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第11話  パーティー


耳に残るような急ブレーキの音が、まだ頭の中にこだましている気がした。


司は、有咲が慌てて電動キックボードで走り去る後ろ姿をじっと見つめ、表情は険しくなるばかりだった。


──通勤ラッシュの朝に、なんて不注意なんだ。


心の中では有咲をさんざん非難したが、結局は何も言わず、冷たく唇を引き結んだだけだった。


運転手も気まずそうに黙り込み、再び車を発進させる。


ロールスロイスは静かに走り出し、まるで先ほどの出来事がなかったかのように、車内には落ち着いた空気が戻った。


法的には夫婦でも、実際には他人同然。司には彼女に注意する義務などない。


一方、当の有咲は、自分が危うく「他人同然の夫」の高級車に突っ込みそうになったことなど知る由もなかった。


動揺しつつも書店に戻り、キックボードを停め、扉を開けると、奈奈がすでにカウンターの裏で朝ごはんを食べていた。


「有咲!」

口いっぱいにパンを詰め込んだまま、奈奈が手を振る。

「朝ごはん食べた?新しいスイーツ見つけたから、二箱持ってきたよ。めっちゃ美味しいから!」


「もう食べたよ」

有咲は鍵を置き、紙袋を引き寄せて開ける。

「でも甘いものなら、なんでも好き。」


抹茶味の小さなケーキを一口食べて、満足そうに目を細めると、何気なく口を開いた。

「そういえば、今朝ここに来る途中、ロールスロイス見かけたよ。」


奈奈の目が輝く。

「ロールスロイス?東京でもあんまり見かけないよね。で、車に乗ってたのは?もしかして小説に出てくるみたいな、若くてイケメンの社長?しかも独身?」


茶化すようにウインクする奈奈に、有咲は笑って首を振るだけだった。


奈奈もつられて笑ってしまう。

「冗談だよ。小説じゃ独身のエリートばっかり出てくるのに、私たちの周りには一人もいないもんね。」


「小説は作り話だし」

有咲はもう一つお菓子を手に取る。

「社長じゃなくても、何かしらの業界で活躍してないと話にならないでしょ。普通の会社員の話なんて、誰も読まないよ。」


奈奈は深くうなずきながら食事を続けていたが、ふと思い出したように箸を置き、有咲に顔を近づける。


「ねえ、有咲。今晩、空いてる?」


「私?いつも通り店と家を往復するくらいだけど。桐子さんのところに寄るくらいかな。何かあるの?」


「うん!」

奈奈は勢いよくうなずいた。

「今夜、ちょっとしたパーティーがあるの。お母さんが伯母さんに頼んでくれて、招待状を一枚手に入れたから、同伴者も一人連れて行けるんだ。一緒に行こうよ、たまには華やかな場所で世間を見てみない?」


両手を合わせて、有咲をじっと見つめる奈奈。


有咲は即座に首を振った。

「そういう場所、私には似合わないし、無理に入っても浮くだけだよ。」


収入は悪くないが、ああいう世界は遠すぎる。行ったところで、きっとスタッフと間違えられるのがオチだ。


「私も行きたくないよ!」

奈奈は大げさに嘆きながら有咲の腕を掴んで揺さぶる。

「でもお母さんがどうしてもって…伯母さんも苦労して招待状を手に入れてくれたし。有咲、お願い、私を助けると思って付き合ってよ!じゃないとお母さんに一年中言われるんだよ、耳にタコできちゃう!」


夏川家は東京の地元で裕福な家庭。いくつかの不動産や商店を持っているが、本当の名家に比べればまだまだ。


奈奈の母は、美人の娘をいずれは名家に嫁がせたいと願っている。


奈奈の伯母はすでに名家に嫁ぎ、社交界での人脈も広い。だからこそ、娘のためにパーティーの招待状を用意してくれたのだ。


「伯母さん、また結婚を急かしてるの?」

有咲は察したように言う。


「どこの母親も一緒だよ」

奈奈はあきれた顔で肩をすくめる。

「まるで私が家でご飯を食べすぎてるみたいに言うんだから。自分で稼いで好きに暮らしてるほうが気楽だし、結婚するにしても普通の家庭で十分。名家に嫁いだ伯母さんだって、最初はかなり大変だったって今も言ってるし。」


自由に生きたい奈奈には、名家のしきたりなんて窮屈でしかない。


「有咲、今夜だけ!一緒にちょっと顔を出すだけでいいから。伯母さん曰く、今夜は東京の若手実業家がたくさん来るらしいよ。お金持ちを狙うとかじゃなくて、ただの見物でいいから!」

奈奈はさらに畳みかける。

「しかも!パーティーには有名ホテルのビュッフェがあるんだって!想像してみて?」


有咲も奈奈も、食べることが大好き。


二人が仲良くなったのも、食の好みが合ったからこそ。


奈奈のしつこい説得と美食の誘惑、さらには「命の恩人」作戦まで繰り出され、一時間ほど粘られた末に、有咲はついに根負けした。


「分かった、分かったよ。もう降参。今夜は早めに店を閉めよう。」


お姉ちゃんに電話をして、陽の熱もただの風邪で大したことはなく、すでに医者にも診てもらったと聞いて安心し、奈奈と一緒にパーティーに行くことも伝えた。


「いい経験になるわ」

桐子さんも電話越しに賛成してくれた。

「何事も経験よ。」


昼過ぎ、書店を早めに閉めて、奈奈とともに夏川家へ向かった。奈奈はクローゼットに飛び込み、ドレスやジュエリー、メイクの準備に夢中になる。


夏川家の人たちは、自立心の強い有咲をとても気に入っており、奈奈の同伴も快く送り出してくれた。すでに既婚の有咲がいれば、娘が目立ちすぎる心配もない。


夕方六時を少し過ぎた頃、伯母さんが手配した黒い高級車が家の前に到着した。


奈奈の母は、二人を見送りながら言う。


「有咲、奈奈のこと、よろしく頼むわよ。食べてばっかりいないで、ちゃんと若い人たちとも話してきてね。」


そして自分の娘には、

「奈奈、伯母さんの苦労を無駄にしないでよ。」


有咲は笑顔で答えた。

「お任せください。しっかり見てますから。」


その「しっかり」が何を指しているのか、二人は目配せして黙っていた。もちろん、美味しい料理のことだ。


「有咲がいてくれたら一番安心よ」と奈奈の母は嬉しそうに言った。彼女は有咲を本当に気に入っていて、もし自分の息子がもっと年上だったら、ぜひお嫁さんにしたかったと何度も思ったほどだ。


有咲が急に結婚したと知ったときは、奈奈の母も残念がったものだ。夏川家には若い男性がたくさんいるし、有咲がその気になれば、好きな人を選ばせてあげられたのに。


今となっては、そんな話を蒸し返すつもりもない。


奈奈の母に急かされ、白いドレスに身を包み、ジュエリーに彩られた奈奈は、有咲の手を引いて伯母さんの手配した車に乗り込んだ。


既婚者として奈奈の付き添いで行く有咲は、普段通りの服装に軽いメイクだけ。それでも彼女の自然な美しさは隠しきれなかった。


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