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第32話 滑稽に思えた

「それは……」

和子は言葉に詰まった。


正直なところ、噂が広まった後、和子の心にも不安がよぎったのだ。


理屈では、和子は確かに隼人の人柄を信じていた。


でも、感情の面では……


今の世の中、信じられないようなニュースも多いし、価値観を揺るがす出来事も珍しくない。


それに、隼人と玲奈の関係も、はっきりと説明できるものではなかった。


和子が黙り込んだのを見て、奈央の心には一層の虚しさが広がった。


ね、信じていないのは自分だけじゃない。和子でさえ疑っているのだ。


もう、何を期待できるっていうの?


「和子さん、しばらくの間、赤ちゃんたちにミルクを多めにあげて。」

しばらく沈黙した後、奈央は静かに頼んだ。


和子は驚いて、「奥様、それって……どういう意味ですか?」と尋ねた。


奈央は多くを語りたくなくて、口実を作った。「赤ちゃんたち、大きくなってきてるから、母乳だけじゃ追いつかなくなってきたの。」


たとえ離婚しなくても、いずれはミルクを足す時期が来る。


今のうちから慣れさせておいた方が、もし自分がいなくなった後、いきなり母乳をやめるより赤ちゃんたちも混乱しないはず。


断乳のときに泣き出す赤ちゃんたちのことを思うと、奈央の胸はさらに締め付けられるようだった。


こんなに賢くて可愛い子たちなのに、両親揃った家庭で育ててあげられないなんて、本当に申し訳なかった。


九条家の屋敷——


隼人が到着したとき、すでに明彦の車は庭に停まっていた。


車を降り、服を整えて見慣れた庭を見つめた。こんなに重い気持ちでこの家に来るのは初めてだった。


家の中に入る前から、激しい言い争いの声が聞こえてきた。


「お父さん、お母さん、今日は改めて俺の考えをはっきり言いたい。今は子どもを持つタイミングじゃない、玲奈も母親になる準備ができていない。だから、この子は諦めてほしい。あと2年もすれば黒崎グループの経営も安定するし、俺も家族にもっと時間を割けるようになる。そのとき、改めて考えたい。」


明彦は、両親を前にしても一歩も引かず、はっきりとした口調だった。


玄関の外でその言葉を聞いた隼人は、眉をひそめ、拳をぎゅっと握りしめた。


「明彦、あなたのことは小さい頃から知っている。昔は大人びて、思いやりもあったのに、今のあなたは全然分からない。黒崎家の重鎮たちに厳しくするのは仕方ないとしても、自分の妻やお腹の子にまで、どうしてそんなに冷たくできるの?」


九条正明の声には怒りがにじんでいた。


続いて、九条綾も厳しく言った。「玲奈はもう26歳、あなたも28歳。今が一番いい時期なのよ。大人にも子どもにも負担が少ないの。準備ができていないなんて言い訳よ。準備できていないなら、もっと気をつけるべきだったでしょ?中絶が女性にどれだけの負担か、あなた分かってるの?もし将来、子どもができなくなったらどうするつもり?」


明彦は、妊娠が玲奈の策略だったことには触れず、黙ってそれを背負い込んだ。そして少し間を置いてから、「一番腕のいい医者に頼む。心配はいらない」とだけ言った。


「私は絶対に嫌!」

玲奈は目を赤くし、ティッシュを握りしめて、震える声で言った。「明彦、この子は絶対に産む。あなたがいらなくても関係ない。離婚したって構わないわ!うちの家族なら、子ども一人くらい育てられるから!」


明彦は玲奈を見つめ、困ったように言った。「玲奈、すぐ離婚なんて言わないでくれ。それはお互い傷つくだけだ。」


「じゃあ、あなたのしてることは傷つけてないって言うの?」


玲奈は涙声で言葉を続けた。「今、外では色んな噂が立ってる。もし子どもを諦めたら、みんな私にやましいことがあったと思うに決まってる!」


玲奈の言い分にも、一理あった。


ネット上の話題は一旦収まったが、世間はまだ玲奈と隼人の関係を疑っている。


この子を産むことでしか、自分の無実を証明できないのだ。


リビングが静まり返ったとき、ふと隼人の存在に気づいた使用人が、「月島様」と丁寧に挨拶した。


みんなが振り返ると、隼人が入ってきた。誰もが複雑な表情を浮かべた。


玲奈は隼人を見ると、堪えていた感情が溢れ出し、小声で「隼人……」と呼んだ。


隼人は親友との約束を思い出し、玲奈を見ないようにして、丁寧に頭を下げた。「おじさん、おばさん。」


九条正明は一瞬言葉に詰まったが、「座りなさい」とだけ言った。


隼人は一人掛けのソファに腰を下ろした。


彼が加わることで、場の空気は一層重苦しいものになった。


明彦は唇をきつく結び、表情も険しかった。


玲奈は目を赤くし、今にも泣き出しそうだった。


しばらくして、九条正明が口を開いた。「隼人、君と玲奈の間は——」


言い終わらないうちに、玲奈が恥ずかしさと悔しさで叫んだ。「お父さん!もう何度も言ったでしょ、隼人兄さんとは何もないって。ネットの噂なんて全部デマよ、もうやめて!」


玲奈の必死な様子に、明彦の胸はさらにざわついた。


まるで隼人をかばっているようで、自分への思いより隼人への気遣いの方が強いと感じてしまった。


たとえ二人の間に何もなかったとしても、明彦は自分が滑稽に思えた。


隼人は玲奈の態度が誤解を招くと感じ、すぐに真剣な表情で言った。「おじさん、玲奈のことは妹のように思っているだけです。ネットの噂は全くの嘘で、最初に拡散した人も突き止めました。すぐに真実を明らかにできるはずです。」


「そうか? 誰がやったのか分かったのか?」


九条正明は少し表情を和らげて聞いた。「ライバル会社か?」


隼人は、「いえ、ただの注目を集めたいだけのネット有名人でした。でたらめな話です」と答えた。


明彦は怒りをあらわにした。「そんな世の中を混乱させる奴は、警察に捕まるべきだ!」


「もう警察には届けてあります。すぐに公式な発表があるはずです。」


事態が解決に向かいそうだと分かり、九条家も少し落ち着いた様子になった。「この騒ぎは三家すべてにとって悪影響だ。早く片付けないと。」


「はい、分かっています。」

隼人も自分の責任を感じ、普段の強気な態度を収めていた。


九条正明も、これ以上は厳しく責める気になれなかった。


そもそも、月島家はずっと九条家を支えてきたし、隼人も玲奈にはよくしてくれた。


正直、隼人に婿に来てほしいと考えたこともあった。


けれど、娘はどうしても明彦を選び、黒崎家に嫁ぐと言い張ったのだ。


今にして思えば、明彦は隼人ほど頼りにならない。だが、もう決まったこと、親としては娘の結婚生活を守るしかない。


明彦は、そんな場の空気を冷静に見つめながら、すべてを理解しているようだった。

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