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第4話 隼人を喜ばせなさい

奈央は病室の中を見渡し、確かに女性の姿はなかった。そう判断すると、静かに廊下で待っていた。


背後からヒールの音が急ぎ足で近づいてくる。誰だか見なくてもわかる。


昨夜のことを思い出し、奈央は声をかけなかった。


相手も同じく、奈央の存在を無視している。


「おばさん、祖父の様子はどうですか?連絡を受けてすぐに来ました」と玲奈が足を止め、切迫した声で言った。


凌子は玲奈に笑みを向ける。「今は落ち着いているけれど、まだ安心できる状態ではないわ。お医者さんたちが治療方針を相談しているところよ。」


高級なワンピースに身を包み、完璧なメイクの玲奈に、月島家の人々は次々と挨拶を交わす。玲奈も礼儀正しく応じた。


凌子の言葉を聞き、玲奈の顔に不安が浮かぶ。「おじいさんの顔を見てきます。」


「ちょっと……」と凌子が止めようとしたが、玲奈はすでに病室へ入っていった。


ベッドの上には長患いでやつれた月島家の当主ーー月島利一が横たわっている。物音を聞いて奈央だと思ったのか、顔を向ける。


しかし、入ってきたのは玲奈だった。


「おじいさん、ご気分はいかがですか?」玲奈は老人の手を握り、涙を流した。


隼人は彼女を見つめ、一瞬だけ視線が交わるが、何も言わない。


「大丈夫だ……心配するな」


隼人はベッド脇からティッシュを取り、玲奈に差し出す。


「ありがとう、隼人」。


月島利一は最愛の孫を見て、手を伸ばす。「隼人……」


「おじいさん」と隼人はすぐに老人の手を握った。


「奈央は……もう来ているか?」


玲奈は唇を噛みしめる――おじいさんの心には、あの目立たない子しかいないのか。


「はい、外にいます」


「呼んできてくれ……話がある……」


「わかりました」


隼人はおじいさんの手を布団の中に戻し、ドアの方へ向かう。


外に待っている凌子は息子が出てきたのを見て、驚いた様子で「隼人、どうしたの?」と尋ねる。


言い終わらないうちに、隼人は奈央の方を向いて、あごで合図した。「入って、おじいさんが呼んでる」


奈央は驚いて自分を指差す。「私?」


隼人は少し不機嫌そうな顔をして、彼女の反応の遅さに苛立った様子。


間違いないとわかると、奈央は慌てて中に入った。


隼人は彼女の手を自分の手に取った。その瞬間、奈央の心臓が高く跳ね上がった。


気づけば二人はベッドのそばに立っている。


「おじいさん、奈央が来ました」


孫嫁の顔を見て、やっと安心したようで「奈央……子育てで大変だろう。ちゃんと眠れているか?また痩せたみたいだな」と優しく奈央に尋ねた。


奈央は目の前の光景を見って、亡くなる前の自分の祖父を思い出し、言葉より先に涙がこぼれた。


玲奈はその様子を見て眉をひそめる。「おじいさんが話しかけてるのに、なんで泣くの?おじいさんは元気よ」


奈央は玲奈を無視し、涙をぬぐって無理に笑顔を作った。「おじいさん、私は大丈夫です。家政婦さんも産後ケアスタッフもいますし、子どもたちもよく寝てよく遊んでいますので、全然大変じゃありません……」


「バカだな、母親が楽なわけないだろう」


そう言うと、孫の隼人に真剣な声で語りかける。「隼人、お前は夫であり父親だ。この責任は……しっかり果たせ。月島家の名に恥じることのないようにな」


隼人は冷静な表情で、しかし丁寧に答える。「おじいさん、安心して、その言葉を肝に銘じます」


隼人が手をそっと動かすと、奈央もすぐに察して、続けて言う。「おじいさんは安心して休養してください。隼人は家族にとてもよくしてくれていますし、子どもたちも元気です。どうかご心配なく」


「うん、それならいい……」月島利一は満足そうに頷き、玲奈の方を見る。「玲奈も……」


自分にも声をかけられるとは思わなかった玲奈は、急いで微笑み、老人の手を取った。「おじいさん、どうぞお話しください」


すると月島利一は少し息を整え、低い声で言う。「君と明彦も、そろそろ子どもを考えなさい。男は父親になることで心が落ち着き、責任を持てるようになる。家庭は、その土台が大事なんだ……」


その言葉に、玲奈と隼人の表情が凍りつく。


つまり、各自の立場を守り、越えてはいけない線を意識せよという意味だった。


玲奈の頬は熱くなり、無理に笑顔を作って答える。「おじいさん、ご安心ください。計画しています。今度、子どもができたら名付けをお願いしますね」


「そうか……それは楽しみだ」おじいさんは満足し、手を上げる。「みんな、もう帰っていい……眠いから……」


月島利一が目を閉じ、皆は静かに部屋を出た。


隼人の父、月島健一は廊下の人々を見渡して、「みんな、もう解散してください。ひとまず大丈夫です」と声をかけた。


その時、隼人の携帯が鳴る。仕事の電話だ。


用件を終えると、奈央に向かって「帰るぞ」と言い、そのまま玲奈の方へ歩いて行き、「君も自分の仕事をしなさい。明彦が無理して戻ってこないように伝えて」と言った。


玲奈は頷く。「わかりましたよ、あとで連絡します」


隼人は奈央を振り返ることもなく、さっさと歩き去った。


奈央はすぐにその後を追う。


玲奈のそばを通りすぎたとき、彼女が先に口を開いた。「昨夜のこと、誤解しないで。ビジネスのパーティーで、たくさんの人がいたのよ」


奈央は心の中で笑い、表情を変えずに言った。「誤解なんてしてないわ。隼人があなたを好きなのはみんな知ってるし、彼にとって月島家の奥様にふさわしいのはあなただけよ」


玲奈は取り繕うような顔から一転し、少し哀しげな表情を見せる。「運命って残酷よね。私はあくまで彼の妹だと思ってるし、愛してるのは明彦だけよ」


「その言葉、彼に直接言ったら?あんなに苦しんでるのを見て、面白いわね」と奈央は冷たく返す。


玲奈は顔色を変え、声を落として怒る。「あなたたちは夫婦なんだから、もっと彼を大切にして。苦しめてどうするの!」


奈央は玲奈を見据えて言った。「玲奈さんのお説教はこれで終わり?」


「あなたって……」玲奈は怒りをこらえきれず、ついに本音をぶつける。「月島家の奥様として、もう少し身だしなみに気をつけたら?そんなにくたびれた格好じゃ、隼人が見向きもしないわよ」

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