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第05話 空間


佐藤司は普段通りの表情で視線を戻し、淡々とした声で言った。

「会議を続けましょう。」


左隣に座る従弟の明人は、近くにいたおかげで先ほどの祖母との電話の会話をほんの少し聞き取っていた。どうしても気になり、小声で身を寄せてきた。

「兄さん、おばあちゃんが言ってたけど……本当に芦田さんって人と結婚したの?」


司は鋭い視線で一瞥する。


明人はすぐに口をつぐみ、バツが悪そうに背筋を伸ばした。


それ以上は聞けず、心の中で兄に対して深い同情が湧く。


佐藤家は政略結婚で家を固める家ではないが、それにしても兄のこの結婚はあまりにも突拍子もない。


家柄も釣り合わず、ただ祖母が自分を助けてくれた女性を気に入ったという理由だけで兄が巻き込まれたのだ。


明人は密かに、自分が長男でなくてよかったと胸をなでおろした。


一方、有咲はこうした裏の話をまったく知らない。


彼女はスーツケースを引いて、808号室を見つけた。


鍵を回すと、ドアが開く。


部屋は想像していたよりもずっと広く、お姉ちゃんの家よりもずっと大きい。インテリアにもこだわりを感じる。シンプルながらも上質な雰囲気だ。


有咲はスーツケースを下ろし、これから“家”と呼ぶ場所をひととおり見て回ることにした。


ざっと見て、少なくとも150平米はありそうだ。


ただ、家具は驚くほど少ない。リビングにはソファとローテーブル、それにぽつんとワインラックがあるだけ。四つの部屋のうち、ベッドとクローゼットが置かれているのは二部屋のみ、残りの二部屋はがらんとしている。


有咲は迷わず、もう一つのベッド付きの部屋を選んだ。


その部屋はベランダに面していて日当たりも良く、主寝室とは空き部屋を一つ挟んでいる。まるで見えない境界線のようだ。


これならお互い干渉せず、それぞれの空間を持てる。


有咲は心に決めた。佐藤司が自分から何か言い出さない限り、夫婦としての関係については自分から話題を出すつもりはない。


スーツケースを部屋に運び込み、次にキッチンへ向かった。


キッチンのキャビネットは新品同様にピカピカだが、中は空っぽで、鍋や食器はおろか、基本的な調理道具すらない。


二つあるベランダも何も置かれていない。


有咲は、いずれ花や観葉植物を育てたり、ブランコチェアを置いて、読書を楽しんだりしたいと思った。


どうやら、佐藤司は家で食事をしないようだ。


でも、これからは自分も住むのだから、食事のことはどうにかしなくてはいけない。


有咲はすぐにスマートフォンを取り出し、ネットで必要最低限のキッチン用品を注文した。


ベランダのインテリアや他の家具については、佐藤司が帰ってきた時に相談してみるつもりだ。


ここは彼の家で、自分はあくまで住まわせてもらっている立場だから。


注文を終え、時計を見ると急いで鍵とスマホをつかみ、文房具店へ向かった。


店では、親友の奈奈が手を休めて声をかけてきた。

「有咲、午前中どこ行ってたの?なんだかこそこそしてたけど。」


「引っ越したの。」


「引っ越し?桐子さんの家でうまくやってたんじゃないの?」


店はまだ学生たちが押し寄せる前で、ひと息つける時間帯だった。


有咲は簡潔に説明した。

「おお姉ちゃんちゃんの夫が私の長居を嫌がってね、お姉ちゃんともよく喧嘩するの。おお姉ちゃんちゃんにこれ以上迷惑かけたくなくて。」


「生活費も家賃もちゃんと払ってたでしょ?それでも文句言うの?」

奈奈は憤慨した。


有咲は少し黙り、静かに言った。

「毎月おお姉ちゃんちゃんに10万円渡してるんだけど、おお姉ちゃんちゃんには義兄には5万円しか言わないように頼んでるの。おお姉ちゃんちゃんは収入がないから何度もお金を頼むと義兄の機嫌が悪くなるし、自分で少し貯金しておけば、いざという時も困らないから。」


奈奈はしばらく黙ってから、ため息をついた。

「男の人って“俺が養う”とか言っておいて、いざ養うとなると文句ばっかり。女は結婚しても、どれだけ頑張っても結局報われないんだよね。“ようちゃん”が幼稚園に入ったら、桐子さんも仕事探せるといいけど。やっぱり自立しないと。」


有咲はうなずいた。


お姉ちゃんだって働きたいのに、子どもを預ける人がいない。


義両親はお姉ちゃんのことをお金ばかり使うと文句を言いながら、孫の世話は手伝わず、二人目を催促してくる。


「桐子さん、よく引っ越しを許してくれたね。」


「結婚したから。」


「えっ……は?結婚?!」

「いつの間に彼氏ができたの?誰と?」


ちょうどその時、下校した学生たちが店にどっと入り込んできた。


奈奈は疑問を胸にしまい、二人はしばらく仕事に追われた。


学生たちがいなくなった後、ようやく話ができた。


「さあ、白状しなさいよ!」

「誰と結婚したの?何も聞いてないし、一緒に独身生活を満喫しようって言ってたのに!」


有咲は奈奈を信頼して、電撃婚の経緯をすべて打ち明けた。


ただ、佐藤司については自分でもほとんど何も知らない。


奈奈は話を聞き終えると、目を大きく見開き、有咲の額を指で強く突いた。


「有咲!あんた、よくそんな大胆なことできたね!初対面で……。住む場所がなかったら、うちにくればよかったのに!部屋なんて余ってるんだから!桐子さんを安心させるために結婚したいなら、うちの従兄弟じゃダメだったの?あの子、性格穏やかだし仕事も安定してるし、私が頼めば絶対OKだったよ!知らない人と結婚するより何倍もマシでしょ?

「あんたが助けたそのおばあさん、もしかしてわざと事故に見せかけて恩を売ったんじゃないの?」


「奈奈、佐藤おばあさんは、そういう人じゃない。佐藤さんも……よくは知らないけど、悪い人じゃなさそうだった。ただ、一緒に住める場所が必要だっただけ。割り切って共同生活するつもりだよ。」


奈奈はすぐさま言った。


「そんな簡単に共同生活だなんて、有咲、ほんとに心配になるよ。桐子さんが本当のこと知ったら、絶対にショック受けるからね。」


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