佐藤司はそれ以上何も言わなかった。午前中に高橋の車に傷をつけたのが、本当に有咲のお姉ちゃんだったとは。
「もう遅いし、先に部屋で休むね。」
有咲の声には、お姉ちゃんを慰めた後の疲れと、かすかな不安が滲んでいた。
司が返事をする前に、有咲はすでに自分の部屋へと入っていった。
閉まったドアを見つめながら、司は何か言おうとしたが、結局何も口にしなかった。
ベランダの花は、彼女が明日の朝きっと片付けるだろう。
けれど、胸の奥に残る妙な感覚は消えなかった——まるで良いことをしたのに誰にも知られず、つい彼女の反応を期待してしまうような気持ち。
ドアがもう一度開いて、有咲が顔を出す
「洗濯機って、買ったの?いくらだった?」
「二台で、数十万円くらい。」
司は簡潔に答える。
有咲はお姉ちゃんの家の洗濯機の値段と頭の中で比べて、納得したように頷いた。「分かった。」と言って、またドアを閉めようとする。
「有咲。」
彼が呼び止めた。
有咲は動きを止めて、司を見る。
「お姉ちゃんさんのことだけど、」司の口調は変わらず淡々としていたが、言葉には重みがあった。「もしお金が足りなければ、俺に言ってくれていい。少しなら貸せるから。」
有咲は一瞬驚いたような表情を浮かべ、すぐに感謝の気持ちが目に宿った。
「ありがとう。修理代が分かったら、みんなでお金を出し合ってみる。足りなかったら、そのとき改めてお願いするね。」
新婚とはいえ、まだお互いによく知らない関係。こんなときに手を差し伸べてくれる司の気持ち、有咲はしっかりと胸に刻んだ。
「うん、あまり気にしないで。早く休んでね。」
「おやすみなさい。」
有咲は小さく微笑んで、ドアを閉めた。
司はリビングでしばらくぼんやり座った後、自分の部屋へ戻った。扉を閉めると、すぐにスマートフォンを取り出し、高橋明に電話をかけた。
「明、まだ起きてるか?」
電話の向こうから、高橋明の陽気な声が返ってきた。
「こんな時間に寝るわけないだろ?俺なんて二時三時にならないと寝ないよ。どうした、飲みたくなったか?うちに来いよ、しまってあるいい酒を開けてやるから。」
「今日、午前中に君の車を傷つけた件だけど、修理代いくらかかった?」
司は遠回しにせず、単刀直入に切り出した。当時は車から降りて確認しなかったので、損傷の程度を分かっていなかった。
「たいしたことないよ。塗装がちょっと剥がれただけで、数十万円くらいかな。」
高橋は気にしていない様子だ。
「保険は使わなかったのか?」
「この程度で面倒くさいし、使わなかったよ。急にどうした?」
司は二秒ほど沈黙し、それから話し始めた。
「今日、君の車を傷つけた女性は、うちの祖母の命の恩人のお姉ちゃんなんだ。お姉ちゃん妹で支え合って生きている。今は専業主婦で収入もなくて、今回のことで相当気にしているみたいだ。賠償できるか不安で。」
「……そんな偶然があるのか?君のおばあさんの恩人のお姉ちゃん?どうして分かったんだ?」
「祖母がその恩人のことをとても気に入っていて、よく話し相手になってるんだ。今日、落ち込んでる様子だったから聞いてみたら、打ち明けてくれた。」司は淡々と嘘を織り交ぜて答えた。
「そうか、やっぱり桐子って名字だったな。芦田桐子さんって人だ。」
「そう。」
高橋は納得したように、「それなら、そのくらいの金は気にしないさ。でもさ、」と話のトーンを変えた。
「一応被害者だから、何もなかったことにしたら、本当に反省しないかもしれないだろ?次はもっと大きな事故になるかもしれないし、子どもを連れているんだから、注意してもらわないと困る。」
高橋明。
高橋家の四男、三十五歳。家業は継いでいないが、自力で高橋グループを立ち上げ、多くの事業を手がけている。
昔はやんちゃな時期もあり、顔に残る傷跡はその名残。本人はむしろ威厳が出ると気にしていない。
「まあ、少しは痛い思いをしてもらった方がいいな。大金じゃなければ、きちんと払ってもらうのがいいと思うよ。もし修理代が高額だったら、君の顔を立てて少し割引しようかと思ってた。」
数十万円程度なら、彼らにとっては大した額ではない。桐子にしても、収入がなくても数万円ならなんとかなるだろう。
「大した金額じゃないし、数万円で手を打とう。収入のない主婦にとっては痛い額だろうけど、それくらいしないと今後気をつけないからな。」
「分かった。ありがとう、明。」
「こんなことで礼はいいよ。」
高橋は笑いながら言った。
「それにしても、君のおばあさん、本当にあの恩人のことが好きなんだな。命を助けてもらったとはいえ、お礼を渡せば済む話なのに、今も交流があるし、お姉ちゃんのことで君にまで頼んでくるなんて。」
司は淡々とした口調で、「まあ、祖母なりに俺たち孫が不孝だって言いたいだけさ。なかなか一緒に過ごす時間も取れないし。」
電話の向こうで、一瞬だけ沈黙が流れた。
高橋の声が少し低くなる。
「どこも同じだよ。俺の祖母も生きてた頃は毎日結婚しろってうるさくて、兄弟みんな家に帰りたがらなかった。でも、本当にいなくなってから……」
言葉は続かずとも、寂しさが伝わる。
「今思えば、あの催促すらありがたかったよ。」
少し間をおいて、自嘲気味に続ける
。「うちなんて今じゃ俺だけが独り身だよ。甥っ子にまで『いつお嫁さん連れてくるの?』って聞かれてる。」
「三十五歳、もう四捨五入したら四十だぞ。」司は珍しく冗談めかして言う。「そろそろ本気で考えないと、子供ができた頃にはもう孫を抱く歳だって思われるぞ。」
実際のところ、祖母に急かされなければ、司もすぐに結婚するつもりはなかった。三十五になってから考えればいいと思っていた。
たとえ今結婚しても、佐藤有咲とこの先ずっと一緒にいるかはまだ分からない。
祖母に言ったとおり、しばらくは様子を見て、この妻が一生を共にするに値するか見極めるつもりだ。
高橋は電話の向こうで豪快に笑った。
「ちょうどいいじゃないか!息子を孫のように育てれば手間も省けるしな!」
司は苦笑いしかできなかった。