彼女は上司のアプローチや愛情を存分に楽しみ、贈られる花やプレゼントもすべて受け取っていた。ただし、親しくキスを交わす程度で、それ以上の一線は決して越えなかった。
それは彼女が特別に貞淑だからではなく、山本達也をじらしているだけだった。
彼女が本当に欲しいのは、陰でこそこそと付き合う愛人の立場ではなく、山本達也の妻の座だった。
もっとも、山本達也は長年付き合ってきた奥さんがいて、しかも大学時代の同級生だ。その奥さん、芦田桐子も以前はこの会社で働いていた。しかし、彼女が入社したときには、芦田桐子はすでに退職して専業主婦になっていた。
白川は芦田桐子に直接会ったことはなかったが、会社の古株から話を聞いた。結婚して一年で男の子を産み、その後はずっと家で子育てに専念しているのだとか。さらに、出産後は体型が崩れ、まるで球のように太ってしまったという話だった。
山本達也も、奥さんが「ブタみたいに太った」と愚痴っているのを何度も耳にしたことがある。
白川若菜は心の中で芦田桐子をバカにした。結婚しても女性はちゃんと体型を維持するべきなのに、あんなに太ってしまって、どんな男が好きになってくれるっていうの?
山本課長を誘惑したことを責められる筋合いはない。桐子が自分を磨かなかったせいで、山本課長はすっかり彼女に愛想を尽かし、しかも浪費家で無駄遣いばかり。
桐子がもう少し節約してくれれば、山本課長のお金も自分にもっと使ってもらえるのに。
そのとき、山本達也の顔には陰りがさし、椅子にもたれながら不快そうな声で言った。
「その話はやめてくれよ。子ども産んでから完全にだらけちゃって、今じゃ……」と、手を振ってうんざりした様子を見せる。
「子どものためじゃなかったら、とっくにやっていけないよ。」
一方で、義理の妹はちゃんと体型を維持していて、桐子よりも若くてきれいだ。お姉ちゃん妹なのに、佐藤有咲の方がどこか上品さを持っている。
もちろん、昔の桐子も上品さがあったが、今は体型が崩れてすべて台無しだ。
桐子はベビーカーを押しながら、重い気持ちを抱えて歩いていた。
夫の「ブタ」呼ばわりと、その後に続いた辛辣な言葉が胸に引っかかっている。ふと息子を見下ろし、そして自分の色あせた古着に目を落とす。疲れと悔しさがじわじわと広がった。
きらびやかな生活?家計は一円単位でやりくりしている。
有咲のために無理して買った新しい服が、今では皮肉にすら感じる。
気が散っていたせいで、足元がふらつき、ベビーカーの車輪が「ガン」と音を立てて、路肩に停まっていた黒い高級車のドアにぶつかった。
耳障りな擦れる音に、桐子の心臓が一瞬止まりそうになる。フロントには「M」のエンブレム――メルセデス・マイバッハ!冷や汗が背中を伝う。
慌てて息子の無事を確認すると、驚いただけで泣きそうな顔をしている。
「どうしましたか?」背後から低い男性の声が聞こえた。
桐子は驚いて振り返り、何度も繰り返し謝った。
「本当にすみません!不注意でした……」
男は三十五歳前後で、黒のスーツをきっちり着こなしている。顔立ちは整っているが、右の額から顎にかけて深い傷跡があり、冷たい印象を与える。その男は車のドアの傷を見て、眉をひそめた。ベビーカーにいた陽は、その顔に怯えて大声で泣き出し、芦田桐子に必死で手を伸ばした。
男は驚いた子どもと、青ざめて謝り続ける桐子をちらりと見て、固まっていた顎が少し緩んだようだった。重く息を吐くと、「電話番号を教えてください。修理代は負担してもらいます」とだけ言った。
「はい、もちろんです!必ずお支払いします!」
桐子は安堵と混乱で手元がもつれながら携帯を取り出した。
「番号を教えてください、すぐかけます!」
男が番号を伝えると、桐子はすぐに発信し、相手のポケットから着信音が鳴るのを確認して電話を切った。
「お名前は?」
「山本桐子です。」
男はスマートフォンに素早くメモし、大きく手を振った。
「もう行っていいですよ。今度は気を付けて。」
桐子は何度もお礼を言いながら、泣きじゃくる息子を連れてその場を離れた。しかし、胸の重しはさらに重くなった――メルセデス・マイバッハの修理費……夫の反応は?考えるのも怖かった。
桐子が去って間もなく、黒塗りの車が静かに近づき、路肩に停まった。中央のロールスロイスの窓が下がり、佐藤司の端正な横顔が現れる。彼はマイバッハのそばに立つ傷跡の男を一目で見つけた。
「明か?」
佐藤司が声を掛ける。
「こんなところで何してる?」
高橋明――あの傷跡の男は振り返り、車のドアの傷を指差して淡々と言った。
「ちょっと買い物に来たら、こんなことになった。」
佐藤司は眉を上げた。「相手は捕まえたのか?」
「連絡先はもらった。逃げられはしないさ。」
高橋明は車のドアを開けて乗り込み、「東京で逃げ切れるとでも?修理が終わったら連絡するよ。」
エンジンを掛けながら、「じゃあな。」
佐藤司はドアの傷を一瞥し、何かを考えるように窓を閉め、車列が流れに合流した。
一日はあっという間に過ぎていく。
気づけばもう夕方だった。
生徒たちが夜の自習に入るころ、佐藤有咲は台所で奈奈と自分の夕食を準備しようとしていたが、お姉ちゃんから電話がかかってきた。
「有咲……」受話器越しに、押し殺した泣き声と深い疲れがにじんでいた。
「もうどうしたらいいかわからなくて……今朝、ベビーカーで……車をこすっちゃって……」
佐藤有咲は胸が痛んだ。
「落ち着いて、まずは話して。みんな無事?陽は?」
「怪我はないよ。陽はびっくりしたけど、今はもう大丈夫……でも、あれはメルセデス・マイバッハなの。有咲、あんな車の修理代ってどれくらいかかるの?私の全財産と家計の貯金を合わせても、とても足りないと思う……」
桐子の声は涙で詰まっていた。
「達也にも相談したけど、ものすごく怒鳴られて、私のせいだから一円も出さないって……」
「お金のことは心配しないで!」
有咲はきっぱりと言った。
「怪我がなくてよかった。いくらかかっても、まずは私が何とかするから。家で待ってて、すぐ行く!」
佐藤有咲が駆けつけると、桐子の目は赤く腫れていた。
陽はすでに眠っていたが、眉間にしわを寄せている。
有咲はお姉ちゃんをしっかり抱きしめ、繰り返し聞かされる朝の出来事や夫の罵声に何度も「大丈夫、私がいるから、いくらでも大丈夫だよ」と優しく励まし続けた。
夜も更けて、有咲は疲れた体で家に戻った。
リビングの明かりはついていて、佐藤司がソファで書類を広げていた。
ドアの音に気づいて顔を上げ、佐藤有咲の疲れた様子に目を止めた。
「こんな時間に?」
佐藤有咲はドアを閉め、少しかすれた声で答えた。
「お姉ちゃんがちょっとトラブルに巻き込まれて……」
佐藤司は書類を置いた。
「何があった?」
「今朝、陽を連れて出かけたとき、うっかり車をこすってしまって。メルセデス・マイバッハだったの。修理代もかなり高くなりそうで、お姉ちゃんは専業主婦だから貯金も少なくて、すごく悩んでる。」
メルセデス・マイバッハ?こすった?
佐藤司の目に一瞬、納得したような色がよぎった。高橋の車か……
事故を起こしたのは妻のお姉ちゃんだったのか?
顔には出さず、何気なく聞いた。
「そうなの?ひどく傷ついたのか?相手はどれくらい請求してきそうなんだ?」
佐藤有咲は首を振り、玄関の棚にもたれかかった。
「まだよくわからない。車の持ち主が連絡先を残して、修理が終わったら連絡するって。メルセデス・マイバッハだから、安くは済まないよね……」と、不安げに答えた。