嫌味な言葉が耳に突き刺さる。それは誰の心にも火をつけるほどだった。
しかし、奈央はただ冷ややかな笑みを浮かべ、鋭い光を宿した目で、はっきりとした声で言い放った。
「彼が私の良さに気づけないのは、目がないだけ。私には関係ないわ。それよりも、そんなに感情的になって騒いでいるあなたこそ、月島家の奥様としての品位を台無しにしているんじゃない?」
「奈央……!」
玲奈は名家の出で、幼い頃から淑女としての教育を受けてきた。今は奈央の一言に何も言い返せず、ただ奈央の背中が消えていくのを見送るしかなかった。怒りに満ちたまま月島凌子の元へ駆け寄り、怒りをにじませて訴える。「おばあさん、どうしておじいさんは隼人にあんな人を嫁がせたんですか?家の名誉に傷がつきます!」
凌子も奈央を快くは思っていなかった。
しかし、玲奈の言葉には素直に同調せず、むしろ少し不満げに返した。
「隼人はあなたのことをずっと大切に思っていたのに、あなたの目には明彦しか見えていなかったじゃない。私の息子が明彦に負けているところなんてある?あのとき隼人を選んで、早く結婚していれば、おじいさんだってこんな勝手な縁結びはしなかったでしょうに」
「……」玲奈は思いがけない反論に、言葉を失った。
――――
奈央は少し足止めを食ったが、ようやくエレベーターに乗ると、すぐに隼人から電話がかかってきた。
「何をもたもたしてる。会社で用がある」と、冷たく急かす声。
奈央は気分がすぐれず、話もしたくない。「先に会社へ行って。私は気にしないで」と簡潔に返す。
「どうやって帰るんだ?」
「タクシーでも電車でもバスでも、何だって帰れるわ」と、どこか自嘲気味に答える。彼女は鳥籠の中の小鳥でもなければ、車がなければ動けないような人間でもない。
隼人は黙り込み、そのまま通話を切った。
奈央がスマホをしまうと、ちょうどエレベーターの扉が開いた。
ロビーの出口まで歩くと、遠くで隼人のベンツが駐車場から走り去るのが見えた。
胸の奥はすっかり冷えきっていて、何の感情も湧いてこない。
ふと立ち止まり、時計を見るともうお昼前だった。
双子が生まれてから、彼女の世界はすっかり狭くなった。仕事もなく、友人付き合いもなく、広い神戸の街で心を許せる相手もいない。
少し外の空気を吸おうかと思ったが、階段を降りると同時に気分が萎えてしまった。
……やっぱり帰ろう。
病院の門を出たところで、スマホがまた鳴った。
着信を見て、奈央の目にぱっと明るさが戻る。すぐに電話を取った。
「もしもし、翠?どうしたの?」それは高校時代からの親友、北川翠だった。
翠は明るく笑いながら言う。「神戸に出張で来てるの。ついでに財閥の奥様の顔を見ようと思ってさ。昔、どんなに偉くなっても忘れないって約束したでしょ?まさか忘れてないよね?」
奈央も思わず笑う。「そんなわけないでしょ!今どこ?ご飯おごるわ」
「いいね、高いところがいい!」
「任せて!」
通話を切ると、奈央は少し考えて評判の良いレストランを選び、翠にレストランの場所を教えた。
一時間後、半年ぶりに再会した二人はレストランで抱き合って喜んだ。
席に着くと、北翠が奈央をじっと見て、冗談っぽく言った。
「財閥の奥様にしては、普通の格好してるよね。全然庶民と変わらないじゃん」
奈央は少し照れて、「子ども産んで太っちゃったし、何着ても似合わないんだよ」と答える。
「そんなことないよ。前は細すぎたくらい。今がちょうどいいよ」と翠は顔を近づけ、声をひそめてイタズラっぽく笑った。
「女はちょっとくらいふっくらしてる方が魅力的なんだよ」
奈央は少し顔を赤らめ、メニューを差し出した。「さ、何食べる?」
二人は食事をしながら話が弾んだ。
奈央はこのとき初めて、翠の夫が神戸に転勤になり、家族みんなで引っ越してくることを知った。今回の出張で部屋探しもしているという。
「よかった!これからは寂しくないね」と奈央は心から喜んだ。
翠も頷く。「本当、縁だよね。奈央がここにいるなんて」
話に夢中になっているうちに時間が過ぎ、家から子どもがぐずっていると連絡が入り、奈央は店を出ることにした。
会計の時、彼女はアメリカン・エキスプレスのブラックカードを店員に差し出した。
翠はからかうように笑って、「それっぽいじゃん、さすが財閥の奥様!」と声をかけた。
奈央は小さくため息をついた。「本当は、働いて自分の力でやっていきたいんだ」
この隼人から渡された上限なしのカードも、正直、気が引けて使っている。自分の力で仕事をし、価値を証明したい、もっと現実的に生きたい――そう願っていた。
翠は奈央の気持ちを察して、「子どもがもう少し大きくなったら、きっとチャンスはあるよ」と励ます。
店員がカードを返しに来て、奈央は急いで翠と別れ、月島家の別荘へ戻った。
――――
会社で会議が終わったばかりの隼人は、スマホに届いた銀行の通知メッセージを見て、眉をひそめた。
レストランでの支払い、9万円。
このカードは結婚後に奈央に渡したものだが、ここ2年ほとんど使われていなかった。今日に限って、誰と食事をしていたのか。
この不自然な行動から、離婚話のことが頭をよぎる。弁護士に会ったのか?誰かに相談したのか?
あの女のことを考えると、心がざわつく。この数日、離婚ばかり口にするが、本当はどうしたいのか。
2年前の結婚は最初から約束だった。おじさんが亡くなるまで形式だけ夫婦を演じ、その後は分かれる。契約結婚のお礼として、お金を払うつもりだった。本気で夫婦になる気などなかったし、子どもができるとも思っていなかった。
1年前、玲奈と明彦が結婚した夜、彼は親友であり花婿の明彦を見送り、大切に思っていた玲奈が他の人と結ばれるのを目の当たりにし、酔い潰れてしまった。そのとき奈央が世話をしてくれたが、彼は彼女を玲奈と勘違いし、一夜を共にしてしまった。
後で謝罪し、薬も勧めたが、2ヶ月後に妊娠の知らせが届いた。
あれこれと思い返しても、今もなお胸の奥にしこりが残る。見た目には何でもない網に絡め取られ、一歩一歩計算が狂っていくような気がしてならなかった。
携帯が鳴り、考えが中断される。
着信を確かめ、隼人は険しい表情を引き締め、少しだけ冷たさを和らげて電話に出る。「もしもし、玲奈?」
電話の向こう、玲奈の声には探りを入れるような響きがあった。「隼人、奈央が離婚したいって騒いでるって聞いたんだけど?」
隼人は一気に表情を曇らせる。「誰から聞いた?」
「おばあさんからよ」と玲奈は答える。「今朝病院を出たあと、家で子どもたちの様子を見に行ったの。そのとき使用人たちが噂してたって。朝、奈央さんが離婚の話をしたのに、あなたは無視してたって」
隼人の目は冷たくなり、椅子の肘掛けに手をつき、指先で強く眉間を押さえた。
どうやら家の使用人たちは、一度しっかりと締め直す必要がありそうだ。主人の私事を陰で噂するなど、決して許せることではない。