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第65話 そのカルティエのブレスレットが、彼女の罪の証拠になった


千雪は崖の縁に倒れていた。誰かが彼女を見つけ、深淵に向かって叫んだ。


「高橋社長!奥様が見つかりました!」

「奥様は崖の下にはいません!」


だがロープはまだ落下し続けている。

全員が慌てた。


千雪は駆け寄ってロープを掴み、手のひらは急速に滑り落ちるロープで切れて血が滲んだ。

喉が裂けるように痛み、深淵へ叫ぶ。「高橋慎一!私は下にいない、早く戻ってきて!」


その声は深い谷間にこだまし、崖の上の者たちにもはっきりと届いた。

だがロープは千雪の手のひらをかすめながら、なおも滑り落ちていく。


護衛たちは急いでロープを掴み直したが、ロープは止まるどころか、逆に急降下した。

「ロープはご主人様が自分で操作しています。」護衛が千雪を抱き起こし、悲痛な声で言った。「奥様、ご主人様はもう……」


千雪は絶望し、泣き崩れた。護衛や専門家の腕を掴み、しどろもどろに叫んだ。「そんなはずない…」


護衛や専門家たちの討論の声が耳元でざわめき、捜索救助のヘリコプターが頭上を旋回し、まぶしいライトで目が開けられない。涙に濡れた目で崖っぷちに座り、脳裏には高橋慎一の姿が何度もよぎる――ただ彼から離れたかっただけで、死んでほしいなんて思ったことはなかった。


彼はかつて自分の救いだった。泥沼から自分を引き上げてくれた人。

母が亡くなった後、彼が自分の全世界だった。

自分はあれほど彼を愛していたのに。


圧倒的な痛みに息が詰まり、身体の中から何かが流れ去っていく感覚、どうしようもなくて。


必死に立ち上がり、かすれた声で言った。「夜明けを待って霧が晴れるのを待つ必要なんてない、今すぐ救助隊に酸素ボンベを持って降りてもらって!」


その言葉が終わるや否や、目の前が真っ暗になり、全身の力が一気に抜け、まるで重力がなくなったように倒れ込んだ。


耳元で誰かの叫び声、そして彼女は冷たい腕の中に落ちた――高橋慎一の顔がふいに脳裏に現れた。あの憂いと深い愛情を湛えた瞳が、こちらを見つめている。

頭上から一筋の光が差し込み、耳元に「ピッ」というかすかな音。

まるで母の呼び声が聞こえた気がした。


母さんは千雪が十八歳になるまで生き、盛大な成人式と婚約式を開き、千雪を高橋慎一に託した。

母さんに会いたいなあ。


身体がどんどん軽くなり、耳元には抑えた声が聞こえる。「絶対に死なせない、いいな?」

そして遠ざかる怒号。「ヘリを下ろせ!すぐに病院へ!」


高橋慎一の声だ、氷のように冷たい。

「早く!彼女の心臓が止まっている!」


ヘリコプターの中、高橋慎一はパイロットに怒鳴りつけていた。彼は千雪の上に覆いかぶさり、両手で胸を素早く圧迫し、さらに頭を下げて唇を重ね、息を肺に吹き込む。

心臓マッサージを続け、震える声で叫ぶ。「千雪、翔太のことを考えて、お願いだ、諦めないでくれ!」


ヘリが病院の屋上に着陸し、待機していた救急医たちが千雪をストレッチャーに乗せ、エレベーターへ運ぶ。

高橋慎一も一緒に入り、心肺蘇生を続けた。


彼は婚約前夜のことを思い出す。井戸淑蘭が彼の手を握りしめて言ったのだ。「高橋慎一、千雪には家族性の心臓病がある。父親の不倫を目撃したときに一度発作を起こしている。今後もまた発作があるかもしれない。」


高橋慎一が初めて千雪を見たのは病院だった。

それ以来、彼女を守るのが彼の習慣となった。


井戸淑蘭が夜通し千雪を連れてT市に来たのは、ここに最先端の医療チームがいたから、彼女の命を救うためだった。

「彼女は必ずしもあなたに後継ぎを産めるわけじゃない。それでも慎一さん、彼女を愛し続けられる?」


彼はその時、力強く答えた。「愛します。」


井戸淑蘭は微笑んだ。「じゃあ千雪を任せるわ。でもね慎一さん、あまりに早く良い人に出会うと、それが残りの人生唯一のものだと思い込んでしまう。現実的な問題を考える時間が必要よ。」


その後、井戸淑蘭は千雪を海外留学させた。「約束して、彼女を探さないで。独り立ちして成長させてあげて。距離も二人の愛への妨げにならないなら、きっとあなたたちは幸せになれる。」


高橋慎一の目から涙がこぼれ、千雪の血の気のない顔に落ちた。

耳元で「ピ――ピ――ピ――」という心拍モニターの音が鳴り、突然波形が動き出した。


千雪は手術室に運ばれ、心臓バイパス手術を受けた。

手術同意書に、高橋慎一は震える手でサインした。


病院の廊下、夕陽が少しずつ動いていく。

人が行き交い、最後には彼だけが残った。

彼は手術室の前から一歩も動かなかった。無表情のまま。


やがてドアが開き、医師が出てきた。「高橋社長、間に合いました。奥様の手術は大成功です。」


だが高橋慎一の心は、ますます痛んだ。


「ですが、奥様の心臓は非常に脆弱です。もう手術はできません。もし再発したら、心臓移植しかありません。」

「心の準備をしておいてください。」


高橋慎一は目を伏せ、暗い瞳で言った。「彼女には病状を知らせないでください。」

医師はうなずいた。


看護師が千雪を運び出すのを見て、彼はそっと手を握り、優しく声をかけた。「千雪。」

その目には、失ったものを取り戻した激しい感情と、彼女を起こさないような優しさがあった。


三日後、千雪は退院した。

彼らは元の家――千雪が取り壊しを命じたあの別荘――に戻った。リフォーム後、間取りは一新されていたが、何も変わっていないようでもあった。

リビングの中央には二人のウェディング写真が飾られ、家族三人の写真立てもあちこちに。


「千雪、みんなが君の退院祝いと新居祝いをしたいって。今夜、家に来てもいいかな?」

「いいわ。」


入院から目覚めて以来、高橋慎一はぴったりそばを離れなかった。

会社にも行かず、家で仕事し、翔太も幼稚園に行かせず、一日中彼女のそばにいさせていた。

彼ら以外は、数人の家政婦だけで、千雪の心は息苦しくなるほどだった。

外に出られないなら、人を呼べばいい。「この前、宮本教授に誤解してしまったこともあるし、この機会に謝っておこう。」

早く防護ネットを完成させなければ、時間がない。


高橋慎一の目が一瞬陰る。「息子の拓哉くんも呼ぶ?」

千雪は淡々と「うん」と答えた。人が多いほどいい。「山本先生もお願いね。」

手術のとき、自分が妊娠していることを医師は知らなかった。心臓が止まり、全身麻酔……胎児に影響はなかったのか。山本医師の診察が必要だ。


夜になり、別荘には次々と客が集まり、賑やかな雰囲気となった。

千雪は青いドレスをまとい、手首のエメラルドのブレスレットが動くたびに冷たい光を放つ――これは高橋家の女主人の象徴だ。

彼女はおとなしく高橋慎一の腕に手を添え、玄関で客を迎える。


美羽優は小野大翔に付き添われて入ってきた時、ちょうどその光景を目にした。視線は千雪の手首のブレスレットに――それはかつて高橋雅の手にあった家宝で、数億円の価値があるもの。

高橋雅はそれを千雪に渡したのだ。

千雪は宮本雅彦とのが怪しいのに、どうして高橋家の家宝を手にできるの?


「おばさん、今日すごくきれい!」拓哉は幼い声で千雪の前に走り寄り、手を引いた。


美羽優は視線を戻し、小野大翔は高橋慎一に頷いてから彼女を連れて家に入った。

すれ違いざま、美羽優のカルティエのブレスレットが高橋慎一の手の甲に触れ、その冷たさと体温が混ざり合い、妙な感覚を呼び起こした。


千雪が倒れてから、美羽優は高橋慎一と連絡が取れない。

彼は小野大翔の電話には出るが、小野大翔がスマホを渡すと、そのまま切ってしまう。

この無視が不安でならなかった――自分は高橋慎一に捨てられたくない。


千雪が拓哉と一緒にキッチンへ向かうのを見て、「おばさんの家にはたくさんお菓子があるよ、食べに行こう」と言っていた。

ちょうどその時、宮本雅彦と三浦由美は護衛に裏庭へ案内されていた。

高橋慎一は二階に上がり、美羽優を書斎へ引っ張り込んだ。

小野大翔は気を利かせて書斎外の応接間に座った。


美羽優は手首を差し出し、待ちきれない様子で言った。「慎一、これは婚約の夜、休憩室で見つけたカルティエのブレスレットです。あなたのイニシャルが刻まれている。」

「私はあの夜、本当にお姉さんと宮本教授が茶室から走り出るのを見たんです、これが証拠です!」

「あの夜の監視カメラは絶対おかしかった!」


高橋慎一は冷たい目で彼女を見据え、手を伸ばして彼女の手首を掴むと、ブレスレットを乱暴に引き剥がし、スーツの内ポケットに突っ込んだ。「君に彼女の物を持つ資格はない。」


美羽優の手首は痛むほど強く引かれ、心はさらに痛んだ。

高橋慎一は彼女を長机に押し付け、大きな手で首を強くも弱くもない力で押さえ、暗い瞳には危険な光が宿る。

「千雪を貶めたら、どうなるか分かっているだろう。」

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