創生の女神ラケティアは、慈愛に満ちた女神である。
しかし、ひとたび腹に据えかねると烈火のごとく怒り狂う。
女神の意に反した存在は、もれなく完膚なきまでに叩きつぶされる。
女神の怒りに触れてはならない。
――と、中庭にある女神像の台座には、古代語で刻まれていた。
◇ ◇ ◇
とある大陸の南に、自然豊かな大地と大陸有数の商業港を持つロマリア王国はあった。
国王を君主とする王政国家には、成人前の王侯貴族が通う学園があり、多くの子息令嬢が、原則三年間の寮生活を過ごす。
王国の守り神である女神ラケティアにちなんで名づけられた
〖王立デラ・ラケティア学園〗
王都から一時間ほどの海沿いに位置し、芸術と花の都と呼ばれる地方都市にある学び舎。
その中庭、女神像の前――
黄金の瞳をギラつかせ、女神とおなじ蒼銀の美しい髪を風になびかせた侯爵令嬢イザベラ・ギルガルドがいた。
両腕を組んだその姿は、だれが見ても怒りに満ちている。
なにぶん彼女の怒りは、突発的なものではなかった。
笑顔の裏で散りに積もって山となり、忍耐に忍耐を重ね、
「もういい。これまでよ」
燃焼温度で炎が赤から青に変わるように、彼女の内なる炎がメラメラと燃え盛った。
きっかけは、30分前。
放課後、学園内で恋を楽しむ男女が集う温室のテラスにて、王国の第二王子でありイザベラの婚約者・クリストファーと子爵令嬢ミラ・ミラーラとの、通算50回目となる逢瀬を目にしたことだった。
周囲の視線をはばかることなく顔を寄せ合い、談笑する姿はもはや、この学園にて、あたり前の風景となりつつある。
イザベラへの気遣いなど、恋するふたりには皆無で、ある意味、外部からの目が届きにくい閉鎖的な学園内で、やりたい放題の状態であった。
阿呆である。
成人前の子息令嬢とはいえ、貴族社会においては、あり得ないことだった。
とくに第二王子クリストファーは、王族として貴族の模範とならなければならない立場であるにもかかわらず、ここ二年ほど、この愚行をつづけている。
この怒りを、まだイザベラが胸の内に秘めていたころ。
二度、三度となく、婚約者クリストファーに面と向かって苦言を呈した。
婚約者として、忠臣としての進言でもあった。けれども――
「王家に、侯爵家が口出しをするな」
最初から最後まで不機嫌なクリストファーからは、毎回、おなじ言葉が返された。
そうして、そのたびに婚約者イザベラに対するクリストファーの態度は冷たくなり、扱いも日増しにぞんざいなものとなっていった。
ここ最近は、廊下で顔を合わせても、視線すら合わせてもらえない。その反面、子爵令嬢ミラーラには微笑みを浮かべて、「ミラ」と親しげに呼びかける。
はた目から見れば、もうどっちが婚約者か……というような状況だった。
三年間の学園生活も、今年で最後となる。
この二年間、自分は耐えに耐えたと思う。なるべく問題にならないようにと気を配り、第二王子クリストファーの体面を保つよう努めてきた。
しかし、それらがすべて、冷たい言動、横柄な態度となって、婚約者クリストファーから自分に返されてくるならば――
学園内の中庭。
女神像の前で仁王立ちしたイザベラは、内なる燃焼温度をあげた。
「聡明で慈悲深く、耐え忍ぶだけの婚約者でいる必要は――ひとつもないわ」
本来の自分に、戻るときがやってきたのを感じた。
「権力をかさにきる不道徳な行いを正し、正義をつらぬくためならば、わたしは喜んで悪役になりましょう」
「その通りよ。やっと決心がついたのね。イザベラがイザベラらしくあるべきだと、わたくしはずっと思っていました」
イザベラのとなりには、おなじく仁王立ちする公爵令嬢ロザリンデ・ガルディアがいる。
侯爵令嬢イザベラと公爵令嬢ロザリンデ。
ふたりはそう遠くはない過去、王国の王太子ルイスの婚約者候補同士だった。
しかし、ちょうど二年前。学園への入学を間近に控えたころ。
西の強国イストリアの可憐な王女殿下マリアンローゼと王太子ルイスの婚約が成立。
政治的な思惑があったその後、イザベラは、第二王子クリストファーの正式な婚約者となり、ロザリンデは東方にある大帝国の第二皇子との婚約が成立した。
ロザリンデは来年、学園を卒業すると同時に、東方の帝国に嫁ぐことが決まっている。
王太子ルイスの婚約者候補として競い合うべき立場であったふたりだが、元々は互いの実力を認め合う仲だった。
家門を背負った婚約者候補という立場ではなくなり、入学した王立デア・ラケティア学園で、入学の日より、ふたりは意気投合。
いまでは、大親友である。
そのロザリンデもまた、大親友イザベラに対するクリストファーの所業には、
今日、女神ラケティアを見上げ、『耐え忍ぶだけの令嬢』との決別を宣言したイザベラを見て、王家に次ぐ、高貴な家柄である公爵家の令嬢ロザリンデは、笑みを浮かべた。
「イザベラの好きにおやりなさいな。あとのことは……そうね、わたくしに任せるといいわ。それに、貴女が立つとあれば、わたくし以外にも黙っていられない者が現れるでしょうし……ふふふ、楽しくなりそうよ」
黄金に輝く豪奢な巻き髪が揺れる。
「ひとつ、確認だけさせてちょうだい」
「何かしら」
「貴女と愚殿下の婚約は王令によるもの。その愚殿下との婚約を解消するという流れでいいのよね」
「もちろんよ」
「それを聞いて安心したわ。それならば、政治的な根回しが不可欠になるわ。ここは、宰相であるわたしくのお父様の御力を借りましょう。それが、もっとも迅速かつ隠密に、婚約解消へと話がすすむでしょう。あとは貴女が、そのきっかけを作ればいいだけ」
「ありがとう、ロザリンデ。貴女という親友がいて、わたしは本当に幸せだわ」
「礼など不要よ、イザベラ。貴女の力になれる日を、わたくしは虎視眈々と待っていたのだから。それこそ、牙を研ぎながら……ふふふ」
黄金の睫毛に縁どられた炎のような赤い瞳を燃え上がらせる公爵令嬢の手を、イザベラは取った。
「ロザリンデ、貴女の想いに必ず応えるわ。わたしは今世紀最大の悪役令嬢と罵られようとも、この手で、クリストファー殿下の鼻っ柱を叩き折って、正義を貫くと誓うわ」
すべてを吹っ切り、晴れやかな顔となったイザベラは、慈悲深い令嬢の仮面を葬り去った。
王国一の才媛に、冷酷無比な素の表情が戻ってくる。
「まずは――悪役令嬢たるもの。今後の立場をしっかりと表明しておかないとね」