三ヶ月以上も経っているのに、娘がアレルギー体質だと気づかなかった。そんな無関心さが、はっきりと露呈してしまった。
明彦も一瞬動きを止めたが、すぐに箸を置き、玲奈のためにエビの殻を剥き始めた。夫婦の視線が交差し、明彦の目には複雑な感情が浮かび、玲奈も気まずそうに視線をそらす。
玲奈は奈央の方を向き、無理に笑顔を作った。
「誤解しないでね……私たち、子供の頃からこんな感じなの。二人とも私のこと、妹みたいに可愛がってくれてて。」
そう説明するほど、逆に自慢しているように聞こえてしまう。
奈央は微笑んだ。
「大丈夫よ。好きなら、もっと食べて。」
その後、食卓は静まり返った。
食事の後、隼人は奈央を送ることにし、明彦と玲奈は病院へ向かうことになった。駐車場でそれぞれ別れる。
車の中で、明彦は前を見据えたまま、少し怒ったような口調で言った。
「今後は奈央の前で、隼人との距離に気をつけてくれ。」
玲奈は不満げに返した。
「私のせい?エビ剥いてって頼んでも、いつもやってくれないのに。」
明彦は顔を硬くした。
「玲奈、俺の性格は知ってるだろ。隼人みたいに気が利くタイプじゃない。君が俺と結婚した時、それもわかってたはずだ。」
玲奈は信じられない顔で彼を見つめ、涙が溢れた。乱暴に涙を拭い、声を荒げる。
「明彦!つまり私がバカだって言いたいの?自業自得ってこと?」
「そんなことは言ってない。」
「車止めて!降りる!」玲奈は怒りを感じていた。
「おじいさんのお見舞い、行かなくていいのか?」
「あなたに関係ない!止めて!」
明彦は言われた通りに車を止めた。玲奈はどうせ慰めてくれるだろうと少し拗ねていただけだったが、本当に止まるとは思わず、悔しさと恥ずかしさでドアを開け、力強く閉めた。明彦は構うことなくアクセルを踏み、さっさと走り去った。玲奈は炎天下に立ち尽くし、遠ざかる車を見つめながら、涙を止められなかった。
一方、隼人の車内。奈央はさっきの出来事を思い出し、この男から早く距離を置きたいと願っていた。。
「小林さん、駅で降ろしてもらえれば結構です。会社に戻ってください。」と前席に声をかけた。
小林はルームミラー越しに隼人の様子をうかがい、何も指示がないのを確認してから丁寧に言った。
「奥様、急ぎでなければご自宅までお送りします。」
そのとき、隼人はスマホをしまい、少し眉をひそめて奈央に向き直った。
「すまなかった。食事の時、気づかなかった。」
子どもが生まれてから三ヶ月余り。自分はほとんど育児に関わっていない。家には和子も高橋もいるし、妻もいる——そう思っていた。父親になる覚悟も、最初からあったわけじゃない。小さな命を前にしても、感動や喜びを実感できなかった。でも今、改めて考えさせられる。どれだけ多忙でも、親としての責任は金銭だけじゃ済まない。
奈央は、その話題を出されるのが一番嫌だった。夫が他人の妻には細やかに気を配るのに、自分や子供には無頓着だという現実を、直視したくなかった。
だが、隼人はその口にした。
奈央は混乱したまま黙りこみ、しばらくしてようやく笑顔を作った。
「謝らなくていいよ。育児なんて細かいことばかりだし、わからなくても普通だから。」
「いや、父親なんだから、知るべきだ。」隼人は奈央の横顔をじっと見つめた。
奈央は顔を窓の方へ向け、視線を避けた。
「これからは覚えるよ。君が教えてくれればいい。」奈央が視線を合わせようとしないので、隼人は少し苛立ちを感じながら続けた。
奈央は適当に頷いた。「うん、わかった。」
そして車が別荘に着くと、奈央は急いで車を降りた。
ドアが閉まる直前、隼人は言う。
「夜は早めに帰る、一緒に夕食を。」
奈央は振り返ることなく、足早に別荘へと向かった。小林はバックミラー越しに、隼人がその背中をじっと見送るのを見て、空気を読んで車を動かさなかった。隼人はしばらくしてから「行こう」とだけ言った。
会社に戻ると、秘書の田中麻衣が急いだで駆け寄ってきた。
「社長、やっとお戻りですね!サインをお願いします!私、もう限界です。」
田中は四十代前半で、仕事もできる人。隼人も彼女を頼りにしていた。彼女の判断を信じ、書類に目を通さずサインをする。田中は書類を持って足早に去っていった。
隼人はオフィスに戻ったものの、山積みの書類には全く集中できなかった。昼食時にエビを剥く場面が何度も頭に浮かぶ。普段ならなんでもない出来事なのに、今は心の棘のように気になって仕方がない。
言いたかったことも、結局飲み込んでしまった。
そこへまたドアがノックされ、田中が顔を出した。
「社長、十分後に佐藤さんがお見えになります。」
「わかった。」と頷いたものの、ふと彼女の豊富な人生経験を思い出し、口を開いた。
「田中、女性が怒った時、どうやって機嫌を取ればいい?」
田中は驚いて目を丸くした。
「社長、どなたに怒らせちゃったんですか?奥様ですか?それとも九条さん?」
隼人は顔をしかめた。
「玲奈とは関係ない。」
田中は得意げな顔で笑う。
「社長と九条さんのことは、みんな何となく察していると思いますよ。今さら隠したって無駄です。
隼人は社長の威厳を保とうと、じろりと睨みつけた。
田中はすぐに真面目な顔に戻った。
「奥様の機嫌を直すなら、意外と簡単ですよ。お花を一束とか、ちょっとしたプレゼント。それに、素直に謝ること。女性が求めているのは、気にかけているっていう気持ちなんです。」
隼人は半信半疑で尋ねた。
「それで…効果があるのか?」
「やってみれば?それでもダメなら…」田中は声をひそめ、いたずらっぽく笑った。「夜に頑張ってみるとか?夫婦喧嘩なんて、他人が口を挟むものじゃありませんよ。」
隼人は思わず耳まで赤くなり、田中がそんな冗談を言うとは思わなかった。
「もういい、早く出てくれ。」と手で追い払った。
「顔赤くしましたね、もうお子さんも二人いらっしゃるのに。」田中はにこやかにドアの方へ向かい、背後から「花を注文しておいてください」との声が飛ぶ。
田中は口元を綻ばせ、そっとドアを閉めた。