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第69話 鼻をつく香水の匂いと嫌な気配


千雪は、高橋慎一と美羽優が人目も憚らずに絡み合っているのを見つめていた。彼は美羽優を抱き上げ、別荘の中へと入っていった。

扉が閉まると、千雪と彼らは完全に別々の世界に隔てられた。


千雪は力いっぱい別荘の扉を叩いた。胸の激しい痛みに意識が遠のきそうになる。彼女の声はかすれていた。

「高橋慎一、出てきて真相を話しなさい……」


千雪は目を閉じ、涙が止めどなく頬を伝う。

彼はかつて、命を懸けて自分を助けてくれた。泥沼から彼女を引き上げてくれた。それは全部嘘だったのか?

彼は一度も自分を愛したことがなかったのか。最初から最後まで、全ては計算だったのか?


突然、扉が開き、千雪は驚いて美羽華子の軽蔑に満ちた目と目が合った。


「夜中に何騒いでるの?」美羽華子は顔に不満を浮かべている。

千雪は相手にする気もなく、「どいて」とだけ言った。


「どくって何よ?ここは私の家よ。別荘の名義は私の娘の名前。あんたに入る権利なんてないわ」

美羽華子は当然のように娘の邪魔をさせまいとする。


千雪の顔色が悪く、胸を押さえて今にも倒れそうな様子を見て、美羽華子の心に邪な思いがよぎる。

あの時、井戸淑蘭が彼らを徹底的に追い込んだのは、千雪が伸介と彼女が一緒にいるところを目撃し、その時心臓発作を起こしたからだった。

数日前にもまた心臓病を発症した。あと何度耐えられるだろう?

もし彼女が死ねば、高橋慎一と高橋家の全ては娘のものになるのだ。


「病弱でちょっとでも触れたらダメな女、どんな男が我慢できるの?優ちゃんはあんたの代わりにやってるのよ。感謝もせず文句ばっかり。あんたの母親と同じ――自分で男をつなぎ止められないくせに、反省もしないで人のせいばかり」

美羽華子は腰に手を当てて睨みつけ、千雪に詰め寄る。

「中に入って何するの?あの二人が楽しんでるの、聞こえないの?」


美羽優の喘ぎ声や重い息遣いが空気を突き抜け、千雪の耳に突き刺さる。


美羽華子の言葉が千雪を傷つける。千雪は体が弱く、高橋翔太を産んでからさらに悪くなった。

でも、それは彼が裏切り、騙した理由にはならない。

悲しみに耐えながら、千雪は手を上げ、美羽華子に平手打ちを食らわせた。

「あなたに私の母のことを語る資格はない」


美羽華子は頬を押さえ、怒りに満ちた声を上げる。

「あの女が金を持ってなかったら、伸介は絶対に興味なんて持たなかった!浮気女って言うなら、あの女こそ私の夫を奪ったのよ!私と伸介の間に子供がいるのを知ってて、わざわざ迫ってきた!」


「嘘よ!お母さんは……」

そんな人じゃない!井戸伸介が本来の妻子を捨てて、母を騙したのだ!


千雪は息が荒くなり、心臓が激しく鼓動を打つ。血が逆流するような感覚。胸がぎゅっと縮まる。

そのまま真っ直ぐ倒れ込んだ。


――暖かい腕の中に倒れた。


美羽華子は、現れた人の迫力に圧倒され、目が今にも自分を引き裂くようで、悲鳴を上げた。

「私じゃないわ!あの子が勝手に倒れたのよ!」


彼女は「バタン」と扉を閉めた。


宮本雅彦は鋭い視線を戻し、急いで千雪を抱き上げた。

「千雪、しっかりして。病院に連れていく!」


耳元にはまだあの嫌な喘ぎ声が残っている。千雪は二階の窓に映る二人の影を見つめ、胸が激しく痛み、下腹部が痙攣し、もはや抵抗する力もなかった。彼女は宮本雅彦の胸に手を置き、かすかに言った。

「宮本雅彦、公立病院に連れて行って。唐澤先生に連絡を。連絡先はXXX……」


「私は子供を身ごもってる。このことは誰にも知られてはいけない。」


宮本雅彦は衝撃を受け、急いでシートベルトを締めてくれた。

「わかった、すぐ着くから、少し休んでて」


千雪はなんとか病院まで持ちこたえた。心臓バイパス手術を受けて間もないことを知った公立病院の医師はすぐに検査し、強心剤を投与した。唐澤医師も駆けつけ、妊婦検診を行った。


「私の子供はどうですか?」千雪はベッドに横たわり、不安げに声を震わせた。


「千雪さん……赤ちゃんはとても強いです」唐澤詩織は目を潤ませた。

「でも、あなたの体がとても弱い。子供が成長するたびに、あなたの体力や生命力をどんどん消耗します。心臓手術をしたばかりなのに、休まなければ出産に耐えられません!」


「分かりました。今日はありがとうございました」


千雪は唐澤詩織に帰るよう伝え、布団をめくって起き上がろうとした。


宮本雅彦はすぐに彼女の手を押さえた。「千雪、君は……」


「帰らないと」


宮本雅彦は思わず怒りを露わにした。「こんな病気なのに、彼は君を放ってあの女のところへ行った。そんな男、愛する価値なんてない」


千雪は呆然とした。こんな風に強く言われたことはなかった。

母も、高橋雅も、高橋慎一も、いつも彼女には優しかった。他の人も同じだ。


「千雪、人を愛するのは、幸せであるべきで、絶望することじゃない」


「君はもう、彼を愛していないんだよ、分かるかい?」


「君はただ、彼を愛することに慣れてしまって、向き合うのが怖い、認めるのが怖い、変わるのが怖い、どうしていいか分からないだけだ」

宮本雅彦は、彼女が悲しみに涙するのを見て、そっと抱きしめた。


彼女の痛みも、脆さも、葛藤も、全て見てきた。

心から愛おしいと思った。「千雪、もう彼を愛しちゃいけない」


彼女を守りたい、手のひらで包み込んで、誰にも傷付けさせたくなかった。


千雪は宮本雅彦の心配そうな視線を見つめ返した。あと四日で、彼女は完全にこの場所から去る。

これからの人生は高橋慎一とも、宮本雅彦とも、赤の他人になる。

失踪した時、高橋慎一が研究所を壊しに行ったことを思い出す。去った後で彼が宮本雅彦に迷惑をかけちゃまずい。今ここで、はっきりさせておくべきだ。


「宮本雅彦、彼は私の夫。もう彼の悪口は言わないで。家まで送って」


「防護ネットはもう完成してる。あとは由美がやれる。これからはもう会わない」


宮本雅彦は、彼女が結婚という枷の中で苦しんでいるのに、それでも自分が高橋慎一に追いつけないことに、心が張り裂けそうになった。

「分かった、送るよ」


別荘に戻ると、客はすでに帰り、残っていた者も酔いつぶれていた。

誰も彼女が出ていたことに気づいておらず、警備員さえも気付かなかった。


千雪は二階の翔太の部屋に向かった。

家庭教師の鈴木静香が会釈する。「奥様、坊ちゃまはもうお休みです」


千雪は小さなベッドのそばに座り、翔太の手を握った。

拓哉と比べると、息子はやんちゃで言うことを聞かず、しょっちゅう怒らされる。

でも、彼も自分の息子だ。


鈴木静香は千雪を見つめ、少し躊躇いながら声をかけた。「奥様、私の試用期間が終わりましたが、坊ちゃまが私に不満があるみたいで……奥様から一言お願いできませんか?」


千雪は少し感傷を抑え、「大丈夫。この家のことはまだ子供の意見で決まるわけじゃないから」


「これからも彼について、私の代わりにちゃんと面倒を見てね」千雪は振り返り、鈴木静香に優しく微笑んだ。


「奥様……」鈴木静香は感激していた。「ありがとうございます」


そして思い出したように言った。「奥様、うちの姉はテレビ局のアナウンサーなんです。今日、あなたが叩いた佐藤さんが、姉にあなたと宮本教授のスキャンダルをリークしようとしたことがあって……」


「それに……」

「それにどうしたの?」佐藤晴がそんなことをするのはもう驚かない。


「姉さんに動画を渡したんです。高橋社長と……の動画です」名家で働く前、親族や友達たちに『名家は色々あるから気を付けて』と言われていた。

でも、鈴木が来てから、高橋慎一と千雪は仲良し夫婦で、外出時も使用人が一緒についていく必要もない。

唯一手強かったのは翔太だけ。


でも姉さんが今夜、すごいニュースをリークできると興奮して言ってきた。これでテレビ局のトップになれると。

でも千雪さんの体調がこれでは、スキャンダルが出たら心臓発作で命を落とすかもしれない。

と鈴木静香は怖くなり、千雪の顔色が変わったのを見て、慌てて言った。

「奥様、ご安心ください。姉はもうリークしないって約束してくれました!」


「佐藤晴は奥様とご主人を別れさせて、自分がのし上がろうとしてるんです」

「奥様、落ち込まないで。あの動画はきっと編集かAI合成です。高橋社長は絶対に奥様を裏切らない」

「でも佐藤の性根が悪いので、姉が拒否しても、他のメディアに持ち込むかもしれません」鈴木静香は心配そうに言った。


千雪は静香の手をそっと叩いた。「お姉さんに連絡して。佐藤晴の話を受けてもらって。ただし、リークは四日後にしてもらって」


「奥様?!」鈴木静香は驚いた。


「大丈夫よ」千雪は平然とした表情で、「私の言う通りに伝えて。佐藤晴はどうしてもリークするつもり。たとえお姉さんじゃなくても、他の誰かがやるわ」


母は昔こう言った。高橋慎一は信じていい、きっと守ってくれると。

母さえも彼に騙されたのだ。

病気の自分を置いて、一刻も待てず、美羽優と一緒になることを選んだ。

もう彼は自分を愛していない。


なら、彼らを成就させてあげよう。


その時、部屋のドアが開いた。


高橋慎一が晴れやかな顔で入ってくる。

彼は千雪の腰を優しく抱き寄せ、額を彼女の額に当てた。鼻をつく香水の匂いと、曖昧な気配が押し寄せてくる。


千雪は思いきり彼を突き飛ばした。「触らないで!」

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