高橋雅は、千雪が自分の佐藤淑蘭への非難を聞いていたことに気づき、一瞬だけ表情を曇らせた。しかし、高橋家の主婦として、誰にも自分の決断に口出しさせるつもりはない。声を強めて言った。
「千雪、このことはあなたには関係ないわ。体調もよくないでしょう、部屋に戻って休みなさい。」
千雪はその言葉に耳を貸さず、隣にいる恵をじっと見つめていた。
恵の拳は固く握られ、指先が白くなるほど。義母の言葉がどれほど恵を傷つけたのかは、見て取れた。
雅は千雪の冷たい態度と、恵の強い意思のこもった眼差しを見て、渋々ながらも口調を和らげた。
「奥様にこれ以上迷惑をかけるのはやめなさい。それから、この件を兄さんに持ち出すことも絶対に許さない。私がきちんと片付けるから、慎一にも、あの女にもきっぱり別れさせる。子どもを育てたくないなら、その子も処理させる。離婚の話は二度と口に出すな。」
その冷淡な態度に、恵の目には涙が浮かんだ。
「お母さん、私はあなたの実の娘よ。林原家に送り込まれた駒じゃない!自分の人生は自分で選ぶ。この結婚は、絶対に終わらせる!」
「離婚なんてしたら、もう娘とは思わない。高橋家に戻る場所もないから、そのつもりで!」
雅は怒りをあらわに声を荒げた。その冷酷な言葉に、恵は全身が凍りつくような思いだった。夫の家にも、実家にも帰れない──そんな現実が自分にも訪れるとは。恵は涙をぬぐい、きっぱりと言った。
「わかったわ。今日から私はあなたの娘じゃないし、美咲もあなたの孫じゃない。私たちのことにはもう関わらないで。今すぐ美咲を連れて出ていくし、離婚も必ずする!」
千雪は恵の震える手をしっかり握り、雅に冷たい眼差しを向けた。
「恵、私たちも行きましょう。私も、もうここにはいられない。」
雅は思わず立ち上がり、止めようとしたその時、外から鋭い泣き声が響いた。三人が急いで茶室へ駆けつけると、美咲と翔太が入口で立ち尽くしていた。美咲は真っ青な顔で恵に飛びつき、体を震わせて泣いた。
「ママ、伯父さんにパパをもう殴らないでって言って。パパが血だらけ……」
茶室では、高橋慎一が冷ややかな目で座っていた。二人の用心棒が顔を腫らした林原光を押さえつけ、容赦なく殴り続けている。シャツに血が滲み、見る影もない。
千雪は慌てて子どもたちを下がらせた。
「恵、助けて……」
林原光はかすれ声で叫ぶが、慎一は冷たく目を向けただけだった。
「お前にうちの妹の名を呼ぶ資格はない。」
その言葉とともに、用心棒の手がさらに強くなり、林原光は苦しげな声をあげた。
雅は大慌てで慎一の元へ駆け寄った。
「慎一、それ以上は危ないわ!森家は神奈川でも有力な家よ。高橋家の仕事も関わっているんだから、これ以上はやりすぎよ。」
林原光はそれを聞いて、逆に強気になり叫んだ。
「俺が外で女を囲って何が悪い!男なら遊ぶのは普通だろ!お前だって──」
言い終わらないうちに、恵が彼の頬を思い切り叩いた。怒りで声が震えていた。
「自分がどんなに汚い真似をしてもいいけど、兄を侮辱するなんて許さない!兄は千雪さんを裏切ったりしない!」
そして慎一に向き直り、憎しみに満ちた目で訴えた。
「兄さん、この人は結婚しているのに大学生を囲い、堂々と一緒に出かけたり、‘小林原様’なんて呼ばせて、子どもまで作らせてる。こんなこと、絶対に許せない!財産も何もいらない、二度と顔も見たくない!」
千雪は恵の涙ながらの訴えに胸が締め付けられる思いだった。それは自分もずっと抱えてきた気持ちだった。しかし慎一は冷たいまま、まるで他人事のように座っていた。千雪はもう耐えきれず、恵のようにすべてを投げ出してしまいそうだった。
その時、慎一がようやく口を開いた。その声は氷のように冷たかった。
「森家にこの男を縛って連れて行け。林原の親父に伝えろ。三日以内に、無一文で美咲の親権も放棄する離婚届を持ってこなければ、林原家は破産すると思え。」
千雪が階段を上るとき、林原光は口にテープを貼られ、まるで犬のように引きずり出されていった。恵は一度も彼を振り返らず、車が遠ざかってから慎一の胸で崩れ落ち、声を上げて泣いた。
寝室では、美咲が泣き疲れて眠り、翔太がそばでそっと涙をぬぐっていた。千雪はドアのそばにもたれ、その様子を見ていたが、ふと翔太が小さな声で尋ねた。
「ママ、どうして伯父さんは他の女の人と一緒にいるの?ひどいよ、恵おばちゃんがあんなに悲しんでるのに……」
翔太は千雪の首にしがみつき、幼い頃に悪い夢を見たときのように甘えてきた。
「もしパパが伯父さんみたいにママを悲しませたら、僕はもうパパなんて呼ばない。」
千雪は思わず涙がこぼれそうになった。慎一と美羽優の姿を監視カメラで見た時のこと、翔太が「僕は美羽先生だけでいい」と言ったことが頭をよぎる。
千雪はしゃがみ込み、翔太をしっかりと抱きしめた。失いかけた温もりが戻ってきた気がして、胸が痛んだ。
「翔太――」
気持ちを落ち着けて、そっと聞いた。
「遊園地で知り合った、あのショートカットの女の子、名前は何ていうの?」