出勤の日、奈央の登場は企画部にちょっとした波紋を呼んだ。
部長の日下は三十代前半、見た目は平凡だが、油っぽい髪と過剰な自信が漂い、どこか不快感を与える人物だった。
奈央を連れてひと通り紹介を済ませた後、日下はデスクまで案内し、にこやかに言った。
「月島さん、ここがあなたの席ですよ。何かあれば、みんなや私にいつでも聞いてくださいね。」
「ありがとうございます。」奈央は丁寧に返した。
「そんなにかしこまらなくて大丈夫ですよ。まずは落ち着いて準備してください。」
日下が去ると、隣の席の同僚が興味津々で声をかけてきた。
「若いのにもう結婚してるんだって?」
「はい、そうなんです。」
「なのに日下部長、やけに気にかけてるよね?」
「日下……部長?」奈央は一瞬ピンとこなかった。
同僚は日下の去っていく後ろ姿を顎で示した。「あの人だよ。」
「ああ……」奈央は察して、少し気まずそうに笑いながら「たぶん新入りだから、いろいろ気にかけてくれてるだけです。」と説明した。
すると周囲の同僚たちは意味ありげな視線を交わし、それ以上は何も言わず仕事に戻った。
やっとの思いで手に入れた仕事、奈央は新しい生活に胸がいっぱいだった。
親友の翠にメッセージを送ると、すぐに「おめでとう!仕事が順調で、早くキャリアウーマンになれるように!」と返信が来た。
奈央は思わず微笑んだ。
キャリアウーマンなんて、自分には向いていないと思うが、目標があるのは悪くない。
翠からはさらに、良一が月島グループ傘下の会社の責任者に接触し、本社の指示もあって既に法律事務所との協力が決まったと教えられた。
この知らせに、奈央はほっと胸を撫で下ろし、翠への負い目も少し和らいだ。
初日は日下から基本的な仕事だけを任され、無事に終わった。
午前十時過ぎ、胸の張りを感じて奈央は休憩室に入り、母乳を搾って、給湯室の冷蔵庫に入れた。
昼休み、同僚たちはグループで外にランチへ出かけていった。奈央は休み時間を確認し、急いで家に戻ることにした。搾った母乳を持って、足早に家路を急いだ。
和子が彼女を見て驚いた。「奥様?お仕事じゃなかったんですか?どうして……」
「うん、子どもが心配で、ちょっと様子を見に帰ってきたの。」
「ご飯は?」
「まだ。」
和子は慌ててキッチンに昼食を用意させた。
奈央はすぐに双子に授乳し、遊ぶ時間もないまま食事をかき込んだ。
再び出発する際、和子は車で送るよう勧め、奈央はしばらく迷ったが結局承諾した。
車の中で彼女はシートに身を預け、すぐに眠りに落ちた。
けたたましい携帯の着信音で奈央は目を覚ました。
隼人からの電話だった。眠気まなこで応答した。
「もしもし……」
「寝てたのか?」低い声が聞こえる。
「うん……車の中でちょっとだけ。」素直に答えた。
「車の中?」
「うん……お昼に子どもを見に帰って、今は会社まで送ってくれてるの。」
隼人は苛立ちを隠せない様子だったが、奈央は「眠い……もう切るね……」と続け、あっさり電話を切った。
会社近くの信号で停車し、運転手が振り返った。
「奥様、ここでお降りになりますか?」
奈央は方向を確かめて「はい、ありがとうございます。」と答えた。
短い休憩で少し元気を取り戻し、ビルに向かって小走りした。
一方、路肩に停めたベンツの後部座席から、隼人は奈央の姿を見送っていた。
助手席の小林が言った。「社長、奥様はどうしてそんなに無理をするんでしょうか?」
隼人は不機嫌そうに「本人に聞いてみたらどうだ。俺にもわからない。」と返した。
さらに運転手が「最近は女性の自立が流行ってますから、奥様も専業主婦に価値を感じていないんでしょう」と口を挟んだ。
隼人は冷たく笑い、「よく知ってるな」と言い捨てた。
奈央の姿が見えなくなると、隼人は「行こう」と指示した。午後三時から会議があるので、ついでに会社の前を通りがかっただけだったが、まさか昼休みにまで家に帰るとは思わなかった。子どもが気になるなら、無理せず家にいればいいのに。わざわざ疲れて車で居眠りし、運転手に会社の前まで送ってもらうこともできず、炎天下を走って……理解できなかった。完璧な奥様でいればいいものを、わざわざ会社勤めで苦労するなんて。
会社に戻るとちょうど会議が始まるところだった。
奈央は新入りだから関係ないと思っていたが、日下がわざわざ彼女の名前を指名した。
そのことで、周囲の視線が集まった。
奈央もそれに気づきつつ、平然を装い、自分はやましいことは何もないと心の中で言い聞かせた。
会議の内容は新プロジェクトの立ち上げで、企画部に新たなミッションが課されることになった。
日下はベテラン社員を数名指名した後、奈央にも「月島さんもこのプロジェクトに加わってもらいます。いい経験になるでしょう」と言い添えた。
その瞬間、会議室にはさざめきが広がった。
入社初日で大役を任されるとは思わず、奈央も驚いた。午前中は過去の成功事例を読み込んでいたばかりで、すぐに企画案を出せと言われても無理がある。
会議終了後、同僚たちはすぐに席を立ったが、奈央はまだ資料をまとめていた。
その時、隣の席のショートカットの女性が立ち上がり、淡々と言った。
「奈央さんだよね。私は鈴木月。先輩として言っておくけど、部長に目をかけられても、いいことはないから。あの人……長く一緒にいるとわかるよ、自分で気をつけて。」
奈央は返事をしようとしたが、鈴木はそのまま去っていった。
一瞬混乱したが、すぐ気持ちを切り替えた。
席に戻り、会社の過去の事例を調べ続け、気づけば定時を過ぎていた。
同僚たちは次々に退社し、プロジェクトを受け持った数人だけが残っていた。
奈央も少し迷ったが、残業することに決めた。帰宅ラッシュを避けるためでもあった。
隼人が帰宅したのは夜七時を回ってからだった。
奈央がまだ帰宅していないと知り、驚きと同時に怒りがこみ上げて、すぐに電話をかけた。
そのころ奈央は仕事に没頭していた。突然の着信に驚き、画面の名前を見て慌てて席を外した。
「もしもし……」と小声で出た。
隼人は不機嫌そうに言った。
「まだ帰ってないのか?今何時だと思ってる?子どもたちが腹を空かせて泣いてるぞ。母親のくせに何をしてるんだ?」
怒りを含んだ言葉が続いた。
奈央は自分が悪いと思い、反抗せず説明した。
「今日は初日で急に仕事を任されて、できるだけ進めたかった。もう少しで終わるので、すぐ帰る。」
「今すぐ帰れ!」
奈央は困った様子で「あと……三十分くらい……」と答えた。やっとアイデアが浮かびかけていたので、せめて大枠だけでもまとめて帰りたかった。
隼人は我慢できず、「今すぐ社長に電話するぞ、信じるか?」と脅しをかけた。
「やめて!電話しないで!」奈央はすっかり怯んで、すぐに「今すぐ片付けて帰る」と妥協した。