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第14話 彼女には俺しかいない


深夜。


羽菜は指の痛みに何度も目を覚まし、寝返りを繰り返した末、ようやく浅い眠りに落ちかけていた。


そのとき――

智也がそっと彼女を抱きしめた瞬間、枕元のスマホが震えた。

彼は羽菜を起こさぬよう、すぐにスマホをマナーモードにし、彼女の首元に回していた腕をそっと抜いて外へ出ようとする。


けれど、腕が半分ほど抜けたところで、羽菜が薄く目を開け、眠たげに囁いた。


「……どうしたの?」

「ちょっと電話がきて」

「ここで出ていいよ。外寒いから」


智也は小さく頷き、スマホを耳に当てた。

「輝? 何かあった?」


電話の相手、有栖川輝は玲奈の兄。いつもは落ち着いた彼の声が、どこか申し訳なさそうに沈んでいた。


「こんな夜中にすまない。……玲奈が誰かに襲われた。ハンマーで手をやられて、左手の指四本が粉砕骨折だ。状態も良くない。今……泣きながら、どうしても君に会いたいって」


智也の顔がわずかにこわばり、体を起こす。


「いつの話だ?」

「……二時間前」

「わかった。すぐ行く」


電話を切ると、智也は無言でパジャマのボタンを外し始めた。

その仕草を見て、羽菜の胸にきゅっと痛みが走る。

彼が向かう先がどこか、もうわかっていた。


思わず、羽菜は智也の腰にしがみつき、顔を彼の胸元に埋めた。

智也は手を止めて、羽菜の頭をそっと撫でる。


「大丈夫だよ。顔だけ見て、すぐ戻るから」


羽菜は離れなかった。

震える声で、ぽつりと呟く。


「……夜が明けるまで、待ってくれない?」


智也の眉が少しだけ寄る。


「いつもは分別あるのに。今日はどうしたんだ?」


羽菜は、心の中で――今日くらい、私を選んでほしかったのにと叫んだ。

けれど、それを言葉にはできなかった。


いつまで経っても離れようとしない羽菜の手を、智也はそっと外して服を着替え、部屋を出ていった。


羽菜は閉じられたドアを呆然と見つめた。

胸の奥で何かが崩れた音がした。


指の痛みに顔をしかめながらベッドを降り、ドアに鍵をかける。

ベッドに戻ると、瞼の奥に涙がじわりとにじんだ。




智也が病院に着くと、玲奈は手術を終えたばかりで、ベッドの上で小さく丸まっていた。

左手にはぎこちない添え木が当てられ、腫れ上がった指が痛々しく見えた。


母の美津子は顔を覆って泣き崩れ、父は病室の外で黙って煙草をくゆらせていた。

智也の姿を見つけた輝が、有栖川輝がすぐに近づいてくる。



「こんな遅くに……本当にすまない」

「気にするな」


智也は玲奈のベッドへと歩み寄り、優しく声をかけた。


「……玲奈」

玲奈は虚ろな目を開き、智也の顔を見た瞬間――

子どものように泣き崩れた。


「ううっ……智也……っ、手が……!」


智也はベッドの端に腰を下ろし、玲奈の肩を優しく叩いた。

「泣くな、しっかりしろ」


それでも玲奈は、壊れたレコードのように「手が……もう、手が……」と繰り返し、涙を止めようとしない。


――そのとき、智也の脳裏に浮かんだのは、

さっきの羽菜の、泣きたいのに必死に堪えていた、あの潤んだ瞳だった。


彼はポケットからハンカチを取り出して、玲奈の涙を拭ってやる。

それでも、玲奈は泣き止まない。

ずっと彼の手を強く掴み、懇願するような目で見上げてくる。


智也はイライラしながら時計を見た。

もう一時間もここにいる。


少し考えてから、財布を取り出し、病室のテーブルにカードを置いた。


「少しだけど、これで必要なものを買って。暗証番号は618618。羽菜が待ってるから…先に帰るよ」


玲奈は呆然としながら、しゃくりあげる声で言った。


「……こんなときに、帰るの……?」

「ああ。明日また来るよ」

「お願い、行かないで……お願い……」


玲奈は涙を溜めながら、智也の手をぎゅっと握りしめた。

智也はしばらく何も言わず、その手をそっと引き抜いた。


「……君には家族がいる。でも、羽菜には俺しかいないんだ」


玲奈の目がカッと見開かれ、悔しそうに詰め寄る。

「羽菜さんにもお母さんいるでしょ?」

「祖母が入院してて、母は付きっきりで看病してる」


玲奈は絶望したように目を伏せ、唇を噛んだ。

「……変わったね、あなた……。前は私が熱出したら、一晩中ついててくれたのに……!」


そして再び、子どものように泣き出した。

背後から輝が低く声をかける。


「智也、もう帰っていいよ。玲奈には俺たちがいる」


智也は頷き、ゆっくりと立ち上がった。

「誰がやったんだ? 犯人は捕まったのか?」


輝は首を横に振る。


「いいや。地下駐車場で車から降りた直後にやられた。ハンマーで左手だけ……他には触れられてない。バッグも無事。――ただの私怨だ」


智也は黙って思案し、やがて言った。


「……俺の方でも調べてみる」

「いや。警察に任せてくれ。もう十分だ。ありがとう、智也」

「わかった」


智也は軽く頭を下げ、病室を後にした。

ドアが閉まったその瞬間、玲奈は枕を掴み、それを床に叩きつけた。


「十年以上の幼なじみなのに……!たった三年の女に負けたのかよっ!!」


輝は無言で枕を拾い上げ、ベッドに戻すと、冷静に言い放った。


「……あの子は智也が一番つらいときもずっとそばにいてくれたんだ。人の本性は、苦しいときに出る。君の十年じゃ、その三年には敵わないさ」

「なんで……! なんでお兄ちゃんまであの女の味方なの!」

「味方じゃない。事実を言ってるだけだ」


玲奈はその場に崩れ落ち、泣きじゃくった。

すると父親が渋い声でぼそりと呟く。


「……輝、もうやめておけ。妹の手がこんなことになってるんだぞ」




智也が戻ると、病室のドアが開かない。


鍵がかかっていた。

何度ノックしても反応はない。電話にも出ない。


智也は眉間を押さえ、付き人に開錠を依頼した。


数分後、鍵が開く。


中に入ると、羽菜はベッドに背を向けて横たわっていた。

智也は無言でその体を強く抱きしめる。


羽菜は身をよじって逃れようとするが、力が入らない。

真っ赤に腫れた目で彼を見つめ、冷たい声で告げた。


「……明日、離婚届を用意して」


智也はしばらく黙っていたが、やがて一言だけ呟いた。

「……もう寝よう」


朝。

いつもと同じように並べられた朝食の席に、二人が座る。

智也は羽菜の頬に手を伸ばし、優しく撫でる。


「午前中は会議だけど、昼には戻るよ。一緒に昼ごはん食べよう」


羽菜は顔をそむけ、低く言った。

「いい。……離婚届、忘れないで」


智也は表情を曇らせた。

「おばあちゃんの体調も良くないし、君の手だって、まだ……少し落ち着いてからにしよう」


そう言い残して、彼は病院を出ていった。


昼頃。

ボディーガードがノックする。


「奥様。有栖川美津子様がいらっしゃっています」


羽菜は数秒の沈黙ののち、静かに言った。


「……通して」


扉が開くと、美津子が腫れぼったい目でずかずかと入ってきた。

その目は怒りと涙に濡れ、羽菜を睨みつけていた。

そして、低く鋭く言い放つ。


「――あんたでしょ」


羽菜はきょとんとした顔で首を傾げた。


「何がです?」

「玲奈の手をやったの、あんたしかいないでしょ!!」


羽菜の表情が一瞬だけ強張ったが、すぐに元の落ち着きを取り戻した。


「違いますよ」

「嘘つけぇっ!」


美津子は羽菜の胸ぐらを掴み、絶叫する。


「男を奪っただけじゃ足りないの!?あの子の手まで壊して、未来を潰して……!!あんたみたいな女、最低よ!化け物!泥棒猫!」


怒声と罵声が部屋に響き渡る。

ボディーガードが慌てて美津子を引き離すが、それでも彼女は「田舎者!下品女!ビッチ!!」などと罵り続ける。



羽菜は黙って七、八分ほど罵倒を聞き流した。

やがて静かに立ち上がると、ボディーガードに言った。


「……ちょっと、どいて」


一瞬ためらいながらも、彼は手を離す。


羽菜はベッドサイドの水の入ったコップを手に取ると――

ためらいなく、美津子の顔めがけて投げつけた。


ガンッ!


乾いた音とともに、ガラスが美津子の鼻を直撃し、赤い血が噴き出す。

羽菜は一歩踏み出し、冷たく、鋭く言い放った。


「――出てって」



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