙々と食べている。千雪は心配しかけたが、以前の裏切りを思い出し、気持ちが冷めて翔太を探しに立ち上がった。
娯楽室では、翔太が斎藤静とゲームをしていた。隣の茶室からは、途切れ途切れの会話が聞こえてくる。
「高橋慎一に投資してもらうためだけに、彼女と一緒に帰ってきたんだよ。」
「安心して。たとえ同じベッドで寝ても、絶対に触れたりしない。心の中は君だけだ。」
千雪は立ち止まった――林原光の声だ!まさか恵を裏切っているなんて。拳を握りしめ、飛び込もうかと迷ったが、これは恵の家庭の問題だと踏みとどまった。その時、書斎のドアの隙間から恵の泣き声が聞こえた。「お母さん、林原光には他に女がいるの。私、離婚したい!」
恵はすでにすべてを知っていて、今回帰ってきたのは家族の支えが欲しかったのだ。千雪は少し胸をなでおろした。慎一なら、必ず妹の味方をするはずだ。だが、雅の声は急に冷たくなった。「離婚なんて許しません。あなたは高橋家の娘なのよ。自分の結婚すら守れないなんて、外に知れたら何を言われるか分からないでしょう。あなたが大事にすべきなのは家の力と、子どもの将来なのよ。」
「彼に裏切られてまで我慢しろっていうんですか?」恵はその場に崩れ落ちた。
「男の人は過ちを犯すこともある。でも、あなたにきちんとした立場を与えてくれるなら、それで十分よ。」雅は恵を抱き起こしながら言った。「高橋家が後ろ盾になっている限り、林原光も無茶はできない。彼はお兄さんに投資してほしいんでしょ?今こそ彼に釘をさして、外の女とはきっぱり縁を切らせなさい。」
「でもその女、もう妊娠してるのよ。しかも堂々と“小林原さま”なんて名乗ってる!」恵は声を荒げた。「私は美咲だけしか産んでいないのに、あの人が男の子を持ったらどうするの?」
「産まれたら引き取って育てればいいわ。」雅は冷たく言った。「彼女も正妻の座を狙ってないみたいだし、むしろ他の厄介な女を遠ざけてくれる手助けになる。一石二鳥よ。」
「お母さんにとっては、家の力が娘の幸せより大事なんですか?」恵は今にも崩れそうだった。「お兄ちゃんに相談してくる!」
パチンと音がして、雅が恵を平手打ちした。「情けない!どこの名家の奥様だって、みんな同じようなことを乗り越えているのよ。佐藤淑蘭さんだって離婚騒動を起こして、結局笑いものになっただけじゃない。あなたも同じ道を辿りたいの?」
千雪は体が震えた――雅の口から出た佐藤淑蘭は、まさに彼女の母だった。雅にとって、母の強さや決断は愚かさにしか映らなかったのか。千雪はドアを開けて恵を支え、驚く雅を真っ直ぐ見つめて言った。「恵、怖がらなくていい。私はあなたの味方よ。離婚を応援する。」
雅の目には怒りが閃いたが、千雪は一歩も引かなかった。母の誇りは傷つけさせないし、もう誰にも自分の人生を支配させるつもりはなかった。家を出る日が近づくにつれ、この家での騒動にも、すでに未練はなかった。