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第20話 彼は命を懸けて彼女を守った

佐藤晴の瞳がわずかに陰り、確信を込めて言った。「もちろん、分かっています。」


高橋恵の胸にかかっていた重石が一気に沈み、思わずつぶやいた。「兄さんは本当に千雪にひどいことをしたわ。」


この現実は、針のように高橋恵の心を刺していた。彼女にとって、高橋慎一は何でもできる理想の兄であり、自分が結婚相手を選ぶ際の基準でもあった。かつて母・高橋雅の反対を押し切ってまで林原映輝と結婚したのは、林原映輝に慎一と似た優しさを感じたからだ。しかし、林原映輝の浮気が明らかになり、歯を食いしばって離婚を決意した時、やっと泥沼から抜け出したと思っていた。まさか今になって、兄まで同じ道を歩むことになるとは――。


さらに辛かったのは、千雪が慎一の裏切りに気づいても我慢し続けていたのに、自分が離婚する際には全力で支えてくれたことだった。「自分は裏切られても別れず、私には結婚をやめろと背中を押した。あれは本当に私のためだったの? それとも、違う苦しみに私を追い込んだだけ?」


恵の声は震え、悔しさと戸惑いが入り混じっていた。


佐藤晴の目に、一瞬だけ満足げな色がよぎると、すぐに恵の手をそっと握り、優しく語りかけた。


「林原映輝とのことは聞いているわ。本当は美咲ちゃんのために、もう一度だけチャンスをあげてはどうかと思ってたの。シングルマザーの家庭は子どもにとって大きな影響があるから。でも、あなたの兄さんが動くのが早くて、たった三日で林原家の財産を激減させてしまったわ。」


一拍置いて、声を潜めて続ける。


「でも、慎一さんと奥様のことには絶対に首を突っ込まない方がいい。上場企業にとってスキャンダルは命取り。誰のためにもならないわ。それに、千雪は……」


恵の青ざめた顔を見つめながら、わざとゆっくりと言った。


「千雪は、あなたのことを本当の妹のように思っているのよ。だから、決してあなたを傷つけたりしない。」


恵が苦しそうな表情を浮かべるのを見ると、佐藤晴はさらに畳みかけた。


「千雪が騒がないのは、きっと家のことを考えてのことよ。もう十年も一緒にいるし、あなたの兄さんも浮気相手の女性をすでに海外に送り出しているわ。」


「彼はもう戻ってきて、夫婦仲も元通り。なのに、私だけ……?」


恵の心に怒りがこみ上げてくる。「千雪は何事もなかったかのように耐え抜き、私は夫も父親も失い、母にまで疎まれて……!」


佐藤晴は内心、思わず笑みを浮かべた。美羽優が海外に送られてから、千雪が慎一を許してしまうのではないかと心配していたが、恵という「火種」が現れたおかげで、事態が動きやすくなった。


「あなたの兄さんもお母様も千雪の言うことなら聞くはずよ。彼女があなたの味方をしてくれれば、お母様もあなたを高橋家から追い出したりしないわ。そういえば、佐藤おばさまの命日が近いでしょう? その時、千雪をしっかり手伝ってあげれば、きっと感謝してくれる。そうすれば、あなたも高橋家で安心して暮らせるはずよ。」


恵は唇を強く噛みしめた――自分は高橋家のお嬢様なのに、「よそ者」に媚びへつらわないとこの家にいられないなんて。まさにその時、探偵からのメールが届いた。添付ファイルには美羽優の学籍情報――東京大学経営学部の人気者で、体操の特別推薦で入学したこと、そして下部には高橋慎一が教室棟の寄付をした記録が記されていた。


さらに驚いたのは、優の父親欄に「美羽征遠」と記載されていることだった――それは千雪がすでに縁を切った実の父親の名前だった。どうりで千雪が美羽優の存在をあれほど気にするわけだ。まさか、彼女のライバルが実父の娘だったとは――。


昔、千雪が美羽家と決別した時の苦しみを思い出し、恵は決意を固めた。「佐藤おばさまの命日は、心を込めて手伝わせてもらうわ。千雪が“感動”してくれるようにね。」


もう誰も幸せになれないのなら、この家で平穏に暮らせる者もいなくていい――。


病室では、千雪が悪夢にうなされていた。


封じ込めていた記憶が津波のように押し寄せる。あの年、初めて東京に来たばかりの千雪は、両親の離婚後すぐに誘拐された。犯人は八百万円の身代金を要求し、それは母親がかき集めた全財産だった。兄の慎一は身代金を持って現場に向かったが、現金を奪った犯人はなおも千雪を人質に取ろうとした。彼女を救うため、慎一は自ら高橋財閥の後継者であることを明かし、「自分の方が価値がある」と言って、犯人に身代わりを提案した。


その時、倉庫が突然火事になり、黒煙が渦巻く中、慎一は必死で犯人を突き飛ばし、千雪に向かって叫んだ。「逃げろ! 俺のことはいいから!」


千雪は目の前で、炎に包まれた梁が慎一の方に崩れ落ちるのを見ていた――


「だめ! 慎一――!」


千雪は叫びながら飛び起き、パジャマは冷たい汗でびっしょりに濡れていた。目の前には、青ざめた慎一の顔があった。千雪は思わずその首にしがみつき、恐怖で声を震わせながら呟いた。「無事でよかった……」


慎一は、思いきり抱きしめられて息が詰まりそうになりながらも、嬉しさを隠せなかった。――千雪が自分から触れてくれるのは、ここ数日で初めてだった。


彼はそっと千雪の背中を撫でて、優しく言った。「千雪……」


「千雪」という呼びかけは、苦しい記憶の扉を一気に開いた。現実の裏切りと、かつての優しさが胸の中で激しくぶつかり合い、千雪ははっとして我に返る。あの頃の慎一は、まだ自分の夫ではなく、そんな風に呼ぶはずもなかった。悪夢が時を混乱させてしまったのだ。


その時、恵が病室に入ってきた。二人が抱き合う姿を見て、恵はただただ皮肉に思えた。以前は二人の仲の良さをうらやましく思っていたのに、今では吐き気さえ感じる。


千雪も佐藤晴の姿に気付き、とっさに慎一から離れて顔を背けた。


「千雪さん、目が覚めて良かったわ。」


恵は無理に明るく振る舞い、千雪の手を握った。千雪は、恵の手の温もりを感じながら、佐藤晴が慎一の浮気を暴いた時の怒りを思い出し、今や唯一自分を裏切らなかったのは恵だと信じていた。恵が離婚して家に戻ってきて以来、雅は冷たくあたっている。千雪は心の中で決意した――自分がこの家を去る前に、高橋財閥の30%の株を恵に譲って、美咲と二人の暮らしだけは守ってあげよう、と。


その時だった。鈴木医師が検査結果を手に、嬉しそうに病室へ入ってきた。


「高橋社長、奥様……おめでとうございます。ご懐妊です。」

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