石彫工芸実習 ~ユートピア~
いままつ
「かわい~」
「かわい~」
学生食堂で年甲斐もなく甘い声を出してしまった。それもしかたない、わたしが今見ているのは、もふもふの、真っ白の子猫の写真なのだ。
写真を持ってきて、わたしと一緒に「かわい~」と言っているのは風間カンナ。わたしの高校時代の同級生で、彫刻科で学んでいる。大の猫好きで、家では五匹もの猫と暮らしている。
一度カンナの家に遊びに行ったときがあるが、猫にとって来客は珍しいもののようで、足にまとわりつくもの、高台に逃げるもの様々で、猫にもいろいろいるのだと学ばされたことを覚えている。
彼女の家には自作の猫の置物が無数にあり、生きている猫と静物の猫のオンパレードである。そのためか、大学での彼女の作品の多くも猫に関するものだという。
わたしの隣に座り、静かに猫の写真を見ているのは奥由里である。わたしの無二の親友で、彼女のストイックな生き方には、どこか憧れるところがある。
由里、というか由里の家族は犬が好きなようで、家ではゴールデンレトリバーを二匹も飼っている。あまりにも犬が大きいため、小柄な由里では二匹の犬を散歩させることができず、主にお父さんやお兄さんが担当しているのだという。
わたしはというと、小さい頃にハムスターを一匹飼ったことがあるぐらいで、いまはペットを何も飼っていない。そのため、彼女たちのペット自慢に付き合っては、ペットと暮らす妄想に浸るのである。
犬もいいし、猫もいいし、インコもいいし、金魚もいいし、――――。
由里がカンナに猫のアルバムを返した。アルバムをトートバックにしまう。
「で? カンナ、話って何? もしかして気になる人でもいるの?」
由里が、いかにも興味津々といったふうにカンナに質問した。
大抵、カンナからの呼び出しは自身の恋の悩みや、恋愛の噂話の真偽の調査の時ぐらいだ。それ以外は何となく集まり、なんとなくご飯を食べ、なんとなく解散する、というのが通例だった。
わたしも気になっていた。カンナからの呼び出しは珍しい。それも二人も呼び寄せるなんて。
カンナは目線をわたしたちに戻した。
「実はね、信じてもらえないかもしれないんだけど、―――――」
*
「ユウレイ⁉」
お茶を啜っていた二人は、危うく吹き出しそうになった。
ここは教授室棟の隅にある〈芸犯〉サークルの部室である。芸犯とは〈芸術犯罪解決サークル〉の略で、主に構内で起こる芸術に関する犯罪を解決する部活だそうで、現在二名の部員が活動している。
その二名が、今わたしの前でお茶菓子の羊羹について「そっちが大きい」と論争を繰り広げている人物たちだ。
「ええ。あくまで友達から聞いた話なんですが」
羊羹の争奪戦に決着が付いたようで、二人はソファに落ち着いて座り直す。
二人は身長一八五センチメートルの石井(いしい)拓哉(たくや)先輩と、一九二センチメートルの環円(たまきまどか)先輩で、パッと見東京タワーとスカイツリーのような関係のコンビである。しかし、この二人、特に円先輩は、二週間前にわたしが巻き込まれた絵の偽物騒動を推理し、見事解決してみせた切れ者である。
しかし、身長が関係しているのか、どこか人を見下しているような話し方をすることがある。わたしはかかわってそれほど時間が経っているわけではないが、彼に〈ポセイドン円〉というあだ名をつけている。
「彫刻科の友達によれば、ここ三日ほど、彫刻科の彫刻実習場に幽霊が出るとの噂が流れているそうなんです。実際に見た人はいないそうですが……」
「見た人がいないなら、なんで幽霊がいたってわかるんだ?」
円先輩が体を前のめりにして訊いてきた。どうやら興味が湧いてきたらしい。
「えーと、まず音ですね。一昨日の午後九時頃に実習場脇の道を通ろうとしたときに、「ず、ず、」という音が聞こえたそうなんです。でも、懐中電灯で照らしても誰もいなかったそうです」
「でも、彫刻実習場って、彫刻だらけだよね。隠れられそうだけど……」
拓哉先輩が答える。
「そんなことわかりません」
「それで、他には何か情報はないのか?」
円先輩は気にせず続ける。
「いえ、特には。あ、そういえば、動く彫刻があるそうです」
「動く彫刻?」
「ええ。まぁ、動くと言っても大きく動くわけではなく、その場で回転していたり、数センチ移動しているという程度ですね」
ふーん、と二人は考えている。
わたしは相談しながら思った。そもそもこの幽霊騒動は芸術犯罪なのだろうか。特に芸術作品に被害が出ているわけでもなければ、心霊という超常現象に太刀打ちしようという無謀な考えなのではないだろうか。
諦めて声を掛けようとする。
「あの―――」
円先輩が鋭い目でわたしを見た。反射的に固まる。
「その動く彫刻とは、誰の彫刻だ?」
わたしはリュックからメモ帳を取り出した。ページを開く。
「えーと、修士課程一年の園田令(そのだりょう)さんの彫刻だそうです。重さ百キロ程ある石柱です」
円先輩は頷いた。
「園田先輩はいいセンスを持った人だ。大学にいたときから意欲的に作品作りに取り組んでいた。調査しても、それほど気に掛ける人ではないだろう」
外は夕暮れになりかけている。円先輩は薄いジャンパーを羽織った。その姿は、まるで『踊る大捜査線』の青島刑事みたいで、どことなく目を引きつけた。
「この事件で何か困っているのか?」
突然訊かれ、わたしはキョトンとした。
「友達が幽霊話とかあると怖くて学校に来れないって言うんです。まぁ、わたし的にも彫刻実習場脇の道は帰りによく使っているので、こういう噂があるとちょっと怖くて通れないような……」
円先輩はそれだけ聞くと「分かった」と言い、
「捜査を始めよう」
と、力強く言った。
*
彫刻実習場は、大学C棟の屋外にあり、広々とした開けた土地だった。実習場には、いくつもの石の塊、加工中の石、完成作品が並べられていた。
「園田先輩」
円先輩が園田先輩の名前を呼ぶ。
男性が振り返った。
園田先輩は背丈はそれほど大きくなく、色黒の人物だった。一見してどこにでもいる人である。
「お! 円じゃん。どうしたんだよ、こんなところに」
屈託のない笑顔だった。
「いま、この彫刻実習場に幽霊が出るという噂があるというので調査に来たんです」
円先輩は、わたしから訊いた噂話について説明した。
園田先輩は、う~ん、と考えた。
「いや、聞いたことないなぁ。ただ、この彫刻が動いているのは確かだよ」
園田は、隣にある先ほどまで削っていた黒い石柱をたたいた。
石柱は二メートル程であろうか、円先輩とあまり変わらない。
「この石柱がね、朝になると微妙に動いているんだ。全体が動いていることもあれば、回転して向きが変わっているときもあったんだ。何でだろうな?」
園田は腕組みをした。
円先輩と拓哉先輩は円柱を見回している。
円柱の一部には、いくつもの動物が彫られている。
「あの、園田先輩。この作品のタイトルってなんですか?」
わたしは興味で訊いてみた。
「これかい? これはまだ、ちゃんとは決めてないんだけど、もししっかりとしたタイトルを付けるとしたら『ユートピア』にしようと考えてる」
園田先輩はそういいながら、未完成石像に触れた。
「動物と人が等しく、自然の調和をもって共存し合う。これはそんな夢の物語を記しているんだ」
彫刻の中心には少女がおり、少女を囲むように様々な動物たちが彫られていた。石の黒さなど忘れ、そこには少女の透き通る肌の色、動物たちの毛の色や毛並、木々の葉の色・・・一つ一つ色が塗られているようだった。
見ている者を引きつける作品である。
(これで未完成なんだ―――)
わたしは、一瞬で引き込まれた。自分の描いている油絵が、いかに未熟なのか見せられたようである。
「いい彫刻だろ」
気づけば円先輩が傍にいた。拓哉先輩は園田先輩と何か話している。
「園田先輩は、元々は絵画学科で油絵を描いていたんだ。だけど、あるとき国立西洋美術館にあるオーギュスト・ロダン『地獄の門』を観て感動した。先輩は絵画学科から彫刻科に移籍したが、絵画学科にいたことで、特に生物の骨格を解剖学的に捉えることに長けていた先輩は、彫刻科でもその能力を発揮して、いろいろな作品を制作した。この石像もその一つだろう」
円先輩は『ユートピア』を撫でた。
「ロダンって、『考える人』のロダンですよね?」
わたしは尋ねた。
「そう。もともと『考える人』は『地獄の門』を構成する群像の一つだ。『地獄の門』は、そもそもダンテ・アリギューリーの『神曲』に登場する地獄に向かうために通らねばならない門だ。『神曲』では、作者であるダンテが詩人ウェルギリウスに導かれ、様々な地獄を巡る。『地獄の門』はそういった様々な地獄に苦しむ人たちを表現しているんだ」
先輩の説明を聞きながら、『ユートピア』を見た。穏やかで安らぎのある少女の姿が表現されていた。この表現の源点が、『地獄の門』だとは誰も気づかないだろう。
円先輩は石像の上や下までも調べている。
「おい、そっちは分かったか?」
見ると、実習場の外れにある小屋の前に拓哉先輩がいた。無造作に置かれている廃材を調べているようだ。
「OK! ちゃんと見つけたぜ!」
そういうと拓哉先輩は二本の角材を持ってきた。
角材を見ると、どちらも端から三十センチメートルほどのところが凹んでいた。
「ふむ……」というと、円先輩は顎に親指を当て、何かを考える姿で、周囲を歩き始めた。
石像の周囲を三周ぐらい回ると、後片付けをしていた園田先輩に話しかけた。
「先輩、石像はずっとあそこにあったんですか?」
「いや、あそこだよ」
そういいながら園田先輩が指さしたのは、先ほどまで拓哉先輩がいた小屋だった。
「あの小屋の前で作業してたんだけど、小屋の廃材が邪魔でね。三日くらい前にいまのところに移動させたんだ」
「そうだったんですね」
それから石像を二周ほどすると、今度はわたしに話しかけてきた。
「なぁ、お前の友達は他に何か言ってなかったか?」
わたしは(ポセイドン円め!)と心で呟くと「特に聞いてませんでしたが……」
と、あたり障りなく応えた。
円先輩は「そうか……」と呟くと、歩くのをやめ、その場で考え始めた。
部室に戻ったわたしたちは、自然と応接セットに腰を据えた。拓哉先輩がすぐにお茶を淹れてくれる。
円先輩は、実習場からずっと何かを考えている。ときどき声が漏れ出るが、何を言っているのかは分からない。
お茶をすすっていると、拓哉先輩の「あー!」という声が響いた。
「ごめん、お茶菓子がない」
項垂れる拓哉先輩。見ると円先輩もショックを隠し切れない表情をしている。
どうやらこの二人はお茶菓子で生きているらしい。
と、わたしはトートバックの中にチョコレートスナックがあるのを思い出した。
鞄から取り出す。
「え、いいの……?」
拓哉先輩がチョコレートスナックを両手で受け取りながら訊いてきた。
「どうぞ、どうぞ。こんなもので良ければいつでも」
先輩は感謝しながらスナックを皿に盛り付け、テーブルに置いた。
いつの間にか円先輩も座っている。
スナックを摘まみながら話す。
「先輩、分かりましたか?」
「ああ、今のところ八割だな」
「え? それじゃ幽霊じゃないんですね!」
「そうだ。だが、今は分からない点がある。それをどうつなげるかだ」
「ふ~ん」と部室に静けさが伝わった。
と、ドサッと何かが落ちた。見るとわたしのトートバックがソファーから落ちてひっくり返っていた。
「あちゃ~」慌ててバックを拾う。しかし、拾い方が悪かったのか、中身のほとんどが出てしまった。
リングファイル、クリアファイル、テキスト、筆記用具、色鉛筆、目薬、由里から借りたアルバム……。ブラックホール状態のバックをそろそろ整理した方がいいのかもしれないとは思った。
円先輩が、由里の猫のアルバムを手に取った。
「これは?」
「ああ、友だちの猫の写真です。見ますか?」
わたしはアルバムを開き、円先輩と拓哉先輩に見せた。
アルバムを最後まで見ると、円先輩は手を顔の前で合わせた。
どういう訳か分からないでいると、円先輩は言った。
「さあ、この事件を解決しよう」
*
二十二時。石彫実習場に通じる西門。そこに数名の男女が集まった。
集まったのは、わたし、円先輩、拓哉先輩、そしてお化けに怯えるカンナ。円先輩はなぜかカンナが必要だというので、嫌だというカンナをわたしが何とか説得したのだ。
校舎には人がいないのだろう。どこにも明かりが点いていない。
あたりは静けさに包まれており、夏の虫の鳴き声が響いている。
円先輩が時計を見た。
「そろそろだ。行くぞ」
「え⁉行くってどこへ?」カンナが怯えるように言う。
「石彫実習場にきまっっているだろう」
「うそ、うそ、うそ! だっているかもしれないし、幽霊」
「大丈夫だ。いたとしても、この幽霊はオレたちに危害は加えない」
なにか含みを持たせるようなセリフである。
カンナはまだ何か言いたげだったが、しばらくすると諦め、わたしの服の裾を掴んでついてきた。
四人は静かに歩いていく。
すると、しばらくして、ズッズッという音が聞こえ始めた。
例の幽霊の音だ。
カンナが叫びそうになるのを口をおさえて止める。
ゆっくりと、忍び足で移動する。
実習場に近づいた。音が大きく聞こえる。
わたしは周囲を見回した。
いた。石像の近くに人影が。幽霊ではない。
四人は一斉に立ち上がり、手に持っていたライトを点けた。
一瞬で周囲を光が包む。
光は『ユートピア』と人影を写しだした。
「え―――!」わたしとカンナは驚きのあまり大声を出した。
「由里! 何してんのあんた!」
そこにいたのは、角材を持って立ち尽くす由里だった。
「ち、違うの……、これは、その、」
由里は角材を持ちながらも、どうにか弁明しようと言葉を探していた。
幽霊の正体は由里だった。しかし、なぜ幽霊を?
困惑している一同をさておき、円先輩が前に出た。
「推理を披露する前に、やらなければならないことがある」そういうと、由里をじっと見た。
「園田先輩から石像を動かす許可はもらっている。だから今だけはお前の味方になる。石像を動かしたら、すぐに取れ」
由里は困惑しながらも頷いた。
そういうと、円先輩は拓哉先輩と一緒に角材を持つと、『ユートピア』の下の隙間に差し込み、バランスを取りながら少しずつ動かし始めた。
二人は今まで見たことのない形相である。由里は屈んで下を見ている。
しばらくして、「あっ」と言ったかと思うと、由里の手には銀色の何かが握られていた。
そして由里は身をひるがえすと走り出した。
円先輩と拓哉先輩は息を切らしよろよろになっていた。
「先輩たち、しっかりしてください! 由里を追いかけますよ!」
わたしは思いっきり二人のお尻を叩くと、先頭きって走り出した。
カンナはお化けの恐怖からは解放されたが、何がどうなっているのか分からないという表情でいる。
由里は大学の南門から出て右に百メートルほど行った秋闘駅にいた。秋闘駅にはまばらにしか人影はいない。
ロッカールームに入ると、由里は一つのロッカーに鍵を差し込んだ。
カチリ。
扉が開いた。
そこには茶色と白の斑点の毛におおわれた、小さな猫がいた。寝ているのか何も反応が無い。
由里はそっと猫を取り出した。ゆすってみる。反応が無い。
「由里!」
わたしたちはようやく由里に追いついた。しかし、その由里の表情は混乱そのものだった。
「ミホ、カンナ……ど、どうしよう。全然起きない」
そういい、腕に抱えた猫を見せてきた。カンナが真剣な表情で「とにかく動物病院に行きましょう。ええと、この近くは……」
スマホを取り出して検索するが近くには見当たらない。電車を乗り継いでいくしかないらしい。
「そんな」青ざめる三人の表情を見て、円先輩が溜息をついた。
「ここから右に三〇メートル行って、左に曲がると、ネットにも載っていない二四時間の動物病院がある。そこに行け」
わたしたちは礼も忘れて走り出した。いまは先輩の情報に頼るしかない。
そこに動物病院はあった。だいぶ年季のある病院だったが、治療は丁寧だった。訊くと、院長がインターネットを使えないため、ネットには公表していないのだそうだ。
猫は栄養失調を起こしており、二~三日の入院が必要だという。
わたしたちは猫を病院に預け、一先ず駅に置いてきた先輩たちと合流した。それから、近くのファミレスに寄った。
席に着き、それぞれ適当に注文する中、拓哉先輩だけメガステーキ丼を注文してウキウキしていた。しかし、円先輩から「別払いだからな」と告げられると「うそぉ⁉」とショックを受けていた。
一息ついたとき、由里が切り出した。
「みなさん、ご迷惑かけて申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる。テーブルにつきそうなほどに。
わたしは訊いた。
「由里、どうしてこんなことを?」
由里はわたしたちの目を見た。
「実は、わたし犬、嫌いなんだ」
「……は?」
「でも、由里の家はゴールデンレトリバーを二匹も飼ってるじゃん」
「それはそうなんだけど、実は小さい頃に思いっきり噛まれたことがあって、それ以来犬にはトラウマを抱えているんだ。でもお父さんやお母さんが可愛がっている犬を嫌だって言えなくて」
「そうなんだ」
「じゃぁ、あの猫はどうしたの?」
「あの猫ね、大学で拾った。ほら、うちの大学って広いじゃん。どっからか入り込んだみたいでさ。あんなに小っちゃくて、本当は母猫と一緒じゃなきゃいけないのに一匹で道の上でミャー、ミャーって鳴いててさ。普通の学生のアパート暮らしじゃペットは無理だけど、実家暮らしのわたしならどうにかなるかもって思って、拾ったのが始まり」
由里は視線を傾けた。
「でも、わたしには家族に相談する勇気がなくて。拾ったはいいけど、家族に打ち明けられずに右往左往してたんだ。そのうち、(しばらくのうちなら……)と思って駅のコインロッカーで飼いだしたんだ。一週間ぐらいはそれでよかった。でも三日前にアクシデントが起こったの……」
「アクシデント?」
「石彫実習場を通ったときに、ロッカーの鍵を知らないうちに落としたらしくて。急いで探したときには、鍵の真上にあの石像があったの」
「それならわたしたちに言ってくれれば、取り出すのとか手伝ったのに」
カンナが語りかけるも由里は首を振る。
「コインロッカーでのペットの保管は約款などで禁止されてる。もしかしたら違法行為で処罰されるかもしれない。そんなことに友達を巻き込むなんて、わたしにはできない」
由里のことばは力強かった。
「でも、結局は自力ではあの石像を動かすことができなくて、幽霊騒ぎにはなるし、猫をもう少しで殺してしまうところだった。本当に猫には申し訳ないことした」
由里は、こらえていた涙を流した。わたしとカンナは、そんな由里を優しく受け止めた。
「そういえば、円先輩。いつから由里だと分かったんですか?」
「はじめ、園田先輩に幽霊話について訊いたとき、先輩は知らないと答えた。妙じゃないか? 自分の石像についての噂なのに全く知らないなんて」
「まぁ、確かにそうですね」
「ということは、幽霊話はお前とお前の周辺でしか広まっていない。ということは犯人もお前に近い人物だと考えた」
ポセイドン円は続ける。
「それを裏付けたのは、石像の移動距離と角材の凹み具合だ」
「?」
「さっきの様子を見ただろ。オレと拓哉が石像を押したところを。角材は凹むんじゃなくて、ほとんど折れてしまうし、男が力いっぱい出せば数センチは動かすことができる。しかし、調査をしたときの現場の状況からして、犯人は女性の可能性が高かった。これもお前の関係人物であることを色濃くした理由だ」
「そうだったんですか。でも、よく鍵とか猫のこととか分かりましたね」
「そこについては先に結果を考えた。この事件の終着点は何なのかを。それを教えてくれたのは、お前が見せてくれたアルバムさ」
「アルバム? でもあれはカンナの物ですよ」
「そう。あれはカンナさんのだ。しかし、それならなんで由里さんのアルバムはないんだ? 同じペット愛好家なのに。そこで仮に考えたのが〈由里さんは犬の愛好家ではない〉だ。そんな由里さんが猫を見つけたら――。そこは本人が話してくれた通りだ。そこからは、彼女の思考を逆方向に考えていった。それだけだ」
わたしは感心した。この人はあった事もない人物の思考さえもたどることができるのだ。
泣き止んだ由里が顔を上げる。
「あの猫、どうしよう」
沈む三人。と、
「自分の家で飼え」
そう言ったのは円先輩だった。腕組みをしたその姿は威圧感さえ放っている。
「わ、わたし」
「当たり前だ。他に誰がいる」
「でも、わたしの家は、」
「家の事情なんて知るか。まずは自分の気持ちに正直になって見ろ。あの猫をまた命の危険に晒すのか? 違うだろ、あいつの命を守りたくて拾ったんだろ。あいつは母猫とはぐれ、命からがら拾ってくれたお前を頼りにいまを生きているんだ。拾った命をみすみす捨てるな」
由里の眼には力が宿り始めた。
「命もまた、一瞬の芸術なんだ」
*
わたしはノックをしてから部室に入った。
「失礼しまーす」
「お、ミホちゃん、どうぞー。いまお茶淹れるね」
拓哉先輩は元気いっぱいだ。メガステーキ丼は二五〇〇円もしたはずなのに。
奥には円先輩がいた。今日は新書であろうか、彼にしてはコンパクトな本を読んでいる。
ソファに座ると、早速お茶を置いてくれた。
わたしはトートバックから紙袋を取り出し、食器棚にある皿に盛りつけた。
「先輩たち、どうぞ」
皿をテーブルに置く。
先輩たちはソファに座り、皿に盛られたものを一つ摘まんだ。猫の形をしたマーブル模様のクッキーである。
「でで助そっくりに作りました」
「でで助?」
「はい、由里の猫です。名前を「でで助」にしたんです」
由里はその後、家族に自分の心境を語った。犬にかまれたこと、犬が嫌いなこと、そのことで葛藤してきたこと、猫を拾ったこと、打ち明けられなかったこと、ロッカーで飼っていたこと、死なせてしまいそうになったこと……。
由里の両親は突然の打ち明けだったにもかかわらず、猫の命を救いたいと願う由里の気持ちを受け入れ、飼うこと了承してくれたのだという。
でで助クッキーは瞬く間になくなっていく。
「そういえば円先輩、動物病院はいつの間に調べたんですか?」
円先輩はお茶をすする。
「オレの趣味は地域散策なんだ。地図に載っていない店とか、公共施設とかを探すのが好きでな。あの動物病院も、大学入学したてのときに見つけたんだ」
「へ~、意外。結構アウトドア派な趣味を持ってるんですね」
拓哉先輩が入ってくる。
「円はいろんな趣味を持ってるんだよ。今回は役に立ったなぁ~」
円先輩の背中をバンバン叩く。
クッキーが残り一枚となり、二人の間に火花が散る。
最後のでで助クッキーはじゃんけんの景品とされ、二人だけのじゃんけん大会が繰り広げられている。
ピロリ~ン。
スマホを見るとメールの着信があり、写真が添付されていた。
写真を見た。
写真には、退院したばかりのでで助と頬を擦り合わせる満面の由里の笑顔があった。
(了)