お姉ちゃんにあれこれと細かく問い詰められたあと、有咲はようやく少ない荷物を持ってお姉ちゃんの家を出た。
桐子は新居まで送ってやりたかったが、「ようちゃん」が目を覚まして、泣きながら母親を呼んでいた。
「荷物が少ないし、自分で行くよ」
有咲はそう言って桐子を引き止めた。
桐子も、身動きが取れなかった。
子どもにご飯を食べさせて、それから急いで夕食の準備もしないといけない。夫が帰ってきたときにご飯ができていなかったら、また文句を言われてしまうのだ。
だから、お姉ちゃんはこう言った。
「気をつけてね。夜ご飯、うちで食べていかない?旦那さんも一緒にどう?」
「大丈夫、お姉ちゃんちゃん。お店に戻らないといけないから」
有咲は少し考えて、嘘をついた。
「彼、今日の午後から出張で……しばらく一緒には来られないかも」
佐藤司のことは、佐藤のおばあちゃんから「忙しくてしょっちゅう出張している」と聞いたくらいで、ほとんど何も知らなかった。
うかつにお姉ちゃんに約束して、後で守れなかったら困ると思っていた。
「結婚したその日に出張?それはちょっと……」
桐子は不満そうな顔をした。妹の夫はあまり気が利かないんじゃないかと思ったのだ。
「書類の手続きは済ませたけど、式はまだだし。出張なら仕方ないよ。お金はこれからいくらでも必要になるしね」
有咲はわざと明るく笑って、お姉ちゃんと甥に手を振った。
「じゃあ、行ってくるね。お姉ちゃんちゃん、ようちゃんにご飯あげて」
荷物を引きずって階段を下り、タクシーを呼んで新居へ向かった。
そのときになって、ふと気づいた——佐藤司の家が何階の何号室なのか、聞き忘れていた。
慌ててスマホを取り出して電話をかけようとしたが、彼の番号を登録していないことに気付いた。
でも、LINEは交換していた。すぐに音声通話をかけてみた。
その頃、佐藤司は会議室で重要なプロジェクト会議の真っ最中だった。
会議室は静まり返っていて、全員がスマホをマナーモードにしている。
彼は会議中に邪魔されるのが大嫌いだった。
テーブルの上のスマホが静かに光り、見慣れないアイコンと名前で音声通話の通知が来た。
佐藤司はちらりと見たが、全く記憶にない相手だった。
仕事中、知らない相手からの電話は一切出ない主義だ。
何も考えず、スマホを手に取って通話拒否のボタンを押した。
その手際は迷いなく、あっさりしたものだった。
そしてすぐに、数回画面を操作して相手を「友だちリスト」から削除してしまった。
一連の動作はまるで流れるように、迷いは一切なかった。
有咲のスマホには、通話が切られた通知音が響いた。
彼が忙しいのかと思い、有咲は仕方なく佐藤のおばあちゃんに電話をかけた。
電話がつながると、少し困った声で言った。
「おばあちゃん、佐藤さんの家の部屋番号が分からなくて……知ってますか?」
電話の向こうで、おばあちゃんも一瞬黙り込んだ。
「……有咲ちゃん、ちょっと待っててね。今、司に聞くから!」
実はおばあちゃんも知らなかった。
佐藤司は有咲を「試す」ために、本当の家柄や資産を隠していたし、この「普通」の新居も、結婚手続きを終えてから初めて有咲が知ったものだった。
おばあちゃんは慌てて有咲との通話を切り、すぐに佐藤司に電話した。
会議室で、佐藤司がスマホをテーブルに戻してから三分も経たないうちに、今度はおばあちゃんからの着信が光った。
彼は眉をひそめたが、電話を取り、声を潜めて言った。
「おばあちゃん、今会議中だから、あとで話せる?」
「司!家の部屋番号は?有咲ちゃんがもう引っ越してきたのに、家に入れないって!LINE交換したんでしょ?早く教えてやりなさい!」
おばあちゃんの勢いに、佐藤司の眉がぴくりと動いた。
ああ、そうだった。
今日、確かに結婚届を出したんだった。
顔もよく知らないけれど、おばあちゃんが気に入っているという女性——名前は確か……芦田有咲?
そしてさっき、つい新婚の妻のアカウントを削除してしまったことも思い出した。
「おばあちゃん、808号室って伝えて」
「分かった、じゃあ私から伝えるから、あんたは仕事に戻りなさい」
おばあちゃんは答えを聞くなり、すぐに通話を切った。
佐藤司は暗くなったスマホの画面をしばらく見つめ、二秒ほど黙った。
その後、何度か画面をタップして、さっき削除したばかりの相手にもう一度メッセージを送った。
有咲が佐藤のおばあちゃんを助けたことがあったが、そのとき病院でお礼を言ったのは司の両親だった。
孫世代が見舞いに来たとき、有咲は病院にいなかったし、佐藤司のように忙しい人間は有咲のことなどまったく覚えていなかった。
おばあちゃんがしょっちゅう「有咲ちゃんはいい子よ」と話していても、右から左へ流していて、名前すらしっかり覚えていなかった。
有咲は淡々と返した。
【大丈夫です。お仕事中でしょうし、荷物運んで上がりますね】
少しして、またメッセージが来た。
【手伝いましょうか?】
有咲はその社交辞令のような一言を見て、指で文字を打った。
【スーツケース一つだけなので、大丈夫です。本当に手伝う気があるなら、今帰ってこられますか?】
即座に返ってきたのは、あっさりとした答えだった。
【無理です】
本当に手が離せないのだ。たかがスーツケース一つのために戻るなんて、あり得ない。
有咲はスタンプを一つ送り、それ以上は何も言わなかった。
佐藤司からも、それ以上は何も来なかった。
赤の他人同士、会話が続くはずもない。
彼は、せめて名ばかりの妻が大人しくしていてくれればいい、と思っていた。些細なことでいちいち手を煩わせないでほしい。自分にはそんな暇はないのだ。
スマホを再びテーブルに戻し、顔を上げると、会議室のみんなが微妙な視線で彼を見つめていることに気付いた。