佐藤司は喉の奥で低く「うん」とだけ返事をした。
「佐藤さん、明日残業がなければ、ちょっと早起きできる?」
「何か用?」
佐藤司の声はガラス越しに聞こえ、やはり冷たい。
佐藤有咲は、そんな彼の無愛想な調子にはもう慣れていた。一緒に生活しているだけで、いつでも終わってもおかしくない関係だ。
「車で園芸店に連れていってほしいの。ベランダに置く鉢植えを買いたくて。車があったほうが便利だから。」
リビングがしばらく静まり返る。
「もし無理なら、車だけ貸してくれてもいいよ。自分で行くから。」
さらに付け足した。
「何時?」
佐藤司の声が、まるで内心で葛藤した末の妥協のように聞こえた。
「六時でいい?まず朝ごはん食べて、それから花も日用品も買いたいし。」
この家は生活感がほとんどなくて、まるで前から誰も住んでいなかったようだと有咲は前々から思っていた。
「分かった。」
佐藤司は短く答えた。
有咲が納豆ご飯を食べ終わってリビングに戻ると、佐藤司が尋ねた。
「今日は店、早く閉めたの?」
「今日は営業してないよ。友達とパーティーに行ってきた。」
有咲は彼の向かいに腰掛け、その綺麗な目でじっと佐藤司を見つめた。彼はいつも冷たい態度で、無意識に距離を取っているけれど、顔立ちは本当に整っている。
「ねぇ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、答えてもいい?」
「今夜のパーティー、東京グランドホテルだったんだけど、あそこって財閥の持ち物らしいよ。で、その家の跡取りも来てたんだって。同じ佐藤って名字で。」
有咲は探るように続けた。
「財閥の佐藤家と…何か関係ある?」
佐藤司は表情ひとつ変えずに言った。
「五百年前なら、もしかしたらね。」
有咲は明らかにほっとして、笑いながら言った。
「やっぱり関係ないと思った。」
彼女が肩の力を抜いて、少し嬉しそうにしているのを見て、佐藤司は思わず聞いてしまった。
「俺が佐藤家と関係あったら、嫌なのか?」
有咲は思わず笑い出した。
「もし本当に佐藤財閥と縁があったら、私みたいな赤の他人をお嫁さんにするわけないでしょ?誰がどう考えても、佐藤家の敷居は私には高すぎるし。たとえ遠い親戚だったとしても、きっと気まずいだけ。今のままがちょうどいいよ。気を遣わなくて済むし。」
佐藤司は口をつぐんだ。
「大きな会社で働いてるって聞いたことあるけど、佐藤さんって知ってる?財閥の跡取りの人。」
有咲は彼の微妙な表情の変化に気づかず、楽しそうに噂話を続けた。
「今日のパーティー、私と奈奈は背伸びしても顔がよく見えなかったけど。」
佐藤司は黙ったまま、ただ彼女を見る目が少し深くなった。
「いつもボディーガードを従えてて、若い女性は絶対近寄らせないんだって。奈奈の情報によると、結婚もしてないし、スキャンダルも全然ないらしい。きっと彼女すらいないんじゃないかな。」
有咲は声をひそめて、少し探るように言った。
「佐藤さん、あの人、あの歳まで独身って、やっぱり…何か問題があるのかな?それとも、プライベートに秘密でも?」
佐藤司は思わず舌を噛みそうになり、彼女を睨みつけた。
その視線を有咲はただ驚きと受け取り、さらに分析を続ける。
「だって、あの様子じゃ女性を近寄らせないなんて、女性が苦手なんじゃない?苦手ならやっぱり問題ありだよね。あんなお金持ちで、あの歳まで独身なんて、庶民には理解できない世界だよ。」
佐藤司は衝動を必死で抑え、冷たく言った。
「なんで年配だと思うんだ?女性を近寄らせない=問題あり、ってどうして?」
「だって佐藤家の当主だよ?漫画みたいな若い社長じゃあるまいし。あんな大財閥の後継ぎで、しかも実際に経営を任されてるってことは、どう考えても落ち着いた大人の男性でしょ?三十五歳以上は確実、もう中年だよ。」
有咲は自信満々に言った。
佐藤司は口を開けたが、何も言えなかった。まさか自分が三十歳で、有咲より五つしか年上じゃないなんて、言えるはずもなかった。
しばらく沈黙した後、彼はさらに冷たい声で言った。
「佐藤家の跡取りに興味あるのか?」
「全然ないよ。」
「ただ、こんな大物社長の噂話ってなかなか聞けないから、ちょっとした好奇心でさ。夏川叔母さんは奈奈に佐藤さんを紹介したがってるみたいだけど、奈奈はお金持ちに嫁ぐ気ないし。“金の切れ目が縁の切れ目”って言葉、知ってる?」
有咲は、奈奈から聞いた夏川叔母さんが結婚当初にお金持ちの家で苦労した話を思い出した。夏川家だってそこそこ裕福なのに、それでもあんなに大変だった。自分たちみたいな普通の家じゃ、到底無理だと改めて思う。
「もう遅いし、お風呂入ってくるね。」
話が終わると、やっぱりまだお互いに距離があるなと感じた。
有咲は立ち上がってベランダに洗濯物を取りに行きながら、ぼやいた。
「それにしても、なんでリフォームのときベランダに物干し竿つけなかったの?干すのすごく不便なんだけど。」
佐藤司は何も言わなかった。ベランダの物干し竿なんて、彼が気にするはずもなかった。