佐藤有咲がマンションのドアロックを回したとき、すでに深夜だった。
ドアの蝶番が小さく音を立て、室内には新しい家具特有の、どこか冷たい香りが漂っている。
リビングの大きな窓からは、ぼんやりとした都会の明かりが差し込み、広々とした部屋の輪郭を浮かび上がらせる。だが、そこには温もりも「家」という空気も感じられなかった。
有咲は手探りで玄関の壁灯をつけた。ぼんやりとした灯りが、足元だけをかろうじて照らす。
司は仕事が多忙で、出張も多い。だからこの部屋はまるで仮住まいのように、人の気配が薄いのだろう。
靴を履き替えて中に入り、静まり返ったリビングと閉ざされた主寝室のドアを見渡す。今この広い空間にいるのは自分だけだと確信する。
この時間、彼はまだ帰っていない。たぶん会社に泊まっているのだろう。それならそれでいい。
そう思い、また玄関の方へ戻った。
下駄箱の中はがらんとしていて、司の靴はほんの数足しかない。しゃがんで探していると、奥の方から深いグレーのメンズスリッパを見つけた。
それを取り出し、玄関の内側、ドアの正面に並べて置く。
この位置なら、外からのぞけば誰でもこの男物のスリッパが目に入るだろう。
それが済むと壁灯を消し、暗闇の中、寝室へと戻った。
スーツケースは床に広げたまま、衣類も一部しか出していない。
……まあ、片付けは明日の朝にしよう。有咲はパジャマを取り出し、さっとシャワーを浴びた。
温かいお湯が夜の冷えと疲れを洗い流し、すぐに眠気が襲ってくる。
枕に頭を乗せた瞬間、眠りに落ちた。
同じ夜、東京の高級ホテルでは、きらびやかなシャンデリアがロビーを昼のように明るく照らしていた。
佐藤司は、黒服の屈強なボディガードたちに囲まれてエレベーターを降りた。目元にはかすかな疲れがにじむが、大きな商談をまとめた後の鋭い気配は隠せない。
最後の重要な取引先を見送り、黒塗りのロールスロイスの後部座席に腰を下ろす。体が柔らかな本革シートに沈み込む。
「お帰りはご本家ですか?それとも山頂の別荘でしょうか?」
運転席の助手であり、ボディガードのリーダーでもある高橋健が低い声で尋ねる。
本家は佐藤家の本邸。山頂の別荘は司が普段使いしているプライベートな邸宅だ。
司は目を閉じ、眉間を指で押さえ、ふと頭の中にぼんやりとした、けれどどこか印象的な顔がよぎる。
「Aマンションへ。」
低く指示し、少し間をおいて付け足す。
「新しく買ったトヨタの車、回しておけよ。」
あれは新妻のために用意したものだ。
ふと動きを止め、眉をひそめる。
彼の「妻」……名前はなんだったか。
「高橋さん。」
目を開け、感情の見えないまなざしで問いかける。
「彼女の名前は?」
高橋は一瞬黙り、落ち着いた声で答える。
「芦田有咲、二十五歳です。どうぞお忘れなく。」
佐藤の記憶力は並外れている。ただし、覚えようと思えばの話だ。
どうでもいい相手、特に深入りする気のない女性の名前など、彼にとってはただのラベルに過ぎない。
「……ああ。
」司は気のない返事で再び目を閉じた。覚える気など、さらさらないのだろう。
高橋はその様子から――次もきっと覚えていないに違いないと確信した。
ロールスロイスは音もなく夜の中へ消えていく。後方には同じく黒塗りの車列が静かに続く。
ホテルから豊洲までは車で十分ほど。
マンションのエントランスで車を降りた司は、自ら普通の黒いトヨタ車に乗り換える。
妻の名は思い出せなくても、自分のマンションの場所だけはしっかり頭に入っている。
地下駐車場に入り、専用の駐車スペースに車を停める。
エレベーターで自室のフロアへ。鍵を差し込んで回そうとするが、びくともしない――内側からチェーンロックがかかっている。
司の視線が足元に落ちる。
深いグレーのスリッパが、玄関の目立つ所にきちんと並べられている。
外に出されたのか?
冷たい怒りが一気にこみ上げる。
芦田有咲の仕業に違いない。
最初、偶然祖母を助けてくれたあの娘には、確かに感謝の気持ちがあった。
だが、祖母が彼女を何度も褒め、半ば強引に結婚まで推し進めようとした時、その感謝は警戒と嫌悪に変わった。
司は、彼女を計算高く、狙いのはっきりした女だと見ていた。
結婚を承諾したのも、祖母を安心させるためだけだ。
結婚後は身分を隠し、芦田有咲という人間を観察すると祖母には伝えてある。
彼女が信用に足るなら何事もなく済むだろう。だが、もし思った通りなら――
司の目に冷たい光が走る。
自分を利用しようとする者には、決して容赦しない。
ここは自分の家だ。
住まわせてやっているのに、外に締め出すとは――
怒りがこみ上げる。
司は躊躇なく分厚いドアを蹴りつけた。
ドン、ドンッ! 静かな廊下に重い音が響き渡る。
同時にLINEを開き――
前回、うっかり削除しそうになった教訓から、新しい連絡先には「芦田有咲(妻)」としっかりメモしてある。でなければ、誰だか思い出せず、また消してしまうところだった。
通話リクエストが連続して送られる。
室内では、有咲が激しいノック音で目を覚ました。
心臓が激しく跳ね、眠気など一瞬で吹き飛ぶ。
こんな夜中に、誰だっていうの?
もともと寝起きが悪い有咲は、怒りで一気に目が覚めた。
布団をはねのけ、パジャマ姿のまま廊下に飛び出す。スマホはベッドサイドで鳴り続け、画面には司からの通話リクエスト。
「誰よ! こんな夜中にドア叩いて!」
有咲は怒鳴りながらドアを開けた。
廊下の感知ライトが、高身長の男のシルエットを浮かび上がらせる。
その冷たい顔を見て、言葉が喉につかえた。
佐藤司――
数秒間、呆然と立ち尽くし、やっと我に返る。気まずさと戸惑いの入り混じった笑顔を無理やり作り、声も弱々しくなる。
「佐藤……佐藤さん?」
ドアの外、司は呼び出しにも、ノックにも応答がなく、怒りが頂点に達していた。
今、ドアが開いても有咲には目もくれず、険しい表情のまま中へ入っていく。
有咲はぶつかられ、ふらつきながらも、彼の背中に向かって小さく舌を出す。
廊下を覗き、近所に気付かれていないか確認してから、玄関のスリッパを慌てて部屋に持ち込み、しっかりとドアの鍵を閉めた。
司はすでにリビングのソファに腰掛け、足を組み、冷たい眼差しを有咲に向けている。
十月の夜風は冷たいが、その視線はさらに体の芯まで凍りつかせる。
有咲はスリッパを持ったまま、そっとソファのそばに置いた。
「ごめんなさい、佐藤さん……」
小さな声で説明する。
「帰ったのが遅かったので、いらっしゃらないと思って、ドアチェーンをかけてしまいました。」
少し間を置き、なるべく誠実な声で続ける。
「私ひとりなので、念のため……それで、男物のスリッパを玄関に出しておきました。万が一、誰かが外から見ても男性がいると思えば、悪いことを考えないかなって……」
空手を習ってはいるが、慎重さには自信がある。
司は黙ったまま、冷たいまなざしをそらさない。
空気が重く、壁時計の秒針の音だけが響く。
時が過ぎていく。
有咲はその視線に、背中が焼けるような気がした。
「……すみません。」
さらに小さく謝る。
「次からは、帰ってくるかどうか、事前に電話します。いらっしゃらない時だけ、ドアチェーンをかけます。」
司がやっと動いた。
軽く身を預け、ソファによりかかる。その態度は相変わらず上から目線で、声も冷ややかだった。
「出張のときは、前もって伝える。連絡がなければ、毎日帰ると思え。」
間をおき、さらに冷たく言い放つ。
「電話はいらない。仕事が忙しい。そんなことで時間は取れない。」
「……はい。」
有咲は小さく返事し、目を伏せた。
彼の言う通りにするしかない。
ここは彼の家で、彼が絶対の主人だ。
「佐藤さん、夜食でもいかがですか?」
忙しそうだったから、何か食べるかと思い聞いてみる。
「夜食は食べない。太るから。」