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第12話  佐藤家1


東京の高級ホテルは灯りが溢れ、巨大なシャンデリアがまばゆい光を放っていた。


佐藤有咲は、回転ドアを抜けるとき、思わず足音を静かにした。


足元の大理石はピカピカで、行き交う人々とドレスの影を映し出している。高級な香水の香りが、夏のぬるい夜風と混ざり合い、ほのかに漂っていた。


有咲はごく普通の淡い色のワンピースを身にまとい、アクセサリーひとつつけていなかった。まるでガラスの世界に迷い込んだ小さな埃の粒のようだった。


夏川叔母はすでに入口で待っていた。濃い緑色の着物がふくよかな体を包み、首元のパールネックレスが上品に輝いている。


親しげな夫婦を見送ったばかりで、叔母の目はすぐに停まった自家用車に向けられた。


「叔母さん!」

夏川奈奈がスカートをひるがえしながら駆け寄り、メイクした顔には喜びがあふれている。


佐藤有咲は静かにその後ろについて、控えめに頷いた。「夏川叔母さん。」


叔母は有咲に一瞬視線を落とした。


両親を早くに亡くし、特に裕福でもない家庭の子なのに、この子の立ち居振る舞いには、どこか言葉にしがたい落ち着きがある。まるで最初からこの華やかな場所にいるべきだったかのように――。


ひとまず……叔母の目は有咲のごく普通のワンピースを見て、内心の不安がすっと消えた。


まあ、分をわきまえているようね。


「来てくれてよかったわ。」


叔母の表情がさらにやわらぎ、奈奈に向き直って少し厳かな口調になる。

「招待状はちゃんと持ってる?受付で必要だからね。」二人を中へ案内しながら、声をひそめて続けた。

「中は普段の集まりとは違うから、よく見て、あまり喋りすぎないこと。チャンスがあれば、私がちゃんと紹介するから。」


熱い視線を奈奈に向ける。


「奈奈、今夜は佐藤家の御曹司たちが顔を出すかもしれないのよ。あの佐藤財閥よ?家風は厳格で、男たちもみんな信頼できる人ばかり。余計な噂なんて全然ない。こんな幸運……」


叔母は少し大げさにため息をついた。

「あなたの従妹はまだ若いからね。本当はあなたに一番いいご縁をと思うけど……」


奈奈は思わず目を回した。

「叔母さん、そのハードルは高すぎるよ。夢見すぎ。」


こっそり有咲の腕を肘でつつく。

「ねえ、有咲、聞いた?財閥も佐藤なんだって。」


有咲はただ、小さく口元をゆるめただけだった。


自分の家の佐藤さんも、もちろん佐藤だ。でも世の中に佐藤は山ほどいる。財閥の当主だなんて、自分の平凡な日常とはまったく縁がない。


「佐藤家は人柄をとても大事にしてるから、家柄だけじゃないのよ。」


叔母はなおも続け、姪の可愛らしい顔と有咲の落ち着いた横顔を見比べて、これ以上は何も言わずに言った。

「じゃあ、あなたたちは先に入ってて。私はちょっと知り合いに挨拶してくるから。」


そう言って足早に離れ、二人だけが残された。


奈奈は解放されたように有咲の手をぐいっと引っ張った。

「行こ行こ、どこか静かなとこ探そ!やっと耳が休まる!」


有咲を連れて、手慣れた様子で着飾った人々の間を抜け、宴会場の奥の目立たない隅っこまで進んだ。


二人は、山盛りのフィンガーフードをすぐにお皿に取り分けた。


「さ、いただきます!」

奈奈は銀のフォークでキャビアがのった小さなクラッカーを刺し、声をひそめて笑う。

「うちの母さんが、私が食べるためだけに来てるって知ったら、きっと怒りで倒れちゃうよ。財閥の御曹司だなんて……叔母さんもよく言うよね、この顔で?」


頬をふくらませて、口の中で呟く。

「有咲、どう思う?私の顔って“絶世の美女”か“国宝級”に見える?」


有咲は静かにパイ生地のフィンガーフードを一口。サクサクとした生地と中の温かい高級食材のソースが、口の中でとろけていく。


満足そうに目を細める。

「気にしないで。美味しいならそれで十分だよ。あなたのおかげで、こんな高級ホテルの味を楽しめるのも、きっと一生に一度だと思うし。」


賑やかな中心から離れたこの隅では、二人の控えめな笑い声と、フォークが食器に当たる小さな音だけが響いていた。


食べ終わると、奈奈はこっそりシャンパンを二杯持ってきた。


冷たい泡が喉をすべり、ほろ酔いの心地よさが広がる。


そのとき、不思議な静寂が、まるで見えない波のように会場全体を包み込んだ。


さっきまでの談笑やグラスの音、ヴァイオリンの調べまで、すべてが誰かの手で突然止められたようだった。


流れていた人の波も、まるで華やかな背景画のようにぴたりと止まる。


有咲は手にしたシャンパングラスを半分上げたまま動きを止めた。


奈奈もケーキを口に運ぼうとした手が止まったまま、口元にはまだクリームがついていた。


二人は顔を上げて、きょとんとした。


「何が起きたの?」

奈奈は小声で周りを見渡す。


有咲も立ち上がり、無数の招待客が磁石に引き寄せられるように、一斉に同じ方向へ向かっている――


ホテルの入口だ。


二人は背伸びをしたが、高級なドレスやタキシードの背中が視界をふさいでいる。


誰が来たのだろう?


これほどまでに、上流階級の人々を一瞬で静まり返らせ、無言で注目させる存在とは――。


やがて、入口に一行が現れ、光の中心を歩いてきた。


佐藤司が先頭に立ち、シワひとつないダークスーツが彼の端正で冷ややかな輪郭を際立たせている。


その後ろには、同じくスーツ姿の男性たちが従い、落ち着いた足取りで、目線を前にまっすぐ進む。その存在だけで自然と周囲に壁ができていた。


彼らが通ると、固まっていた人々が無言で道をあけていく。


「佐藤さん。」


「佐藤さん、こんばんは。」


道すがら、丁寧な挨拶が次々に飛び交い、どれも遠慮がちで控えめだ。


何人かの大物実業家が自ら歩み寄り、にこやかな笑顔を浮かべる。


佐藤司はほんのわずかに頷くだけ。唇は固く閉ざされ、視線は冷たく鋭い。誰一人として、その目に長く映ることはなかった。


それは決して傲慢ではなく、雲の上から世間を見下ろすような、自然な距離感と冷たさだった。このきらびやかな宴さえ、彼にとってはただの背景にすぎないように――。


目に見えない圧力が広がり、隅にいた有咲は思わずひやりとした。


思わずグラスをぎゅっと握りしめる。冷たいガラスが手のひらにぴったりとくっついた。


奈奈も息を止め、目をまん丸にして有咲の耳元でささやく。

「すごい……この雰囲気……これが佐藤家の人なの?」


有咲は答えなかった。ただ、あの人影が群衆の中心へと進むのを見ていた。普段は偉そうな富豪たちが、彼の前では自然と頭を下げている。


高級な香水や食べ物の香り、酒の匂いさえも、この鋭い空気の中で一瞬凍りついたようだった。


佐藤司は、長くその場にとどまることもなく、


数人の中心人物と軽く挨拶を交わすと、案内されて、用意された主賓席へ向かっていった。


彼の動きに合わせて、止まっていた人波もゆっくり流れ出し、さざめきが再び会場に戻ってきた。


奈奈は大きく息を吐き、まるで水面から顔を出したように肩を落とす。

「もう……びっくりした。この迫力、生きてる氷山みたい……点心も凍っちゃいそうだった!」

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