三浦由美だった。
宮本雅彦は、携帯電話の画面に「圏外」と表示されているのを見て、瞬時に何かを悟り、淡々とした表情の高橋慎一に目を向け、静かに言った。
「ちょうど高橋社長と契約書にサインしているところです。すぐに終わります。何か用ですか?」
「教授、高橋翔太くんの誕生日パーティーにクラス全員が招待されていて、特に拓哉を呼びたいって。拓哉からお伺いしてほしいって頼まれたんです、行ってもいいですかって。」三浦由美は早口で続けた。「本人もすごく楽しみにしてて、プレゼントも用意してあるんです。」
「うん。」
宮本雅彦は電話を切った後、遅れて冷たい戦慄が心の奥をかすめた。
高橋慎一の周到な仕掛けと、隙のない探り合い――彼は危うく罠に落ちかけていた。
だが、三浦由美には電波封鎖を突破する力はない。
千雪が動いてくれたのだ!
千雪が自分の安否を気にかけてくれていることを思い、宮本雅彦の胸に温かなものが湧き上がった。
契約が済むと、高橋慎一は宮本雅彦の手を握った。
「前回、拓哉が翔太に水に突き落とされて、妻が失踪した時、俺は一時の感情で研究所を壊しかけてしまいました。本当に申し訳ない。」
宮本雅彦も握り返す。
「AI+薬プロジェクトは、高橋財閥にほとんど利益をもたらしません。それでも支援してくださる高橋社長の研究への情熱は、どんな謝罪よりも貴重です。研究所を代表して感謝します。」
高橋慎一は急に力を強めた。
「ですが、もしまた宮本教授が妻に不埒な思いを抱いていると知ったら、研究所を一瞬で瓦礫にすることもできます。宮本教授、肝に銘じてください。」
宮本雅彦は一歩も引かず、千雪の傷ついた顔を思い出し、思わず反論した。
「もしあなたが本当に彼女を大切にしていたなら、私が入り込む余地などなかったはずです。そんな心配をするのは、あなたが彼女を十分に幸せにしていないからでは?」
高橋慎一の目が鋭く冷たくなる――挑発だと?
千雪のためでなければ、今すぐにでも宮本雅彦をこの都市から追放したい気分だった。
千雪のそばに、この男がいる資格などない。
彼は手を離した。
「安心しろ。お前には絶対に無理だ。」
宮本雅彦を見送ると同時に、高橋財閥の電波が復旧し、高橋慎一の携帯がすぐに鳴った。
「旦那様、奥様が大学に向かいました。」
その頃、大学のキャンパスで――
千雪は古びたデスクトップパソコンから視線を外し、目の前の男性を見つめて謝罪の色を浮かべた。
「ごめんなさい、こんなことになるなんて知らなかったの。あの時は、ただ引っ越したって聞いただけだったから。」
男性は足に障害があり、大学の近くで印刷のお店を営んでいる。
「気にしなくていいさ、あれは……」
高橋慎一の名を出すと、何年経っても恐怖が全身を襲う。
ただ千雪にラブレターを渡しただけで、両親の会社は次々と先方から契約を切られ、裕福だった家は一気に没落、自分も中退を余儀なくされた。
納得できなかった……
彼は足の古傷に手を当てた。
「もういいんだ。今は家族がいるし、それなりに幸せさ。ただ……彼には僕がここに戻ったことは言わないでほしい。」
「彼は嫉妬深くて、少しのことも許せない人だから。」彼の目に、わずかに昔を懐かしむ色が滲む。「当時の僕が無謀だっただけだよ。」
「さっき心配していた人、大丈夫だった?」彼は、千雪が自分の身の上を知ったあと、さっき突然電話を受けて慌ててパソコンを借りた様子を見て、誰かを心配しているのだろうと気づいた。
「大丈夫だったわ。」千雪は感謝の気持ちを込めて答えた。「ありがとう。」
「俺たち……もう会わないほうがいいと思う。」男性は恐怖が消えぬまま言った。
千雪は申し訳なさそうにうなずいた。
かつて、佐藤晴が彼らの前で「告白して振られた男が恥ずかしくて一家で引っ越した」と話したことがあった。「分をわきまえた」なんて褒めたことも。
その時、高橋慎一は千雪を抱き寄せて、さらりと「賢い選択だね」と言った。
高橋慎一が他の男が千雪に近づくことを嫌がるのは知っていた。
小野大翔に警告させて、誰も寄ってこなくなった。
でも、そこまで徹底的に相手を潰し、障害まで負わせるなんて……
六年間、同じ枕を並べた夫が、こんな冷酷なことを自分に隠れてしていたなんて――
千雪の心に寒気が湧き、胃がかき乱されて、思わず吐き気を催した。
男性の話を聞いた後、三浦由美からの電話を受けた時、千雪の心臓は喉まで上がった。
彼女はパソコンを使い、高橋財閥ビル周辺の交通監視車両システムに侵入し、宮本雅彦と三浦由美の携帯に搭載された研究所独自開発の制御チップを使って、ローカル通信を確立した。
高橋慎一がヘリ墜落事件を執拗に追及していることに、千雪は母の忠告に従い、自分が「局長」にスカウトされたことを彼に話さなかったことを幸いに思った。
この都市に来たばかりの頃、高橋慎一は千雪を有名大学に入れるためにビルを寄付した。そのおかげで、17歳の千雪は特例で入学を許された。
このことは、彼女への嫉妬や蔑みを招いた。
自分の実力を証明するため、千雪はトップレベルのコンピューター大会に出場し、優勝した。
その大会で、彼女の才能は「局長」に見出され、スカウトされた。
その後、成績も意図的に隠蔽された。
この秘密は、元々高橋慎一に話すつもりだった。
だが、母が止めたのだ。
母は、父・井戸伸介の裏切りを果断に解決できたのは、徹底的に秘密を守ったからだと言った。重要なことほど口を閉ざすべきだと。
井戸伸介は、母の重大なビジネス決定には一切関わらせてもらえなかった。
母は淡々と話したが、その目には深い苦しみが隠れていた。
千雪は高くそびえるツインタワーの前に立った。
左のビルは九年前、高橋慎一が千雪のために寄付したもの。右のビルは四年前、美羽優のために寄付されたもの。
全く同じ構造の新旧二つのビルが並び立ち、「双子ビル」と呼ばれている。
千雪の目には、冷たさと嫌悪しかなかった。
彼女はまっすぐに校長室へ向かい、寄付したビルの返却を要求した。
「高橋夫人、あなたは本校の名誉卒業生でもあるのに、そんな軽率なことを言い出すとは。まさかビルを壊してお返ししろと?世間に知れたら笑いものですよ。」校長は厳しい表情で、不機嫌そうに言った。
千雪は真っ直ぐ校長を見返した。
「夫がビルを寄付したことは、私は知りませんでした。これは夫婦の共有財産です。返却を求める権利があります。」
校長は思わず言葉を失った。
最初のビルを受け入れた時、千雪の成績は優秀で、本来なら寄付がなくとも入学資格があった。ただ家庭の事情で一年間休学し、試験を受けていなかっただけだ。彼女の受け入れ自体に校長は後悔していなかった。後に彼女は留学して学校の名を上げた。
二棟目のビルは、本当は受け取りたくなかった。
だが、特別枠を設けてまで専門分野の人材を増やし、体育界での地位を拡大する目的があった。
「美羽優さんは体操で確かに輝かしい成績を残していますし、数々の賞も取っています。」校長は噂も耳にしていた。「それに、彼女はあなたの妹さんじゃありませんか。」
「もしビルを返却したら、彼女は退学になるかもしれません。」
何しろ噂はすぐに広まる。高橋慎一が研究所の宮本教授と対立しているらしく、頻繁に学校に現れている。校長としても巻き添えになりたくない。高橋夫妻の話題は常に耳に入ってくる。
その時、校長室のドアが開き、高橋慎一が入ってきた。
千雪は彼を睨み、さらに冷たい目で言った。
「私は、彼女を退学させてほしいの!」
高橋慎一は千雪を抱きしめようと近づく。
「千雪、落ち着いて。」
校長は救世主を見るような顔で叫ぶ。
「高橋社長、ちょうどよかった!高橋夫人があなたの寄付した二棟目のビルを返せと。建てたビルを返すなんて前例がありませんよ!どうか説得してください!」
校長は苛立ちを隠せない。
「千雪?」高橋慎一は彼女の肩に手を伸ばしてなだめようとした。
千雪は彼を振り払った。
「このビルも小野大翔のために寄付したの?もう嘘は聞き飽きたわ、あなたの代わりに私が言ってあげる。」
千雪は怒りに満ちた冷たい目で、彼の変わらぬ優しい顔を刺すように見つめた。
「彼女の母親は私の母の結婚を壊し、父親は私を誘拐して、彼女自身は私の息子を悪い方へ導いた!あなたは彼女のためにビルを寄付したの?高橋慎一、あなたの心は一体どこにあるの?!」