目次
ブックマーク
応援する
40
コメント
シェア
通報

第70話 株式に隠された反撃


高橋慎一は驚いたように手を離した。「千雪、どうした?」


「気持ち悪い。」


千雪の視線が彼のシャツの襟元についた口紅の跡をさっとなぞる。


高橋慎一はその視線を追って襟元に手をやり、さっき美羽優がキスしようとして避けた時に口紅がついたのを思い出した。その黒い瞳が細まり、危うい雰囲気が目の奥に溢れた。


「千雪、さっき皆と騒いでた時に偶然ついただけだよ。」そう言いながら、いつも通りに誰かに適当な言い訳を頼もうとスマホを取り出す。


だが千雪は、彼の芝居を見る気もなく、さっさと部屋を出て行った。


高橋慎一はすぐに足を踏み出し、追いかける。


鈴木はずっと頭を下げたまま、息を潜めていた。


三階の主寝室――


「千雪、すぐにシャワー浴びて着替えてくるよ。」高橋慎一は自分を綺麗にして、彼女に嫌われないようにしたかった。


千雪はソファに座り、薄暗がりに身を隠していた。「お母さんが亡くなってから、彼女の遺品は全部あなたが管理してる。何があるのか知りたい。」


高橋慎一は淡々とした表情で、「どうして急にそんなことを?」


「翔太の誕生日が近いから、ちゃんとしたプレゼントを贈りたいだけ。」千雪は淡々と答えた。


「お義母さんの宝石や預金証明は全部銀行の貸金庫だ。明日一緒に取りに行こう。」高橋慎一はスマホを手に浴室へと入る。


千雪は立ち上がり、浴室の前まで歩いて中から聞こえてくる通話の声に耳を澄ませた。


「明日手配してくれ。妻を連れて銀行に行くから、俺名義の貸金庫に案内してくれ。義母の井戸さんの遺産ってことにしておけ。」高橋慎一は銀行の支店長と打ち合わせていた。


それを聞いた千雪の目が翳る。


母は多くの宝石やアクセサリーを持っていたし、B市を離れる時にもほぼ一億円の預金が残っていた。マンションを買った後も二千万円が余った。


他に、B市では会社も持っていたし、多くの不動産もあった。


母が亡くなる時、高橋慎一に全部任せるように頼んでいたはずだ。


だが今となっては、あの巨額の保険金を除いて、全てもう手元にないというのか?


千雪の瞳は色を失っていく――かつて高橋慎一と積み重ねてきた情も、すべて消え去った。


その夜、千雪は抜け殻のように彼の腕に抱かれたまま、目を開けたまま夜明けを待った。


翌朝、高橋慎一は千雪を連れて銀行へ。支店長が貸金庫に案内し、中には高級なジュエリーがいくつか入っているだけだった。


千雪は一目見て、琥珀のペンダントを選んだ。


銀行の前で高橋慎一がロールスロイスに乗って去るのを見送り、千雪は背を向けて近くの法律事務所へ向かった。


高橋慎一は母の巨額の生命保険金を受け継いで高橋財閥を守った。


今は母の残した遺産まで彼に横領され、高橋財閥が自分名義になっている今、どう扱おうと自分次第だ。


美羽優は高橋家の妻になりたいの?


母の保険金で生き延びてきた高橋財閥を吸い尽くすつもり? 夢物語だわ。


「私の名義の高橋財閥株式を、全部寄付して。」千雪は女性弁護士のもとを訪れた。


「高橋夫人、全部寄付なさるんですか?」弁護士は目を丸くし、計算機を叩きながら、「奥様の株式は時価で千億円規模です。引き受ける買い手を探すのは簡単ではありません。」


「他に方法は?」


「慈善基金を設立して、株式を一時管理させるのをおすすめします。利益は社会に還元できますから。」弁護士は提案した。


「手続きは早い?」


「三日で全てできます。」女性弁護士は答えた。


「株だけじゃない。私名義のものは全部、慈善基金に寄付して。美羽優が私のどの家にも現れないようにしたい。ただし、基金には息子の面倒を見てほしい。」


「息子さんのために教育・養育費を毎月五十万円支給し、十八歳になったら初期資金を渡す形にできます。」女性弁護士が言う。


たとえ親権が高橋慎一に渡っても、千雪には翔太を養う責任がある。「その通りにして。」


千雪が弁護士事務所を出ると、弁護士の南雲一枝はすぐに高橋甚平へ電話をかけた。


「ねえ、あなた、いつも高橋財閥が高橋雅に渡ると心配されていたよね?」


「今、千載一遇のチャンスが来たよ。高橋財閥はすぐにあなたの手に戻るわ。」


「三日後、慈善基金を通じて高橋財閥の経営権を得て、高橋雅と高橋慎一を追い出し、私たちの息子を跡継ぎにさせるチャンス。」


「やっぱり、あの時あなたが彼女を嫁に選んで大正解!高橋慎一が持ってた財閥の株、全部彼女の名義だったなんて。」


電話の向こうで男の低い笑い声が響く。「この点では、慎一も俺に似ているのかもな。」


「だが、彼が愛したのはたかが世間知らずの女だった。」


「君のように賢くて、高橋雅の目の前で素性を変えて隠れ続けることもできない。」


南雲一枝は男の言葉に満面の笑みを浮かべた。


千雪が弁護士事務所を出ると、すぐにボディーガードが彼女の行動を高橋慎一に報告した。


「旦那様、奥様がさきがけ法律事務所の民事弁護士、南雲一枝に接触しました。」ボディーガードは調査して報告する。「奥様がどんな依頼をしたか、詳しく調べますか?」


「いや、いい。きっと翔太の誕生日プレゼントに、いい不動産でも選んでるんだろう。」高橋慎一はこの町の一番高いビルから街を見下ろしながら言った。「翔太の誕生日パーティーは、広報部と協力して盛大にやってくれ。千雪が喜ぶように。」


「それと、千雪が宮本雅彦に会いに行かない限り、他は報告しなくていい。安全だけは確保しろ。」


高橋慎一は電話を切り、向かいの人物に「続けて」と言った。


探偵は「ドサッ」と彼の足元にひざまずいた。「申し訳ありません、高橋様……」


「ご依頼を受けてシュベーリン地震事件を調査していた時、謎の組織に接触されて、調査結果や目的を話すよう強要されました。」


「本当になにも喋っていませんが、彼らは私のスマホの通信履歴やPCのデータから、あなたを突き止めました。」


「恐らく私の責任で、奥様が謎の組織に誘拐されてしまいました……」


探偵は涙を流しながら訴えた。「本当に申し訳ございません。でも、私は裏切っていません……」


「で、調査から何が分かった?」高橋慎一が問う。


探偵は、これが挽回のチャンスと悟り、「当時あの写真を撮った人を突き止めました。」


「彼はあの男を知っていて、トップクラスの科学者、宮本雅彦だそうです。そして“謎の女性”とされたのは、やはり奥様でした。二人の会話から、奥様がミサイルの信号を操作できると知ったそうです。」


高橋慎一は眉をひそめ、黒い瞳に鋭い光が走る。その話を信じていない様子だ。


探偵自身も信じがたいと思っている。「旦那様、向こうがでたらめを言って金をせしめようとしてるだけかもしれませんし、記憶違いかも。何年も前ですから。でも、かなり細かく話していました。」


「ミサイルの信号を操るなんて、確かに忘れようがありません。」


「彼の話では、地震の二秒前、奥様がどこからともなく現れて建物の前で泣き叫び、その後宮本教授に『自分のせいで一人が死んだ』と訴えていたとか。」


「そのつらそうな様子から、奥様と宮本教授はかなり親しい間柄のようでした。」


高橋慎一の心臓がぎゅっと締めつけられる。千雪が色あせた古い写真を見た時の悲痛な表情、昨夜キッチンでキーボードを素早く操作し、他を寄せつけない冷静な姿――あれは普段の彼女とはまるで違う。


佐藤晴の言葉を思い出す。「千雪自身が本宅を出た。シーツの結び方は俺が教えた。監視カメラに映らなかったのは、千雪が位置を変えていたからだ。」


もし千雪がコンピューターの天才なら、それくらい簡単にできる。


高橋慎一の中に強烈な不安が湧き上がる。この不安は、千雪が八年前に留学した時からずっと消えなかった。たとえ毎晩彼女を抱いて寝ても。


あの夜、千雪がヘリで“連れ去られた”時の悪夢は今でも見る。夜中に飛び起きて、彼女を抱きしめて存在を確かめないと安心できない。


高橋慎一はスマホを取り出し、執事に電話する――別荘に監視カメラを設置したことを、千雪にはまだ伝えていなかった。「昨夜のキッチンの監視映像を送ってくれ。」


千雪は二年間、海外留学していた。


その間、どこで何をしていたのか。宮本雅彦はきっと知っている。


もしかしたら、あの二年間ずっと一緒にいたのか――


そう思うと、高橋慎一は胸が苦しくなった。


彼は立ち上がり、外へ向かう。「今日は研究所の人間がAI新薬の共同開発の件で来ているか?」


秘書がすぐさま近寄る。「高橋社長、宮本教授自らチームを率いていらっしゃいました。今、業務部にいます。」


高橋慎一は冷たく秘書に命じた。「宮本雅彦をここに連れてこい!」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?