深夜。
羽菜は指の痛みに何度も目を覚まし、寝返りを繰り返した末、ようやく浅い眠りに落ちかけていた。
そのとき――
智也がそっと彼女を抱きしめた瞬間、枕元のスマホが震えた。
彼は羽菜を起こさぬよう、すぐにスマホをマナーモードにし、彼女の首元に回していた腕をそっと抜いて外へ出ようとする。
けれど、腕が半分ほど抜けたところで、羽菜が薄く目を開け、眠たげに囁いた。
「……どうしたの?」
「ちょっと電話がきて」
「ここで出ていいよ。外寒いから」
智也は小さく頷き、スマホを耳に当てた。
「輝? 何かあった?」
電話の相手、有栖川輝は玲奈の兄。いつもは落ち着いた彼の声が、どこか申し訳なさそうに沈んでいた。
「こんな夜中にすまない。……玲奈が誰かに襲われた。ハンマーで手をやられて、左手の指四本が粉砕骨折だ。状態も良くない。今……泣きながら、どうしても君に会いたいって」
智也の顔がわずかにこわばり、体を起こす。
「いつの話だ?」
「……二時間前」
「わかった。すぐ行く」
電話を切ると、智也は無言でパジャマのボタンを外し始めた。
その仕草を見て、羽菜の胸にきゅっと痛みが走る。
彼が向かう先がどこか、もうわかっていた。
思わず、羽菜は智也の腰にしがみつき、顔を彼の胸元に埋めた。
智也は手を止めて、羽菜の頭をそっと撫でる。
「大丈夫だよ。顔だけ見て、すぐ戻るから」
羽菜は離れなかった。
震える声で、ぽつりと呟く。
「……夜が明けるまで、待ってくれない?」
智也の眉が少しだけ寄る。
「いつもは分別あるのに。今日はどうしたんだ?」
羽菜は、心の中で――今日くらい、私を選んでほしかったのにと叫んだ。
けれど、それを言葉にはできなかった。
いつまで経っても離れようとしない羽菜の手を、智也はそっと外して服を着替え、部屋を出ていった。
羽菜は閉じられたドアを呆然と見つめた。
胸の奥で何かが崩れた音がした。
指の痛みに顔をしかめながらベッドを降り、ドアに鍵をかける。
ベッドに戻ると、瞼の奥に涙がじわりとにじんだ。
智也が病院に着くと、玲奈は手術を終えたばかりで、ベッドの上で小さく丸まっていた。
左手にはぎこちない添え木が当てられ、腫れ上がった指が痛々しく見えた。
母の美津子は顔を覆って泣き崩れ、父は病室の外で黙って煙草をくゆらせていた。
智也の姿を見つけた輝が、有栖川輝がすぐに近づいてくる。
「こんな遅くに……本当にすまない」
「気にするな」
智也は玲奈のベッドへと歩み寄り、優しく声をかけた。
「……玲奈」
玲奈は虚ろな目を開き、智也の顔を見た瞬間――
子どものように泣き崩れた。
「ううっ……智也……っ、手が……!」
智也はベッドの端に腰を下ろし、玲奈の肩を優しく叩いた。
「泣くな、しっかりしろ」
それでも玲奈は、壊れたレコードのように「手が……もう、手が……」と繰り返し、涙を止めようとしない。
――そのとき、智也の脳裏に浮かんだのは、
さっきの羽菜の、泣きたいのに必死に堪えていた、あの潤んだ瞳だった。
彼はポケットからハンカチを取り出して、玲奈の涙を拭ってやる。
それでも、玲奈は泣き止まない。
ずっと彼の手を強く掴み、懇願するような目で見上げてくる。
智也はイライラしながら時計を見た。
もう一時間もここにいる。
少し考えてから、財布を取り出し、病室のテーブルにカードを置いた。
「少しだけど、これで必要なものを買って。暗証番号は618618。羽菜が待ってるから…先に帰るよ」
玲奈は呆然としながら、しゃくりあげる声で言った。
「……こんなときに、帰るの……?」
「ああ。明日また来るよ」
「お願い、行かないで……お願い……」
玲奈は涙を溜めながら、智也の手をぎゅっと握りしめた。
智也はしばらく何も言わず、その手をそっと引き抜いた。
「……君には家族がいる。でも、羽菜には俺しかいないんだ」
玲奈の目がカッと見開かれ、悔しそうに詰め寄る。
「羽菜さんにもお母さんいるでしょ?」
「祖母が入院してて、母は付きっきりで看病してる」
玲奈は絶望したように目を伏せ、唇を噛んだ。
「……変わったね、あなた……。前は私が熱出したら、一晩中ついててくれたのに……!」
そして再び、子どものように泣き出した。
背後から輝が低く声をかける。
「智也、もう帰っていいよ。玲奈には俺たちがいる」
智也は頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「誰がやったんだ? 犯人は捕まったのか?」
輝は首を横に振る。
「いいや。地下駐車場で車から降りた直後にやられた。ハンマーで左手だけ……他には触れられてない。バッグも無事。――ただの私怨だ」
智也は黙って思案し、やがて言った。
「……俺の方でも調べてみる」
「いや。警察に任せてくれ。もう十分だ。ありがとう、智也」
「わかった」
智也は軽く頭を下げ、病室を後にした。
ドアが閉まったその瞬間、玲奈は枕を掴み、それを床に叩きつけた。
「十年以上の幼なじみなのに……!たった三年の女に負けたのかよっ!!」
輝は無言で枕を拾い上げ、ベッドに戻すと、冷静に言い放った。
「……あの子は智也が一番つらいときもずっとそばにいてくれたんだ。人の本性は、苦しいときに出る。君の十年じゃ、その三年には敵わないさ」
「なんで……! なんでお兄ちゃんまであの女の味方なの!」
「味方じゃない。事実を言ってるだけだ」
玲奈はその場に崩れ落ち、泣きじゃくった。
すると父親が渋い声でぼそりと呟く。
「……輝、もうやめておけ。妹の手がこんなことになってるんだぞ」
智也が戻ると、病室のドアが開かない。
鍵がかかっていた。
何度ノックしても反応はない。電話にも出ない。
智也は眉間を押さえ、付き人に開錠を依頼した。
数分後、鍵が開く。
中に入ると、羽菜はベッドに背を向けて横たわっていた。
智也は無言でその体を強く抱きしめる。
羽菜は身をよじって逃れようとするが、力が入らない。
真っ赤に腫れた目で彼を見つめ、冷たい声で告げた。
「……明日、離婚届を用意して」
智也はしばらく黙っていたが、やがて一言だけ呟いた。
「……もう寝よう」
朝。
いつもと同じように並べられた朝食の席に、二人が座る。
智也は羽菜の頬に手を伸ばし、優しく撫でる。
「午前中は会議だけど、昼には戻るよ。一緒に昼ごはん食べよう」
羽菜は顔をそむけ、低く言った。
「いい。……離婚届、忘れないで」
智也は表情を曇らせた。
「おばあちゃんの体調も良くないし、君の手だって、まだ……少し落ち着いてからにしよう」
そう言い残して、彼は病院を出ていった。
昼頃。
ボディーガードがノックする。
「奥様。有栖川美津子様がいらっしゃっています」
羽菜は数秒の沈黙ののち、静かに言った。
「……通して」
扉が開くと、美津子が腫れぼったい目でずかずかと入ってきた。
その目は怒りと涙に濡れ、羽菜を睨みつけていた。
そして、低く鋭く言い放つ。
「――あんたでしょ」
羽菜はきょとんとした顔で首を傾げた。
「何がです?」
「玲奈の手をやったの、あんたしかいないでしょ!!」
羽菜の表情が一瞬だけ強張ったが、すぐに元の落ち着きを取り戻した。
「違いますよ」
「嘘つけぇっ!」
美津子は羽菜の胸ぐらを掴み、絶叫する。
「男を奪っただけじゃ足りないの!?あの子の手まで壊して、未来を潰して……!!あんたみたいな女、最低よ!化け物!泥棒猫!」
怒声と罵声が部屋に響き渡る。
ボディーガードが慌てて美津子を引き離すが、それでも彼女は「田舎者!下品女!ビッチ!!」などと罵り続ける。
羽菜は黙って七、八分ほど罵倒を聞き流した。
やがて静かに立ち上がると、ボディーガードに言った。
「……ちょっと、どいて」
一瞬ためらいながらも、彼は手を離す。
羽菜はベッドサイドの水の入ったコップを手に取ると――
ためらいなく、美津子の顔めがけて投げつけた。
ガンッ!
乾いた音とともに、ガラスが美津子の鼻を直撃し、赤い血が噴き出す。
羽菜は一歩踏み出し、冷たく、鋭く言い放った。
「――出てって」