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第09話  夫婦


食事を終えると、佐藤司は財布を取り出し、中を確認した。現金はあまり入っていなかったが、最終的に一枚のキャッシュカードを抜き出し、有咲の前に差し出した。


有咲は動かず、わずかに眉を上げてカードを見た後、彼の顔に視線を移した。


「これから色々と買い揃える物もあるだろうし、お金は必要だろう。」


佐藤司は淡々とした口調で続けた。

「このカード、使っていい。パスワードは——」


彼は立ち上がり、玄関の棚からメモ帳とペンを取り、素早く数字を書き記して切り取り、カードの横に置いて一緒に押しやった。


「今後、家計はここから出す。給料が入ったらすぐに振り込むから。」


少し間を置き、有咲の顔を見ながら付け加えた。

「何を買ったかは記録しておいてほしい。金額自体は気にしないが、使い道は把握しておきたい。」


入籍した日に、有咲が割り勘の話を持ち出したことがあったが、彼はきっぱりと断った。


結婚した以上、少なくとも表向きは家族だ。彼女を養うことに抵抗はなかった。


彼の資産は計り知れず、日常生活で個人的な出費もほとんどない。


誰かが少しでもお金を使ってくれるなら、それも無駄ではないと考えていた。


ただ、心の奥底では有咲に対する「計算高い」という印象が完全に消えたわけではなく、最低限の警戒心は残していた。


家のために使う分には、特に気にしない。


有咲はカードとパスワードのメモを見つめながら、心の中に違和感が浮かんだ。


お金の問題ではなく、彼のどこか上から目線で値踏みするような態度が気になったのだ。


彼女はメモには手をつけず、パスワードも見ずに、そのままカードとメモを押し返した。


「佐藤さん、この家は私だけのものじゃありません。家はあなたが買ったし、私が住むことで家賃を浮かせてもらっている、すでに十分恩恵を受けています。」


彼女の声は穏やかだが、揺るぎない意志がにじむ。

「普段の生活費、これ以上あなた一人に負担させたくありません。日用品の買い物は私が払います。もし一度に五万円以上の大きな買い物があれば、その時は相談しますし、分担もあなたの希望で構いません。」


彼女は安定した収入があり、小さな家庭を支えるには十分だった。


彼に出してもらうこと自体は構わないが、「記録してほしい」という言葉が、自分を疑われているようで、プライドが傷ついた。


店の帳簿は仕事だから仕方ないが、私生活ではそんなことをしたことがない。


佐藤司は鈍感ではなかった。


有咲の一瞬の拒否と、目に浮かんだ冷ややかさで、自分の態度が彼女を傷つけたことにすぐ気づいた。


しばしの沈黙の後、彼は再びカードとメモを手に取り、今度は彼女の手元まで差し出し、先ほどよりもやや柔らかい声で言った。

「君が本屋を経営していて、収入も悪くないのは分かってる。君の言う通り、ここは“二人”の家だ。だから生活費も一緒に負担するのが当然だよ。一人に背負わせるつもりはない。受け取って。」


彼女を見つめながら、

「記録のことは、嫌ならやめていい。」


そして話題を切り替えた。

「この前話した車の件、考えてくれた?頭金は僕が出すし、君の収入ならローンも問題ないだろう。」


有咲は首を横に振った。「

本屋とここはそんなに遠くないし、電車で十分便利です。東京の朝夕の渋滞もひどいし……」


佐藤司は言葉に詰まった。


確かにその通りだった。


彼は普段、混雑を避けて出かけるが、たまに渋滞に巻き込まれると本当にうんざりする。


「車があると便利だよ」となおも説得しようとしたが、ふと思い出した。祖母が有咲はお姉ちゃんや甥っ子を大事にしていると言っていたことを。

「週末には車で箱根まで出かけて、温泉旅行もできるよ。」


有咲はそれでも首を縦には振らなかった。

「もう少し考えさせてください。まだ入籍したばかりで、お互いよく知らないのに、いきなり大金を出して車を買うのは気が引けます。私の貯金でも普通の車なら買えるけど、できれば貯めて家を買いたいんです。」


彼女はまっすぐ彼を見て、率直な目を向けた。

「家こそが本当の“家”だと思います。考え方が違うのかもしれませんが、男の人は車が好きですよね。」


性別論争をしたいわけではなく、あくまで一般的な観察として言った。


「そうだ、」

ふと思い出したように言葉を継いだ。

「お姉ちゃんが一度会ってみたいと言っていました。あなたが最近出張だと伝えておいたので、今度タイミングを見て一緒に行きます。」


佐藤司は「分かった」とだけ答えた。


短い会話が終わり、


有咲は立ち上がってベランダへ行き、洗濯物を干し始めた。


佐藤司は部屋を見回して新聞を探したが、この仮住まいには新聞を取っていないことを思い出した。


仕方なくスマートフォンを取り出し、ニュースを眺め始める。


「あなたの服、」

有咲は自分の分を干し終え、ソファに座る佐藤司に声をかけた。

「洗ってある?」


「自分でやるよ。」

佐藤司は顔も上げずに答えた。彼の衣類はいつも専門の業者に出している。


有咲は少し唇を噛んだが、それ以上何も言わず、掃除用具を取りに行った。


佐藤司はスマホから目を上げ、彼女が手際よく掃除する様子を見つめた。


彼女の動きは自然で、長年の習慣のようだった。


彼の実家では、こうしたことは全て家政婦がやっていた。


けれど一般家庭では、こういうことを主婦が担うのはごく当たり前なのかもしれない。


幸い、引っ越し前にハウスクリーニングが入っていたので、部屋にはほとんど埃もなかった。


一通り家事を済ませると、有咲は自室で身支度を整え、小さなバッグを手に出てきた。


「佐藤さん、ちょっとお姉ちゃんの家に寄ってから、そのまま店に行きます。夜は何時ごろ帰ってきますか?連絡もらえれば、鍵を開けておきます。」


「出張以外は毎晩帰るよ。もし出張になる時は、事前に伝える。」


「分かりました。」

有咲は返事をしながら、すでにドアノブに手をかけていた。


佐藤司が再び声をかけた。少し躊躇いがちに立ち上がり、カードを手に彼女の前に歩み寄った。


「これ、持って行ってほしい。」

今度はメモを添えずにカードだけを差し出し、彼女の顔を見て一瞬言葉を止めた。

「さっきは……言い方が悪かった。ごめん。」


有咲は彼を見つめた。


今度は、彼の目から警戒や距離感が少し和らいでおり、謝罪もどこか誠実に感じられた。


彼女はもう断らず、カードを受け取ってそのままバッグに入れた。


「行ってきます。」


「いってらっしゃい。」


佐藤司はその場に立ち尽くし、足音が廊下で消えるまでじっと耳を澄ませていた。


肩の力が自然と抜ける。


「夫」という役割は、どんな難しいビジネス交渉よりもはるかに疲れるものだと実感した。


ソファに戻り、テーブルのスマートフォンを手に取って、馴染みの番号に電話をかけた。


すぐに電話がつながる。


「高橋さん、」

佐藤司はいつもの落ち着いた声に戻っていた。

「今週末、皆さんを豊洲の海沿いの家に招待して食事をします、と。祖母なら分かるはずです。」


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