ミーン、ミンミンミン……。
暑い。暑い暑い暑い……。
七月に入り、前期試験に向けて各々の学生は作品制作や試験勉強にいそしんでいる一方、夏休みに何をするか頭を悩ませていた。しかし、わたしにとって素夏休みの予定など頭には無い。というよりも、せっかく立てた夏休みの予定が頭から一瞬で吹っ飛んでしまう出来事が起きてしまったのだ。いま、わたしはそのことで頭がいっぱいだ。
「なんなのよ、もう……」
ひとりで呟きながら構内を歩く。
次は日本美術史の講義だったが出席する気にはなれなかった。思いあぐねた末、友だちにノート・テイクをお願いし、人に会いたくなかったので、ひとまず人目に付かないところを探してさまよう。
学生食堂を通り抜け、コンピュータールームを通り過ぎ、階段を昇った。自然と最上階のエントランスに来ていた。この階は利用に不便だからと、あまり授業にも使われないため、人の影はほとんどなかった。
わたしは近くにあったイスに腰掛けた。窓が開いているのだろう、爽やかな風が入り込んできた。しかし、わたしの心は晴れない。
「どういうこと――?」
自分に問いかけても答えが返ってこないことなど分かりつつ問いかけた。
案の定、答えは出てこなかった。それもそのはず、事態はわたしを巻き込みながらも、わたしの外で起こっていることなのだから。わたしには、どうすることもできない。
「このままじゃ、わたし」
ことばが続かない。大学入学したてのわたしにとって、これからどんなことが起きるのか分からず、ただただ恐怖だけが湧き起こってきていた。
その時だった。風に吹かれ、一枚のポスターが足元に落ちてきた。
拾い上げる。
『芸犯! 芸術犯罪解決サークルではいつでもお悩みを解決いたします。
また、部員も募集いたしますので、みなさんどしどしお越しください!』
*
「——―ここか……」
わたしはB5版のチラシを持ち、そこに書かれている部室に足を運んだ。
部室は美術教材室や教授室が入る棟の二階の奥にあり、一見して部室があるようには見えない。廊下は薄暗く、じめじめしている印象だ。しかし、ドアには『芸犯サークル』と、でかでかと看板が掲げられていた。ここで間違いはないようだ。
わたしは勇気を出してノックした。
「はい。どうぞ」
男性の声がする。
「失礼しまーす……」
わたしは、おそるおそるドアを開けた。
そこには男性が一人立っていた。が、でかい。何よりも先に目がいったのは、その男性の身長だった。
「お客さんだ! 久々だね。しかも女の子! やった、やった、やったー!」
出迎えた男性は薬缶のように沸騰して室内を駆け回る。
「かわいいね。名前なんて言うの? って、そうだった、相談者かな? 部員希望かな?」
男性はせわしなく訊いてくる。
「おい、拓哉。うるさいぞ。もう少し静かにしてくれ」
よく見ると奥にある来客用のソファにも、もう一人男性がいた。その男性は何か本のようなものを読んでいる。
拓哉……と呼ばれた薬缶のように急に沸騰する男性は、室内を駆け回る速度を落とし、本を読んでいる男性に近づいた。
「まーどっかくーん。そんなこと言ったって、本当は喜んでるんじゃないの? あ、ささ、こっちにきて座って。いまお茶入れるから」
わたしは促されるまま来客用ソファに座った。すでに座っている〈まどか〉という男性は本を手にしたまま、こちらを見ようとはしない。しかし、でかい。この人物も相当な高身長だ。テーブルとソファの間に窮屈に足を収めている。
だが、イケメンだ。整った顎のラインと鼻の通り具合が美しい。
周囲を見回した。教室の三面を書架が覆っている。ほとんどが美術書であろうか。天井から床までを占領していた。中央には来客用のソファが一セットある。少し埃臭いが、特におかしなところはない。
拓哉と呼ばれた男性がお茶を運んできた。よく見ると、拓哉は、なんというか童顔で、母性本能をくすぐる笑顔を見せた。イケメンの部類に入るだろう。
素敵な男性が二人。わたしは急に顔が火照るのを感じた。もう、悩みなどどこかに吹き飛びそうである。
お茶を淹れた拓哉がまどかの隣に座った。
「あ、話を進める前に自己紹介しといたほうがいいな。おれ石井(いしい)拓(たく)哉(や)、芸術心理学科の四年生。彼女募集中。身長一八五㎝の七〇㎏、好きな食べ物はチーズケーキです」
そういうと拓哉先輩は勢いよく頭を下げた。
「なんか、いらない情報が入っていたが?」
まどかのことばを無視して拓哉は続ける。
「こいつは環円(たまきまどか)。芸術心理学科の四年生で、おれと同じく彼女募集中。身長一九二㎝、体重八〇㎏。好きな食べ物はパウンドケーキ」
円先輩がキッと拓哉先輩を睨みつけたが、先輩はそんなものはなかったのようにスルーした。
わたしは少し笑ってから自己紹介をした。
「わたしは大地(だいち)字(じ)ミホといいます。歳は一八です。絵画学科の油絵専攻に所属の一年生です。えっと……彼氏は募集中です。身長は一五六㎝、体重はシークレット、好きな食べ物はヨーグルトです。よろしくお願いします」
わたしの紹介を聞いている間、円先輩がじっとこちらを見つめていた。
「どうしたん? 円。そんなにミホちゃんのこと気にいったん?」
「いや。なんでもない」
そういうと力を抜いたように、ソファに背を預けた。
「ところで、今回来たということは、何か事件があったんでしょ?」
拓也が急かすように訊いてくる。
わたしはギュッと手を握り、「ええ」と答えた。そして何があったのかを話した。
わたし、絵画制作Ⅰの課題に取り組んでいたんです。課題は、『静物を描くこと』です。なので、わたしはレモンとリンゴとアボカドを置いて描いたんです。家で下絵を描いた後に、学校の美術演習室で色彩をしていたんです。そして今日の朝に出来上がった作品を先生に持っていったんです。そしたら「これと同じ作品がもう提出されています」って言われたんです。わたし何が何だか分からなくて、先生に食い下がったら、その絵を見せてくれて。そしたら、本当に同じ絵だったんです。レモンとリンゴとアボカドで……。配置や色の具合なんかもそっくりで。なんで同じ絵があるのか分からず混乱していると、先生が「あなた、この絵を描き写しましたね」って言ったんです。「わたし、そんなことしていません」って言ったんですが信じてもらえなくて――。わたしが描いた絵は受け取ってもらえませんでした。
わたしの目からは、涙がこぼれていた。悲しい涙ではない、悔し涙である。
「わたし、悔しいんです。わたしは誰の絵も真似てない。なのに……なのに……。絵を真似されたのはわたしなのに。なんでこんなに悔しい思いをしなくちゃならないの?」
涙声のわたしの話を二人は静かに聴いてくれた。
しばらくして落ち着きを取り戻してきたわたしに、円先輩が語りかけてきた。
腫れぼったく赤くなった目を、その目は鋭く捉える。
「はじめに、君の絵を見せてもらいたい。いいか?」
「? はい」
わたしの絵は美術演習室の奥、イーゼルの脇に、他の絵と一緒に立てかけてあった。
「いつもここにあるのか?」
円先輩は左手を顎に当て、考えるそぶりを見せながらわたしに問いかけた。
「ええ。油絵なので乾かすのに時間がかかるので。本当は窓の脇とか広いところを使いたかったんですが、授業や他の人も使うので、諦めてここに」
周囲で絵を描いている人たちは皆、突然入ってきた巨人二人に注目していた。
「お、これかな?レモンにリンゴにアボカドの絵。ミホちゃんの絵は」
拓哉先輩が一枚の絵を取り出して、近くにあったイーゼルに立てかけた。
その三号のSサイズ、正方形のキャンバスには、赤いリンゴを中心に黄色いレモンと緑黒のアボカドが並べられている。いたって変哲もない絵のように感じられる。
拓哉がいろんな角度から見ようとするのに対し、円はその場から動かず、一点だけを見ていた。ただ一点だけを。何かに取りつかれたかのように。
しばらくミホの絵を見ていた円は、息を取り戻したかのように大きく深呼吸すると二人に向き直った。
「さぁ、これから捜査のはじまりだ」
*
はじめに、三人はある部屋を訪れた。
「種田先生、失礼します」
種田と呼ばれた教授は三人を快く向かいいれた。見た感じ四十代のこの教授は芸犯の顧問をしており、芸術心理学科で心理学を教えているらしい。そして、心理学の調査と謳っては芸犯の犯罪調査に協力しているのだという。
「そうですか。それは大変ですねぇ。どうにかしないと」
ずいぶんおっとりとしている。大丈夫だろうか。
「先生に今回お願いしたいのは、絵画制作Ⅰの担当吉野さくら先生から問題の作品を借り出してきてもらいたいのです」
吉野さくら准教授はわたしのクラスの絵画制作Ⅰの授業を受けもっている先生である。前衛的な作風を好む一方で、性格は短気でヒステリックな面もあり、彼女のゼミに入る人のことを皆『勇者』と讃えている。
種田は二つ返事で「いいですよ」と了承した。
そんなうまくいくものか、とミホが思っていると、
「芸術心理学はその名の通り、《芸術》における《心理》を追求する学問です。芸術は完成したものだけではありません。その制作過程や材料選びからして、すでに心理という制約を受けて芸術は完成するのです。今回は、そうですね、『絵画制作初心者における静物画の対象物選択と描き方』とでも題しましょうか」
種田はすらすらと説明すると、今後の方針も決めてしまった。これまでも何度かしてきたことなのだろう。
「よろしくお願いします」
円は種田にそう伝えると、二人を連れて部屋を出た。
「不審な人?」
美術演習室に戻ると、今度は聞き込みを始めた。拓哉先輩は別のところで聞き込みをしている。円先輩曰く、彼は無駄に顔が広いのだそうだ。聞き込みは得意分野らしい。
「ごめんなさい、分からないわ」
そういうと、女性は足早に去っていった。
これで九人目だった。
「なかなか情報ってないものですね」
わたしが弱気になっていると、「そんなものだ」と、円は返事をした。
円先輩の推理では、わたしが絵を描く月・水・金曜日におそらく犯人は犯行を行っているのだという。なぜなのかと訊くと、
「少しは考えろ」
と言われてしまった。
う~む……。考えても浮かばない。なぜ同じ日の犯行なのか。描き写すなら別の日でもいいのではないか。絵は逃げたりしないのだから。
「あれ? ミホ、何してんの?」
青い半袖Tシャツにジーパンを履いた女性が話しかけてきた。友人の奥由里である。
由里はミホを見た後、教室のドアを軽く超える背丈の円先輩に目をやり、一歩後ずさった。
「あ、ごめん。また後で」
離れようとする友人をどうにか呼び止め、ミホはここ最近不審な人物が出入りしていなかったかを訊いた。
「う~ん、まぁ、そうだねぇ、あれかな?」
由里の話だと、ときどき美術演習室に一人で絵を描いている人物がいるという。特徴的な点は、その人物は静物などの物を見て描いているのではなく、キャンバスをみて描いていたというのである。
ミホは直観的に、自分の絵が描き写されたのだと確信した。
友人はミホに、日本美術史のノートのコピーを渡し、去っていった。
(しかし、円先輩の言う通り、なんでわたしが描いた後に描き写しているの?)
わたしは勇気をもって、隣にそびえ立つ先輩に訊いてみることにした。
「あの、先輩、なんで犯人が、わたしが絵を描いてすぐに描き写したと分かるんですか?」
円先輩はわたしを見下ろしながら答えた。
「おまえ、絵を描くとき自分の絵を探すだろ。そのとき偽物があると気づいたか?」
「……いいえ」
「この手の犯罪で犯人が最も恐れるのは、描き写している途中で犯行がばれることだ。つまり、見つからないようにしなければならない。そうなると、まず、同じ時間帯には書くことはできない。それから、次の日に描くと、絵具が乾いていないから絵を動かすことができず見つかる可能性が高い。そうなると、必然的に同じ日の別の時間帯、それも人の少ない時間を見計らって行うことになる。そう考えれば合致する点がいくつもある」
円先輩の聡明な推理の断片を聴きながら、わたしは先輩の横顔を見つめていた。
(この先輩、何者!)
わたしは、円先輩を偉大なる神にちなみ《ポセイドン円》と命名した。
遠くから「おーい」と拓哉先輩が叫びながら走ってきた。どうやら聞き込みで有力情報があったようだ。
拓哉先輩の聞き込み内容によると、由里と同じ証言がいくつかあったという。目撃者は、みな午後七時頃に目撃している。その頃に美術演習室を使用する者はほとんどいないため、印象に残ったのだという。また、その時間に美術演習室から出てくる人物を目撃した人もいたようだ。髪は短く黒の上下、黒っぽいリュックとキャンバスバックを持っていた。男性か女性かは不明という。
部室に戻り犯人の特徴をA4用紙に書きとめた。しかし、ほとんど「黒」という情報しか得られなかったため、あまり役立ちそうにはなかった。
わたしは頭の中でいろいろと考えを巡らせていた。
犯行時間の理由については、先ほど円先輩が解き明かしてくれた。しかし―—。
(そもそも、なぜ、この犯人はわたしの絵を描き写したの?)
悩んでいるわたしに拓哉先輩がお茶を淹れ直してくれた。
「あれ? さっきとお茶の種類変えました?」
拓哉先輩がにこやかに振り向く。
「お!分かるね、ミホちゃん。そう、さっきは煎茶で、いまのは番茶。円は全く分からないのに。飲みなれている人は分かるんだね、やっぱり」
拓哉先輩がケラケラ笑いながら円先輩を見ると、円先輩はバツが悪そうにそっぽを向いた。
「煎茶と番茶か……」
そうつぶやくと、円は正面に向き直った。お茶の横には、拓哉先輩が出したお茶菓子の大福があった。
三人はそれから少し、お茶を飲みながら話をした。
わたしは疑問に思ったことを訊いてみた。
「そういえば、《芸犯》にほかの部員さんはいないんですか?」
「今はおれと円の二人だけ。こいつが冷たくあしらっちゃうからみんないなくなっちゃうんだよね」
そういいながら拓哉先輩は円先輩を肘でつつく。
「別に冷たくしていない。だいたい部活中に変なことをしてくる方が悪い」
(へ、変なことってなんだ?)
わたしは興味が湧いた。が、あまり詮索しないでおこうと思った。今回の事件でかかわっただけの他人様の敷地を荒らすようなまねはしたくない。しかし……。
「いい~よな~、モテる人は。ミホちゃん聞いて。これまでに入部した人はね、み~んな、円目当てだったんだよ(笑)」
「そんなわけないだろ。だいたい調査とかいってデートに連れ出すのは許せなかっただけだ」
円先輩はそういうとお茶をすすった。
ミホは改めて二人を見た。
円先輩はベージュのパンツに紺のYシャツを腕まくりしている。何かスポーツでもしていたのか、体が鍛えられているのが見て取れる。短髪に端正な顔立ちだからだろう、先ほどの話もうなずける。
拓哉先輩はジーパンにミッキーマウスのTシャツを着ている。円先輩に比べれば線は細いが、それでも無駄な肉はついていないのが感じられる。アイドルを真似したような髪型に童顔があいまって、本当のアイドルのような雰囲気を出している。
二人は仲がいいだけでなく、何か絆のようなものでつながっているようにミホには感じられた。
コンコンコン……。
ドアがノックされ種田教授が入ってきた。
「円くん、準備できたよ~」
「わかりました」
円先輩はポセイドンのように立ち上がった。
美術演習室のイーゼルには、レモンとリンゴとアボカドが描かれたキャンバスが立てかけられていた。
ミホにははじめ自分の絵かと思った。
が、何かが違う。―—何かが。
「これが、吉野さくら先生から預かった絵ですよ~」
種田教授が独特の伸びが入った口調で説明した。
種田教授は三人が絵を見ているのを、教室の隅から見ているだけだった。
円先輩は、また遠くから絵を見た後、近くによって絵を確認した。そして、
「よし」
と言って種田教授の下へと離れていった。
(何か分かったのだろうか……)
わたしも何か犯人の手掛かりを探そうと四苦八苦したが、徒労に終わった。
見ると拓哉先輩も同じようだった。
見ると、教室の隅にいた教授と円先輩がいなくなっていた。二人はどこへ?
二人は五分ほどして戻ってきた。
「あの、どこへ行っていたんですか?」
ポセイドン円先輩はゆっくりと私を見た。
「これから、今回の事件を解決しよう」
先輩の顔は素晴らしく晴れやかだった。
*
美術演習室にはわたし、拓哉先輩、種田教授、それから吉野さくら準教授、そして教室の中心に円先輩と本物の私の絵、そして問題の絵を立てかけたイーゼルが置かれた。
吉野准教授は、これから何が起こるのか分からないためだろう、爪を噛みイライラしている様子だった。しかし、種田教授の手前、ヒステリックになりそうな自分をこらえているようにも見える。
六時を知らせるメロディが構内に流れた。
「さて、時間になったのではじめましょう。今回の偽物騒動の真相を」
円先輩の声は、今までの会話のなかのよりも楽しげに聞こえた。
「今回の事件は偽物が本物として吉野先生に提出されたことから問題とされました。しかし、では疑問が残ります。偽物を作った犯人は、どうやって制作途中の本物よりも先に絵を完成させて、提出することができたのでしょう」
そういえばそうだ、とミホは思った。私の絵は今日の朝まで未完成だったのだ。それをどうやってコピーして偽物は完成したのだろう。
拓哉先輩も分からないようで、首をかしげている。
円先輩は続ける。
「答えは簡単です。本物よりも早く完成すればいいだけの話です」
「ちょっとまって」
黙っていた吉野先生が声を上げた。
「油絵具は乾くのに二から五日はかかるわ。それなのに本物よりも早く乾かすことは難しいでしょう。大地字さんの絵よりも絵を本物とすると、乾燥時間に矛盾が生まれるわ。これをどう説明するの?」
吉野先生がまくし立てた。しかし円先輩は笑顔である。
円は頷く。
「確かにそうです。もし急速に乾かそうとするならば、油絵具の表面にひび割れができてしまう恐れもあります。しかし、犯人にとって、そんなことは関係なかったのです」
周囲が「?」と困惑していると、
「では、吉野先生、ここにある二枚の絵の最大の違いに、お気づきになりませんか?」
円先輩がうながしてきた。
「? どちらもほぼ同じ絵のようだけど」
「もっと近づいて、よく見てください」
吉野先生が一歩一歩近づく。絵まであと五歩というところだろうか、吉野先生が短く息を吸い、偽物の絵に飛びついたのは。
「こ、これって!」
わたしと拓哉先輩は何が起こったのか分からなかったが、種田教授は変わらずおっとりとした表情のままだった。
「そう、実は偽物の絵に使われている顔料は油絵具ではありません。アクリル絵の具です」
「え?アクリル?」
わたしは反射的に繰り返してしまった。アクリル絵の具は安価で油絵具よりも手に入りやすいが。
「え、でも油の臭いもするし、絵具の光沢も・・・」
「おそらく灯油などの揮発性の高い油をアクリル絵の具に混ぜて、絵具の光沢や油絵具に混ぜるテレビン油と似た臭いを出したのでしょう。
しかし、そうまでして今回犯人がアクリル絵の具を使用した最大の理由は、その乾きやすさです」
円先輩は歩き出した。
「通常、油絵具が固まるのは二日から五日ほどかかり、その間は絵画の移動などはほとんどできません。しかし、アクリル絵の具は数時間時間ほどで表面を乾かすことができます。小形の扇風機などで風を送ればもっと早いでしょう。犯人にとって、このアクリル絵の具の特性は、今回の犯行に絶対必要だったのです」
そういうと、円先輩はわたしに向き直った。
「ミホさんは、今日この美術演習室を調べに来たとき『自分と同じ構図の絵なんて見てない』といいました。ということは、犯人はこの美術演習室以外のところで絵を保管する必要があったのです。それはミホさんや他の人に気づかれないようにするためと考えられます」
円先輩は拓哉先輩に向き直る。
「拓哉が聞き込みを行ったところ、美術演習室から出入りした怪しい人は、キャンパスバックをもっていたという。おそらく、そのバックに描きかけの絵をいれて持ち歩いていたのだろう」
拓哉先輩は自分の情報が活かされて嬉しそうだ。
円はちらっとドアを見た。
「しかし、犯人にとって今回の犯行のネックは時間短縮でした。そのため〈絵を描く〉という画家としての本分が、この絵からは失われています。種田先生、この作品をどう評価しますか?」
種田は作品の前に立つと、ふう、と一息ついた。
「確かに油絵具に似せたアクリル絵の具だと思うよ。線に特徴が出ているね。アクリル絵の具はどんなに丁寧に手入れをしても筆が固まってしまう特徴があるからね。輪郭線がかすれてしまって、それを補おうと必死に線を描いた跡がある。ところで、吉野君は、この絵をどう見るかな」
吉野先生はいきなり当てられて驚いたようだ。足をもつれさせて転びそうになる。ヒステリックないつもの様子はなくなっている。よほど絵具を見抜けなかったのがショックだったのだろう。
「わたし的には、色の遠近法にムラがあると感じます。例えばリンゴの影がレモンに映っているのはいいですが、アボカドには映っていません。いくら緑黒色だとしても影は映るのですから、描くべきだと思います」
円先輩が前に出る。
「最後にわたしから決定的な違いを。それは――」
ガラッとドアが開き、人が入ってきた。
上下黒の服装のその人はその場に崩れ、泣きだした。
「来てくれましたね」
円先輩はその人物を見下ろした。
「和田(わだ)飛鳥(あすか)さん」
「はじめは、ほんの出来心だったんです。――」
泣きやんだ彼女を全員が取り囲む。
「わたし、四年生にもなって絵画制作Ⅰの単位が取れなくて、必修のこの単位が取れずに、卒業できないと思うと怖くて。でも、いまの実力だと今年もダメだと思ってしまって。そんな鬱々としたある日に、イーゼルの横に立てかけてあった素敵な絵を見たんです。リンゴとレモンとアボカドで。なんにも変哲もない果物が三つ置かれているだけなのに、なんだか静けさと、甘さと、フレッシュさ。久々に絵に感動したときでした。で、ちょっとだけ借りようと思ってしまって。
最初は真似てデッサン力を挙げようと思ったんです。わたし、デッサンとか苦手だから。でも、この絵を真似ているとき、すごく楽しかったんです。変哲もない三つの果物なのに。
課題提出の日が近づいて、わたしどうしようもない恐怖心に駆られたんです。デッサン力が上がったかもしれないけど、わたしには、もう他に何も描くことができなくなっていて……。そのとき、このまま本物として出してしまおうって思ったんです。わたしは急ぎました。油絵具では到底間に合わないし、気づかれてしまうと思いつつアクリルに灯油を少し混ぜました。実際のリンゴとかは見てませんが、本物の絵とイメージでそこは乗り切りました。教授の部屋は絵画の保管のために薄暗いし、狭いから簡単にはばれないとも思ったんです・・・」
彼女の話を聞き、周囲は溜息をついた。その中でミホは彼女にある感情を抱いていた。
吉野先生が語りかける。
「和田さん。人の作品を真似るのはいけません。下手をしたら著作権法違反で大地字さんに訴えられてしまいますよ。今回、あなたが提出した作品は評価の対象とはしません。よろしいですね」
和田の顔が青くなり、項垂れた。おそらく人は人生を諦めたときもこのような顔をするのであろう。
わたしは声を張った。
「待ってください」
和田先輩が顔を上げる。
「和田先輩。今回あなたのしたことはいけないことだと思います。でも、わたしは嬉しいです。わたしの描いた絵を『すてき』って言ってくれたり、一生懸命描き写してくれたり・・・。有名な歴史的な画家になった気分です。そんな感情を持っているあなたは、とっても純粋な人なんだと思います。だから――」
わたしは吉田先生を向いた。
「先生、わたし、この人と課題作品を描きます。いいですよね?」
吉田先生は目を大きく見開く。
「二人で描くのですか?」
「課題作成条件に『一人で描くこと』とはありませんでしたよね」
フフと笑った。
「課題提出期限まであと七日です。できそうですか?」
「はい」
「オリジナリティに溢れた作品を待ってます」
吉野先生は、いつになく穏やかな表情を見せていた。
わたしは和田先輩を見た。赤くはれた瞼が痛々しい。
「先輩、まだ制作時間はあります。頑張りましょう」
和田はもじもじと、
「い、いいんですか?」
「もちろんです」
「よ、よろしくお願いします!」
二人のチャレンジが始まった。
*
わたしは部屋の前に立ち、ノックした。
「はい」
中から男性の声がした。
「失礼します」
わたしはドアを開け、部室に入った。
部室には拓哉先輩と円先輩がいた。円先輩は、またイスで本を読んでいる。
「おー、ミホちゃん! どうしたの?おれに会いにきたの?」
拓哉先輩は相変わらずのようである。
「う~ん、半分当たりです。これを渡しに来ました」
わたしは持っていた紙箱を拓哉先輩に渡した。
「えええ、え? なに? これ、開けていいの?」
「どうぞ」
「わ――!」
子どものようにはしゃぐ拓哉先輩は面白い。
拓哉先輩は応接セットに座る。円先輩が腰を起こした。
箱を開けると、チーズケーキとパウンドケーキが入っていた。
二人は目を見開いてる。ことばが出ない。
「あの、一応手作りです」
「え⁉お前作れるのか」
どうやら作れないと勝手に思われていたらしい。ポセイドン円め!
「でも、どうして?」
「今回すごくお世話になったので。それに自己紹介の時に言ってましたよね。チーズケーキとパウンドケーキが好きって」
二人は何かを確かめながらチーズケーキとパウンドケーキを口に運んだ。
二人の顔が驚きに変わった。
「う、うまい!」
「でしょう。料理の腕はそのへんのコックにも負けないんです」
「すごいよ、ミホちゃん!」
「ありがとうございます」
拓哉先輩は円先輩にも促す。
「な、うまいんだろ。正直に言いなぁ」
円先輩は渋々という感じで、しかし正直に、
「うまい」
と言ってくれた。
わたしがほっとしていると、拓哉先輩が思い出したように言った。
「そういえば、ミホちゃん。例の課題制作はどうなったの?」
わたしは二人の前に腰を下ろした。
「ええ、昨日絵具が乾いて、今日提出しました。和田先輩すごく喜んで、また泣いてました」
わたしは笑いながら報告した。
しかし、取り組んだ時は笑える状況ではなかった。まず提出期限日から毎日にどの工程を取り組んでいくかを決めた。もちろん画材は油絵具を使うのでその時間も勘案しなければならない。あくまで時間にはストイックに取り組んだ。しかし、それでも題材の決定などは和田先輩に行わせた。題材の決定には彼女のセンスが活きるからだ。でないと人の目を引きつけるいい作品にはならない。
「頑張ったねぇ、ミホちゃん」
感心したように、拓哉先輩が労った。
「そんなことありませんよ」
わたしは首を振りながらも、しかしその賛辞をいただいた。
「そういえばさぁ、円~。推理のとき、なんで和田さんは美術実習室に来たのさぁ?」
拓哉先輩がポセイドン円に質問する。
「ああ。種田先生に協力してもらって、学生部に連絡を入れてもらったんだ。絵のサインから『〈ワダアスカ〉という生徒の学生証を拾ったので、美術演習室に取りに来てください』ってね。見事にひっかかってくれたけど」
そう話しながらも、円先輩はパウンドケーキをすべてたいらげてしまったようだ。残っているチーズケーキに手を付けようとして、拓哉先輩と取り合いになる。
わたしは時間を確認した。
「わたし予定があるので、これで失礼します」
「え!もう、行っちゃうの……」
拓哉先輩は残念そうである。
「すみません。新しい友達と出かける約束をしているので」
円先輩はそれだけを聴き、微かに笑った。
「早く行ってやれ。遅れるな」
「はい!」
わたしは礼をして、ドアを閉めた。
「そういえば、円。お前なんで本物の絵と偽物の絵を一発で見抜いたん?」
円はゆっくり立ち上がると窓辺に立った。彼が立つと天井が近く、窓も低く感じられる。
「雰囲気だ」
「は?」
円は窓の外を見下ろした。多くの学生が行きかっている。その中に見覚えのある服装の女性が、上下黒の女性と歩いていく。
「どんな歴史ある画家の作品も、細かい技法はどうあれ、最終的な評価は人を引きつける、絵全体から発せられる雰囲気で決まる。彼女の絵からは、生き生きとした雰囲気がこれでもかというぐらい溢れていた。おれは、その点で決めた」
「そんなもんか?」
「そんなもんだ」
「ふーん、そうか。あーでも、またミホちゃん来てくれないかなぁ。可愛かったし、お菓子おいしかったし……」
拓哉はテーブルに突っ伏している。
そんな拓哉をよそに、円は遠ざかるミホの後ろ姿をずっと見送っていた。
了