隼人も冷ややかな目で彼女を見下ろしていた。
「それで、社長さん、」奈央は静かに、しかし棘のある声で言った。「私のことも、お金で雇う社員にするつもり?」
「好きに思えばいい。ただ、家に帰って母親としての責任を果たしてほしいだけだ。」
「確かに私は母親。でも、それ以前にひとりの人間よ。何度も言ったけど、私にも自分らしく生きる権利がある。子どもの母親というラベルだけで生きたくないの。自分を見失った母親が、どうやって子どもに良い影響を与えられるの?全部、私と子どもたちがより良く生きるためにしていることよ。」
隼人は鼻で笑い、顔をそむけた。その様子は、奈央の主張が子どもじみていて、まるで意味がないと言わんばかりだった。
奈央は彼の軽蔑的な態度に怒りがこみ上げた。「隼人、あなたがすごいのは分かってる。権力も地位もお金も、あなたにとっては簡単なこと。でも、それで私を見下す理由にはならない!私たちは対等よ。月にどんなに苦労して働いても、あなたの一回の食事代にもならないかもしれない。でも、私はあなたより劣ってるわけじゃない!」
そう言い放つと、もうこれ以上話す気もなくなり、視線を画面に戻して仕事に集中しようとした。「もう帰って。私は仕事があるから。」
隼人は、問い詰めるつもりが逆に叱られてしまい、予想外の展開に苛立ちを隠せなかった。高圧的に立ち尽くしたまま、冷たく言い放った。「結局、見栄を張って、自分を苦しめるだけだろ?そんなに意地張って、どこまで耐えられる?長く続ければ続けるほど、痛い目を見るのはお前だ。」
そう言うと、隼人は冷たい空気をまといながら背を向け、大きな音を立ててドアを閉めて出て行った。
奈央はその音にびくりとし、顔から血の気が引いて頭が真っ白になった。
こんな状態で仕事に集中できるはずもなかった。
悔しさで目が赤くなり、心の中で彼を何度も罵った。
どうせ心を見透かされてるなら、なおさら自分の力でやり遂げてみせるしかない。
いつか必ず、自分の実力で立ち上がり、彼の軽蔑も冷たさも跳ね返してやる——。
朝、奈央はまた慌ただしく別荘を飛び出し、駅へと走った。
昨夜は深夜まで残業し、そのあとは子どもたちに夜中の授乳。結局、六時間ちょっとしか眠れなかった。
疲れと眠気が体中にまとわりつく。
隼人の意地の悪さには呆れるばかりだ。早く折れさせようとして、今朝は送ってくれることもなかった。彼の前では家の運転手に頼むのも気が引けて、結局自分の足で駅まで歩くしかなかった。
横をビュンと通り過ぎていくベンツを見て、車内の態度が容易に想像できた。遠ざかる車の後ろ姿に向かって、思わず目をひそめた。
運転手はバックミラー越しに奈央の細い後ろ姿を見て、恐る恐る声をかけた。「社長、奥様を乗せなくてよろしいですか?ここから駅まで、少なくとも二十分はかかりますが……」
隼人ももちろん気付いていたが、冷たく言い放った。「そんなに心配なら、お前が一緒に歩けば?」
「……」運転手はすぐに黙り込み、アクセルを踏んで車を走らせた。
奈央は急ぎ足で会社に着き、なんとか遅刻せずに済んだ。
昼休みも家に戻らず、通勤時間を省いて仕事を早めに終わらせ、きちんと定時で帰るつもりだった。
ところが、給湯室の冷蔵庫に入れておいた搾乳した母乳が、同僚に見つかってしまった。
「これ誰の?なんかミルクっぽいけど……私のお弁当の横にあるの、ちょっと気持ち悪いよね。」同僚の佐藤奈々未が冷蔵庫を開けて食べ物を取り出そうとしたとき、透明な袋に入った白い液体を見つけた。最初はヨーグルトかと思って分けてもらおうとしたが、「母乳パック」と書かれているのに気付き、思わず声を上げた。
もう一人の同僚が覗き込んだ。「これって……誰か搾乳してるの?」「うちの部署で授乳中の人いたっけ?」
「さあ……誰も最近出産したなんて聞いてないよ?」
奈央はその会話を聞きつけて慌てて近寄り、佐藤の手から袋を取り返した。「すみません!私のものです…」
「先にお伝えしようと思っていたのですが、今日は忙しくてタイミングを逃しました。ご迷惑をおかけしました…」
同僚たちは驚き、奈央を見つめた。「子どもいたの?」「今、授乳中なの?それで……胸が……」と言いかけて、男性社員の手前、佐藤は口をつぐんだ。だが、皆の目が奈央の胸元に向けられた。
佐藤がすぐに抗議した。「ちょっと!ここはみんなのランチ箱が入ってるのに、そんなもの入れていいの?」
奈央は恥ずかしさと後悔の気持ちで、母乳パックを持つ手が震えていた。「申し訳ありません…パックの上に布をかけておいたつもりだったのですが、気づいたら落ちてしまっていたみたいです。明日、ミニ冷蔵庫を持ってきますので、退勤時間まで冷蔵庫に入れ…」
「は?……母乳だよ?冷蔵庫に入れるなんて、気持ち悪いと思わない?」佐藤は奈央が言おうとするのを遮り、気持ち悪そうに手で鼻を覆った。
奈央は反論した。「それ、言い過ぎでしょ…職場には子育てしているお母さんも多いし、母乳の何が悪いの?あなたもこれで育ったんじゃないの?」
奈央は貧しい家で育ち、頼れる人もなく、子どもの頃から周囲の顔色をうかがい、いじめられてきた。昔は臆病で自信がなかったが、引けば引くほど踏みにじられると知り、やっと強くなれた。
佐藤は新人の奈央がここまで強く出るとは思わず、言葉に詰まり、周囲を見渡した。「じゃあ、みんなに聞いてみたら?冷蔵庫に入れていいと思う人がいるなら、私は文句言わない。」
その場は一気に静まり返った。未婚や未出産の若い社員ばかりで、こういったプライベートな話題には居心地の悪さを感じ、誰も声を上げなかった。
奈央は恥ずかしさとともに、心の奥底が冷たくなるような気がした。職場で最初に受けた試練が、まさか母乳だなんて…。
そのとき、冷静な声が響いた。「私は気にしないよ。」みんなが振り返ると、鈴木月がカップを手に給湯室に入ってきた。
奈央はその声に振り向き、頼りがいのある先輩だとすぐに気付いた。上司ではないが、同僚の中では一目置かれている存在だ。
鈴木月はコーヒーを入れながら、淡々と、しかし一切の反論を許さない口調で言った。「奈央、そのまま冷蔵庫に入れておきなよ。あと一時間ほどで退勤時間でしょ? 少しの間なら大丈夫だよ。」
奈央は心の中で温かさを感じた。「ありがとうございます!」母乳パックに布をかけて、そっと冷蔵庫に戻した。
「佐藤さん、あなたも女性なんだから、将来母親になる可能性はある。どうしてそんなこと言うの?職場で女性が大変なことは多いのに、同じ女性にまで冷たくされてどうするの?」
鈴木月はコーヒーを口にしながら、佐藤をまっすぐ見た。
佐藤はバツが悪そうに唇を噛み、「鈴木さん、みんながあなたみたいに母親になりたがるわけじゃないよ。男に捨てられても子どもを産んでシングルマザーになるなんて、私には絶対あり得ない。私は結婚も出産もしない。そんな恥ずかしい思いはしないから!」と言い捨てて部屋を出て行った。
見ていた同僚たちも散っていき、冷蔵庫はそのまま使われ、母乳パックも誰も気にしなくなった。