隼人の沈黙は、事実上の肯定だった。
玲奈は信じられない様子で言った。「彼女、正気じゃないの? 子供が生まれてまだ百日も経っていないのに、母乳も必要なのに、離婚したいって? おじいさんはともかく、自分の子供まで簡単に捨てられるの?」
誰もが知っている。奈央は両親を失い、複雑な家庭環境で育ち、身寄りもない。
離婚しても、子供を二人とも連れていくなんて到底無理だし、自分一人で生活するのも難しいだろう。
「それに、おばあさんが今朝家に来たとき、彼女はいなくて、赤ちゃんはお腹が空いて泣きっぱなしだったらしい。奈央が帰ったのはお昼頃よ。前から言ってたけど、あの女は見かけほど単純じゃないわ。おじいさんが昔の恩を気にして甘くしているけど、間違っていると思う。」
玲奈の愚痴を聞きながら、隼人はなぜかイライラし、「家にはミルクもあるし、冷凍母乳もストックしてある。子供が飢えることはない。彼女だって大人なんだから、たまには外出する自由くらいあるだろ」と遮った。
玲奈は驚き、言葉に詰まる。「隼人……あなた……」彼女は、なぜ彼が奈央の味方をするのかと聞きたかったが、言葉を飲み込んだ。
——奈央はれっきとした隼人の妻であり、子供たちの母親。守るのが当然かもしれない。病院での奈央の言葉を思い出し、玲奈は少し気まずさを感じた。
「隼人……ごめんなさい、私……」声はだんだん小さくなった。
隼人はその意図を理解し、淡々と答える。「謝ることはない。俺も用事があるから、切るよ。」
「うん……」
彼は迷いなく通話を終え、そのまま家の執事・高橋に電話し、噂好きな使用人たちの処理を指示した。
一方、玲奈は切られたスマホを見つめ、寂しさがこみ上げてきた。
これまで通話を終わらせるのはいつも自分だったのに、今日は隼人の方だった。それに、つい奈央をかばうような言い方……やっぱり子供ができると、愛情がなくても態度は変わるものなの?
もしそうなら、自分もおじいさんの言葉に従って、早く明彦の子供を作った方がいいのかもしれない。
* * *
奈央が子供に授乳しようと帰宅すると、下の階が騒がしい。
和子さんに聞いてみると、高橋が二人の使用人を辞めさせると言っているらしい。
「どうして? あの人たち、何か問題でも?」奈央は午前中家を空けていたので、事情がわからない。
和子は口を濁し、「噂話をして、凌子さんのご機嫌を損ねてしまったみたい……」とだけ答えた。
月島凌子が午前中に来ていたことを知り、奈央は自分が留守でよかったと胸をなでおろした。とはいえ、凌子が来ると必ず騒動が起きる。自分は名ばかりの奥様で、口出しする権利もないので、それ以上は何も言わなかった。
午後、奈央はパソコンを開き、求人情報を探し始めた。
離婚の意思は本気だった。おじいさんの体調も良くないため、今は動けないが、将来のために準備が必要だ。
赤ちゃんが目を覚まし、慌てて世話をしに行く。パソコンはそのまま開きっぱなしになった。
夕方、隼人が仕事から帰宅して、いつものようにまず二階でシャワーを浴び、着替えてから子供のもとへ。腕時計を外す際、何気なくパソコンのマウスに触れ、画面がパッと明るくなった。
画面には求人情報検索のページがずらりと並んでいる。事務、営業、法務、秘書……
隼人はその画面を見つめ、口元に嘲笑を浮かべた。
どうやら本気で離婚を考えているらしい。仕事まで探し始めているとは。
理解できなかった。何千万もの価値がある家に住み、高級車で移動し、使用人もいて、社会的地位もある。子供も二人いる。それでも不満なのか? なぜ離婚したい?
玲奈の言う通り、彼女は本当にどうかしている。
* * *
隼人が帰ってきたとたん、奈央はまた緊張しなくなった。
病院で玲奈と言い合ったことを、彼女が告げ口したかもしれない。凌子が午前中に来ていたことも気がかりだ。自分が家にいなかったこと、何を話したのかも不安だった。
普通の夫婦なら、率直に話せばいいのだろうが、私たちは違う。
食卓では、隼人はいつもより冷たく、奈央も黙っていた。食器の音だけが静かに響く。こんな空気の中でもしっかり食べられる自分に、感心してしまう。
隼人は先に席を立った。奈央はその背中をちらりと見て、すべてを察した。昼間の出来事は、きっと彼の耳に入っている。あの表情は、氷のように冷たい。ただ、今ここでいたら悪いから抑えているだけだろう
奈央もダイニングで話すつもりはなかった。使用人に聞かれてまた余計な問題が起きるのはごめんだ。この点だけは、二人の間に無言の了解がある。
夜十時、子供を寝かしつけて、奈央も休もうとしていた。
そのとき、翠からメッセージが届いた。昼間一緒に見て回った賃貸物件について、どう思うかと聞いてきた。
奈央自身、神戸にはあまり詳しくない。この二年は妊娠と出産で手一杯だった。久しぶりに昔話に花が咲き、思わず声をあげて笑ってしまう。「早くこっちに引っ越してきてよ」と翠を急かした。
ちょうどその時、隼人がドアを開けて入ってきた。奈央が笑顔でスマホを見つめている姿に、思わず足を止める。
結婚して二年、彼女がこんなに楽しそうにしているのを見たのは初めてだ。深夜に、いったい誰とそんなに楽しそうに話しているんだ?
もしかして、好きな人でもできたのか?
だからすべてを投げ打ってでも離婚し、いわゆる「本当の愛」を追い求めたいのか?
奈央は隼人に気づき、笑顔が一瞬で消えた。
「もう寝るね。あとでまた授乳しないといけないし、あなたも早く休んで」とだけ言い、慌てて翠に返信した。
向こうからは、ふざけたスタンプが返ってくる。
「旦那さんに呼ばれた? お邪魔しないようにするね、また明日!」
奈央はそのメッセージを見て、顔がほんのり赤くなり、スマホを置いてベッドに背を向けた。
その様子を見た隼人の目には、それが「やましさ」や「浮気」の証拠にしか映らなかった。
彼はようやく、なぜ彼女がこれほどまで恵まれた生活を捨てて離婚したがるのか、理解した気がした。
愛情がなかったとはいえ、夫婦であることには変わりない。彼女が他の誰かに心を奪われ、子供たちさえも手放そうとしているかもしれないと思うと、隼人の中に強い不満と怒りが湧いてきた。
奈央がスマホを置いて寝ようとした時、ベッドがわずかに沈み、彼女は身を強張らせて小声で尋ねた。
「……今日は別の部屋で寝ないの?」