目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第19話 東京中の社交界で、彼の醜聞を知らぬ者はいない

場の空気は、写真に釘付けになっていた。林原映輝は勝ち誇ったように高笑いする。


ただ一人、高橋千雪だけが、宙を舞う不穏な写真の隙間から、高橋慎一の表情をじっと見つめていた。


そこに浮かぶのは、不倫がばれた動揺や後悔ではない。


高橋慎一の黒い瞳はさらに深くなり、一瞬だけ冷酷な光がよぎる。次の瞬間、林原映輝が千雪の首元に突きつけていたナイフを、彼は素早く押さえた。林原が気付く間もなく、彼を数メートルも蹴り飛ばし、倒れ込んだ千雪をしっかりと抱きとめる。


林原映輝は廃鉄の山に倒れ込み、すぐさま護衛たちが駆け寄って彼を押さえつけた。


それでも林原は激しくもがき、頬を歪めて狂ったように叫ぶ。「恵、見ろよ。これがあんたの自慢の兄貴の正体だ。」


「長年愛人を囲い、やってることはどれも下劣。東京中の社交界で、彼の醜聞を知らぬ者はいない!」


高橋恵は床に散らばる生々しい写真を見て、ショックを受けながら慎一と千雪に目を向けた。


兄が千雪さんを裏切るなんて、信じられない。


命さえ差し出すほど大切にしてきたのに。


けれど、写真に写っている男は間違いなく兄だった。


千雪は頭がくらくらし、力なく慎一の腕に身を預ける。慎一の手からナイフが落ち、鮮血がどっと流れて掌を真っ赤に染めた。


千雪は無意識に彼の傷ついた手を握りしめ、心の奥にしまっていた記憶が溢れ出す。


慎一もまた、かつて命懸けで彼女を救ったことがあった――


「千雪、大丈夫か?」 慎一はもう片方の手で彼女を強く抱きしめ、不安げな千雪を見て胸を痛めながら、「すぐに病院へ連れていく」と言い、傷も顧みず彼女を抱き上げた。


去り際、慎一は護衛に冷たく命じる。「こいつを警察に突き出せ。」


我に返った恵が見たのは、護衛が林原の口を塞いで外へ連れ出すところだった。


恵はゆっくりしゃがみ込み、写真を一枚一枚拾い集める。手が震えていた。


子供の頃から慕ってきた兄が、不倫をしていたなんて。


しかも千雪さんは――まるで気にしていないように見える。


雅の言葉が頭をよぎる。「女にとって一番大事なのは、家の権力と地位、財産を守り、子供のために道を切り開くこと、家名を継ぐこと。」


千雪さんも、そう教えられてきたのだろうか?


だから兄の裏切りを知りながら黙認し、私の結婚には口出ししてきたのか?


千雪さんだけは、私の味方だと思っていた。


千雪さんが支えてくれたからこそ、母とまで対立して林原と離婚を決意できたのに。


そんなはずない。千雪さんは私にいつも優しかった。知っていて見捨てるような人じゃない。


恵は見たものを信じられず、病院へと走り出した。


高橋家のロールスロイスはすでに姿を消し、護衛たちは林原を車に押し込もうとしている。


恵は駆け寄り、林原の口のテープを剥がして叫ぶ。「この写真、AIで作った偽物でしょ?兄が千雪さんを裏切るわけない、あなたが嘘をついてるんでしょ……」


林原は嘲りながら言い返す。「慎一は女を囲い、好き放題やってる。」


「千雪は高橋財閥の奥様、何不自由ない暮らし。」


「二人の息子、翔太は円満な家庭で育ち、高橋家の後継者。」


「だがお前は女一人のために林原家も俺も、美咲の未来までも壊したんだ!」


美咲の名を聞き、恵の胸がえぐられる。「違う、全てあなたのせいよ、私を裏切ったのはあなただから。」


「俺がどんなに酷くても、お前に贅沢はさせてきたし、美咲は林原家の後継ぎだ。だがお前が全部壊した。」


林原は恵の手を握り、彼女が崩れそうな姿を見て、最後の賭けに出る。「あの女はもう追い出した、流産もした。」


「昔みたいに、また一緒にやり直そう。お願いだ、恵。兄貴にも林原家を許してもらえよ……」


その瞬間、護衛が林原の後頭部を棒で殴り、気を失わせた。


護衛は急いで車を出しながら、恵に言う。「お嬢様、こんな男に未練は無用です。」


「奥様に手を出すような奴、ただの投獄じゃ済みません。」


「どうか冷静に。彼のために社長との関係を壊さないでください。」


恵の目に冷たい光が宿るが、口元は冷静に微笑む。「もちろん。こんな屑男、死んでくれたって構わない。私を裏切っただけじゃなく、千雪さんまで巻き込むなんて。」


「兄には絶対に許してほしくない。」


「病院へ、千雪さんの様子を見に連れて行って。」


護衛はすぐに頷き、車を発進させた。


後部座席で、恵は手の中の写真をぎゅっと握りつぶす。


すぐに電話をかけ、「この女の素性を全部調べて。」


林原の言葉だけで、兄と千雪さんを疑うわけにはいかない――


病室では、千雪が意識を失ったまま横たわっていた。


慎一は自分の手の傷も気にせず、彼女の傍を片時も離れず見守っている。彼の瞳には、溢れそうなほどの愛しさが宿っていた。


「社長、奥様の検査は終わりました。顔に少し傷があるだけで、ほかには大きな怪我はありません。」と、東京のトップ総合医である鈴木医師が報告する。


「妻はいつ目を覚ましますか?」


「奥様は体力がかなり落ちていて、血糖値も低い。どうやら二日ほど何も食べていなかったようです。栄養を補給すれば、すぐ目覚めますよ。」


二日間も飲まず食わずだったのか――


慎一はその言葉に、強い罪悪感を覚えた。


本宅にいる彼女は、母や家の者が大切に世話してくれているはずだと思っていた。


林原家の対応で忙しい合間、なぜ一度も顔を見に戻らなかったのか。


「先生、妻は過去に誘拐され、その後長い治療を受けてようやく立ち直りました。今回の事件で、またPTSDが再発しないか心配です。」


「念のため、詳しい検査をお願いします。」


「分かりました。全身の検査を手配いたします。」


恵が病院に到着した時、ちょうどその場面を目にした。かつて病に倒れた時、林原が夜通し看病してくれた日のことを思い出し、胸が締めつけられる。


「お兄ちゃん、まずはその手の傷を手当てして。」


「千雪さんが目を覚ます前に、今度は兄が倒れたら何にもならないよ。」


「ちゃんと千雪さんの看病ができなくなるよ。」


恵が気遣って声をかけても、慎一は氷のような表情で、彼女に一瞥もくれない。


「家に帰って、翔太と美咲の面倒を見てくれ。」


彼の世界には、千雪しかいない。


恵は立ち尽くしたまま部屋を出て、看護師を呼んで慎一の傷の手当てを頼んだ。


慎一は痛みに顔をしかめながらも、千雪から目を離そうとしなかった。


肩をそっと抱かれ、恵が振り向くと、佐藤晴がそこにいた。思わず彼女の胸に飛び込み、声を殺して泣き出してしまう。


二人は病院の中庭へ。周囲にはチューリップだけが咲き誇っている。


ここは高橋財閥の経営する病院だ。


かつて千雪がここに長く入院し、「チューリップでいっぱいの庭がほしい」と呟いたことがある。


それを聞いた慎一は、他の花をすべて抜かせ、病院をチューリップだけにしてしまった。


「恵、あなたのことは全部聞いてるわ」と晴はティッシュを差し出す。「古いものが去れば、新しいものが来るの。高橋家のお嬢様なんだから、あなたを狙う人なんて、病院の外まで行列ができるわよ。」


高橋家の娘――。


恵の目に一瞬、陰りが差す。「母は、私を家から追い出すかもしれない。」


晴は驚き、「そんなことないわ。あなたはお母さんの宝物なんだから。」


「宝物?それは、千雪さんが来る前までの話よ。」


恵の声には深い哀しみが滲む。思い出すのは、千雪と自分への母の態度の違い。


自分には厳しい教育と数えきれないほどの勉強が課せられ、昼も夜も努力を強いられてきた。


千雪は自由気ままに、自分のやりたいことをしていればよかった。


自分は将来の家の主婦になる運命。


千雪は「家に居候しているだけの他人」、母はそう説明していた。


けれど、兄との結婚が決まった時、母は千雪を最初から「未来の嫁」として見ていたのだと知り、どうしようもない寂しさが心に残った。


それでも千雪は、本当の妹のように優しくしてくれた。


千雪の両親は離婚し、母も亡くなり、高橋家に嫁いできた。自分も小姑として、兄と同じように彼女を大切にすべきだし、母が千雪を可愛がるのも当然だと思ってきた。


そうして、自分の中の寂しさを心の片隅に押しやってきたけれど、今思えば、自分はただの愚か者だったのかもしれない。


恵は晴を見つめる。晴は千雪の親友であり、彼女が嫁いだ数年間、ほとんどいつも一緒にいた。


きっと千雪のことをよく知っているはずだ。


千雪さんは本当に兄の裏切りを知りながら、すべてを飲み込んでいたのか?


そして、自分が林原に裏切られた時、なぜ違う選択を勧めてくれたのか――自分を突き落としたのか?


「晴さん、兄が不倫してたって知ってたの?」


晴は驚きのあまり口を開け、そして小さくうなずく。


恵の心は、はり裂けそうになる。「じゃあ、千雪さんは……知ってたの?」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?