目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第18話 床に散らばる耐え難い写真

千雪は翔太のそらした視線を見つめ、心の底に冷たいものが広がっていった。「本当に彼女の名前を知らないの?」


声が震え、指先はソファの肘掛けをぎゅっと握りしめている。


翔太は父・慎一の忠告と、美羽優からもらったチョコレートが頭をよぎり、唇を噛んだ。「……忘れちゃった。」


以前の千雪なら、息子の言葉を疑うことはなかった。しかし、慎一の書斎で破れた観覧車の集合写真を見つけて以来、その信頼は粉々になった。写真には、慎一が美羽優の腰に手を回し、隣にいるポニーテールの小さな女の子は無邪気に笑っている――その目元は五歳の頃の翔太によく似ていた。


「名前、聞いたことないんでしょ?」


千雪は立ち上がり、階段から降りてきた慎一を鋭い視線で見つめた。彼の体には美羽優がよく使うデイジーの香りが漂い、シャツの襟元には口紅の跡がかすかに残っている。


翔太は母の気迫に一歩後ずさりし、思わず口走った。「彼女の名前……美紀だよ!」


「美紀?」


千雪の声は一気に跳ね上がり、慎一のスーツの襟を掴んだ。「その子の名前が美紀なの?」


彼女の脳裏を、慎一が結婚指輪の内側に刻んだ「T・C」の文字がよぎる。そして、美羽優が首から下げていた同じデザインの指輪――本来なら千雪のものであるはずの結婚指輪が、今は他の女の子の首元にある。


慎一は千雪の崩れそうな体を抱きとめようとしつつ、どこか動揺を隠せない声で言った。「千雪、その名前が嫌なら、養子にしたあとで変えてもいい。」


「養子?」


千雪は彼の手を振り払い、息も絶え絶えに笑った。「高橋慎一、あなたは私にあなたと美羽優の隠し子を引き取らせるつもり?よくそんなことができるわね!」


高橋雅が果物の皿を持ってキッチンから出てきて、慌てて皿を置いた。「千雪、落ち着いて。美紀は児童養護施設から紹介された子よ……」


「児童養護施設?」


千雪は雅の腕にある、美羽優から贈られた真珠のブレスレットを睨みつけた。「お母さん、その子の左目の下に泪ぼくろがあるでしょ?美羽優とまったく同じ!」


雅の顔色は真っ青になり、とっさに腕を隠した。翔太は雅の背中に隠れ、千雪の怒りの視線から逃れようとした。彼は美羽優と約束していた――美紀が美羽優の娘であることは言ってはいけない、と。


「母さんとも相談したんだ。」


慎一は無理やり千雪をソファに座らせた。「美紀は翔太とも気が合うし、君もずっと娘を欲しがっていたじゃないか。」


慎一が作り笑いを浮かべるのを見て、千雪は胃がひっくり返るような嫌悪感を覚えた。五年前、病院を巡り奔走していた時、慎一は「ゆっくりやろう」と手を握ってくれたのに、裏では美羽優と一緒にコンドームを箱ごと開けていた。そのうえ今度は、隠し子で千雪の喪失感を埋めようなどと、十年の愛情を侮辱する気なのか。


「出て行って。」千雪は目を閉じ、羽のようにか細い声で告げた。「高橋慎一、あなたもお義母さんも、出て行って。」


リビングには重苦しい沈黙が落ちた。雅が口を開きかけたが、慎一の鋭い視線に遮られる。彼は千雪の前にひざまずくと、手を握ろうとした。「千雪、もうやめてくれ。美紀のことは僕がなんとかするから……」


「なんとかする?」


千雪は目を見開き、テーブルの花瓶を掴んで床に叩きつけた。「“なんとかする”って、美紀に私をママと呼ばせるつもり?翔太が美羽優を“先生”と呼んでいるみたいに?」


割れた陶器の音に翔太は悲鳴を上げ、雅は慌てて翔太をかばった。慎一の顔は完全に険しくなった。「高橋千雪、いい加減にしろ!」


彼が初めてフルネームで呼んだその瞬間、千雪の心は氷水をぶっかけられたように冷えきった。彼女はふっと笑い、ゆっくりと階段へ向かって歩き出した。一歩一歩が、まるで刃の上を踏むようだった。「高橋慎一、覚えておきなさい。」


寝室に戻ると、千雪は鍵をかけ、ベッドサイドの引き出しから一通の書類を取り出した――それは前から用意していた離婚届だった。裏切り、嘘、隠し子……この仕組まれた茶番は、もう我慢できない。離婚理由の欄には、赤いペンで「夫の不倫および家族による共謀と欺瞞、夫婦関係破綻」と力強く記した。


書類は三日後に自動送信するよう設定し、慎一の連絡先もすべてブロックした。ふと気づくと、窓の外は静かに雨が降り始めていた。それはまるで、声を出せない彼女の涙のようだった。


翌日、千雪のもとに執事から慌てた声で電話が入った。「奥様、林原グループが倒産しました。林原会長は怒りのあまり脳出血で今、病院に運ばれています!」


千雪の指先は冷たく凍りついた。林原グループは林原光の実家だ。まさか慎一がそこまで手を回すなんて?考える暇もなく、階下から雅の怒鳴り声が響いた。「あんたはあの女のために、林原家を追い詰めて、高橋家は東京中の笑いものよ!」


「母さん、森家が高橋財閥の利権を狙っただけ。僕は仕事をしたまでだ。」


慎一の声は苛立ちを隠せない。


「仕事?これが仕事ですって?」


雅は冷たく笑い、「千雪に取り入るためじゃないの?言っとくけど、美紀はあなたの娘よ。もし見捨てたら……」


千雪は勢いよく部屋を出て、階下で睨み合う二人を呆れたように見下ろした。雅は千雪に気づくと、急に態度を変えて近づいた。「千雪、お父さんの言うことなんか気にしないで。森家の件が心配だっただけよ……」


「私の気持ち?」


千雪はそれをさえぎり、階段を一歩一歩降りていった。「お母さん、森家の倒産より、あなたと慎一がどうやって私に美紀を引き取らせようとしたのか、それが知りたい。」


雅の顔色は一変し、慎一が千雪の手を取ろうとしたが、彼女は強く振り払った。「触らないで!」


千雪の声にはこれまでにないほどの嫌悪が滲んでいた。「今日から、私はあなたたち高橋家とは一切関係ありません。」


そう告げると、二人の驚く顔を背に、千雪は玄関へ向かった。外は依然として雨が降り続いている。傘を差し、彼女はこの嘘にまみれた家からできるだけ遠くへ離れたいと願った。


車で奥多摩の郊外の道を走るうち、雨足はさらに強まっていく。カーブを曲がった瞬間、突然前方に黒い影が飛び出してきた!千雪はハンドルを切り、車はガードレールに激突。エアバッグが開くと同時に、彼女の意識は闇に落ちた。


再び目を覚ますと、千雪は木の椅子に縛られていた。薄暗い倉庫の鉄扉の前には林原光が立ち、手にはナイフを弄んでいる。


「高橋千雪、久しぶりだな。」


林原光は冷ややかに笑い、「高橋慎一に助けてもらいたい?だったら、恵も一緒に連れて来い。さもないと……」


千雪はもがき、手首に食い込む縄の痛みに顔をしかめた。「私をどうするつもり?」


「何をするかって?」


林原光は近づき、ナイフの刃を千雪の頬に滑らせた。「高橋家のせいで俺の家は滅茶苦茶になった。だから、きっちり償ってもらう。慎一が一番大事にしてるのはお前だろ?お前と引き換えに、妹の命をもらうだけさ。」


その言葉が終わった直後、倉庫の扉が激しく開かれ、慎一が数人のボディガードを連れて飛び込んできた。千雪の顔の傷を見て、彼の目が一瞬で険しくなる。「彼女を放せ!」


林原光は千雪の首にナイフを突きつけ、高笑いした。「高橋慎一、お前も落ちぶれたな。昔、お前は千雪を守るために誘拐犯と心中する覚悟だった。今もその覚悟があるか?」


慎一は千雪をじっと見つめ、喉を鳴らした。「俺と引き換えに彼女を解放しろ。」


「ふん、そんな手には乗らない。」


林原光は首を振り、ポケットから一束の写真を取り出した。「決断する前に、これを見せてやる!」


彼が写真をばら撒くと、床一面に雪のように広がった。どの写真にも、慎一と美羽優が様々な場所で親しげに寄り添う姿が映っている。中には千雪の寝室で撮られたものもあった。二人の幸せそうな笑顔が、千雪の心を突き刺す。


慎一の顔はみるみる青ざめ、千雪は床にばらまかれた耐え難い光景を見つめながら、ふっと笑った。自分の十年の結婚生活は、結局、全員が加担した茶番だったのだ。そして自分こそが、最も哀れな道化だったのだと。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?