夏川奈々は満足そうにフォークを置き、夏川航に微笑んだ。
「こういうパーティのエリートたちには全然興味ないの。ただ、有咲と美味しい料理を味わいに来ただけ。本当に一流ホテルっていうだけあって、ご飯がすごく美味しいのね。」
彼女は唇を鳴らし、「すっかり満足しちゃった!」
夏川航は言葉に詰まった。
「もうお腹いっぱいだし、そろそろ行こうか。」
奈々は立ち上がり、
「お母さんに伝えておいてね、私たち先に帰るから。」
航は少し慌てて、有咲の方をちらりと見た。
「もう帰るの?まだパーティー半分しか終わってないし、終わるのは十一時くらいだよ。」
有咲はバッグを手に取りながら、
「明日は朝から店があるから、遅くまでいられないの。」
と、きっぱり言い切った。
二人が出口へ向かうと、航は慌てて後ろを追いかけた。
「でも……開店を少し遅らせてもいいんじゃない?」
「ダメよ。」奈々は彼の肩を軽く叩き、からかうように言った。
「朝昼晩、三食分の売上があるんだから、一食でも抜けたらもったいないわ。しっかり楽しんできなさい。いい出会いがあるかもよ?」
彼女は意味ありげにウインクした。
「若いんだし、恋愛したって悪くないでしょ。」
航は耳まで赤くなり、ちらっと有咲を見て小さな声で言った。
「まだ卒業したばかりだし……恋愛はもう少し先でいいよ。」
「男の子は急がなくていいのよ。」
有咲もさらりと続けた。
「航君、まだ二十二歳でしょ?あと数年考えても遅くないわ。」
彼女は目の前の青年を見つめ、少し感慨深げに微笑んだ。
「初めて会ったときは、まだ子供だったのにね。」
航は小さくうなずいた。
引き止められず、航は二人をホテルの外まで見送ることにした。
「車で来たの?」
「お母さんが車を手配してくれたけど、帰りは自分たちでタクシーを拾うつもり。お母さんに、私たち先に帰るって伝えておいて。楽しんでね!」
ホテルのエントランスには人の姿が多く、何人かが二人に視線を送ったが、誰も話しかけてこなかった。
二人は注目を浴びるのを避け、そのまま通り沿いまで歩いてタクシーを止めた。
タクシーに乗り込む前、有咲はずっとついてきた航に言った。
「もう戻りなさい。」
航はその場に立ち尽くし、タクシーが車の流れに紛れるまで見送った。しばらくしてから、ゆっくりと振り返る。
ホテルの回転ドアが再び開き、佐藤司が人々に囲まれて姿を現した。
屈強なボディガードたちが周囲を固め、自然と周りから隔てている。航はつい、道を譲るように身を引いた。
「夏川君。」
司は彼の前で足を止め、淡々と声をかけた。
航は驚き、慌てて返事をした。
「佐藤さん!」
その声で周囲の視線が一瞬集まった。
夏川家は名家といえども、佐藤家と特別な関係があるわけではない。
航も、家業に入ったばかりの若手に過ぎない。そんな彼に、佐藤司がわざわざ声をかけるなんて——。何か深い意味があるのかと、皆が思った。
親戚たちもその様子を見て、驚きと喜びが隠せない。
ビジネスの世界で佐藤司に名前を呼ばれるだけでも、大きな意味があった。
「夏川君、さっきは……」
司が言いかけた。
「二人のお姉ちゃんさんをタクシーまで送ってきました。今戻ったところです。」
航は慌てて答え、佐藤家の席を怠ったと誤解されないよう、必死に説明した。
司は軽く頷き、航の顔を一瞬だけ見つめると、そのまま通り過ぎた。
人々の流れが司を中心に渦巻き、やがて彼の姿も見えなくなった。航も、さっきまでの注目がすぐに消え、また端に追いやられた。
司が短時間だけ顔を見せて去るのは、いつものことだった。
この場で商談をまとめた経営者たちは、胸をなで下ろしていた。
ほどなくして、黒塗りのロールスロイスが護衛の車数台に守られながら、東京グランドホテルを後にした。
「お帰りは、どちらへ?」
運転手が尋ねる。
司は腕時計を見た。まだ九時半。彼にとっては、夜はこれからだ。
少し考えて、「世田谷まで。」
思いがけず、司は有咲よりも早く家に着いた。
扉を開けると、静寂が広がっていた。
彼はソファに腰を下ろし、何気なくテレビをつける。画面の光が無表情な顔を照らすが、彼の視線は時折、玄関へと向かう。
スマホが震えた。ボディガードから写真が送られてくる。
有咲がパーティで料理を選んだり、山のように盛られた皿を持って自分の席に戻ったり、夢中で食べている様子ばかり……。司は一枚一枚めくりながら、かすかに口元を引き結んだ。
この女、本当に食い意地が張ってるな。
ただ、隅で静かに食べている方が、他の男にちやほやされるよりはずっといい。
しかし、その服装には眉をひそめた。ドレスすら着ずに、あまりにも無頓着だ。もし派手に着飾ってパーティに出ていたら、きっと家のドアを閉めて入れなかっただろう。
夏川航以外、他の男と話す様子もなかった。航は彼女の親友の弟で、もともと顔見知りだ。
最後の一枚を見つめ、司の唇は固く結ばれ、目つきが冷たくなる。
ボディガードがこっそり撮った写真の角度は絶妙で、航が有咲をこっそり見つめている瞬間がはっきりと写っていた。佐藤グループのトップである司の目は、鋭くその視線を見逃さなかった。
この細かな仕草からも、彼にはわかった。
夏川航は有咲のことが好きなのだ。
まさか、自分に恋のライバルがいたとは——!
玄関の鍵が静かに回る音がした。
司は素早くスマホの画面を消し、ポケットにしまった。
顔を上げると、有咲がちょうど帰ってきたところだった。
彼女はドアを閉めて鍵をかけながら、少し意外そうに司を見て尋ねた。
「佐藤さん?今日は残業じゃないんですか?」